仕切り直しの聖夜に、最大の感謝を。
『テガミ ──The short tales of LETTERs──』
「第5話 それでもいつか」より
雪は、降りやむことを知る様子がなかった。
次々と天から降りてきては、地上の光に照らされて白く輝き、それがまた地上を明るくする。蛍雪の功とは、よく言ったものである。
そうでなくても全域が不夜城のような東京が、今日はいっそう白く輝いていた。池袋も八王子も、どこもかしこも。
だが、雪には照らすことの叶わない場所も存在する。屋根の下という意味ではなく、光が照っても明るくならないという意味で、だ。
例えば、葛飾区の東京拘置所。
例えば、府中市の府中刑務所。
クリスマスイブのお祝いなど、壁の中ではささやかなものだ。場合によっては祝うほどの余裕すらなく、戦々恐々とした日々を送る者もいるだろう。
特に拘置所などは、独特の殺伐とした空気が全く抜けきらなかった。
しかし。
明日──クリスマス当日の釈放が確定していた者には、むしろ喜ぶなと言う方が難しいに違いない。
「やっと……だね」
「うん。やっとだよ」
大きく首を振って見せると、高砂笙子は感極まったのか顔を歪ませた。
「よかった……よかったぁ……」
「お、おい泣くなって……。まだ出てきた訳じゃないんだからさ」
「だってぇ……!」
あふれる涙を、笙子は必死に拭おうとする。このアクリル板がなければ拭き取ってやれるのにと、金町瑞季は地団駄でも踏みたい気分だった。二人を隔てる壁は、未だ分厚いのだった。
瑞季と笙子は、同居生活を送る恋人同士だ。
去年のクリスマスイブ、それは起きた。瑞季の運転する車の目の前に突如、動かない人が倒れてきたのだ。駆けつけた警察は瑞季が交通事故の犯人だと勘違いし、誤解を受けたまま瑞季は現行犯で逮捕された。そうして、一年もの間に渡って拘留され続けていたのだった。
ただ、事故には不可解な点がいくつもあり、捜査や審理に時間がかかってしまった。冤罪が晴れるまでにこれだけの時間を要してしまったのには、そんな背景がある。
証拠集めのため、警察は当然のように自宅にも踏み込んできた。が、どれだけ物を漁っても、どんなに事故現場や車輌を調べても、瑞季を犯人とする決定的な証拠は見つからなかった。そしてついに昨日の審理で瑞季の無罪が確定し、晴れて瑞季は拘置所を出ることを許されたのだ。
「ごめんな、心配かけて。もうこれで、終わりだから」
瑞季の言葉に、笙子は何度も頷く。
遅いよと警察や検察をなじる気はもう、起こらなかった。審理も終わったせいだろうか、瑞季の心中は不思議なくらい穏やかだ。
「……結局、どういうことになったの?」
尋ねる笙子。「私、昨日は言ってたことがよく分からなくて」
「簡単だよ。俺の車の一台前にいたやつが、防犯カメラの解析で見つかったんだ。で、その車を都内で確保して調べたら血痕が見つかったらしいよ」
「じゃあ……事故を起こしたのはその車だったんだね」
「ああ、運転手が轢き逃げを自白したんだってさ。これからはそいつが捜査を受けることになるんだろうな」
「警察の人たち、ひどいね……。一年間も瑞季のこと閉じ込めてたのに、謝りの一言も言わないなんて……」
頬を拭いながら、笙子は嗚咽混じりの憤怒の声を出す。
笙子だって苦しかったのだ。大切な恋人を奪われただけでなく、プライベートにも容赦なく踏み込まれた。家宅捜索の様子を間近で目にすることは、審理を受けるだけの身よりもよほど堪えたはずだ。
「仕方ないよ、今さら言ったって謝ってもらえるとは思えない」
「でも、あれのせいで瑞季、仕事も失って……」
「そんなもの、どうにでもなるよ。笙子のもとにいたら俺、何だってできる。再就職できるまで頑張るさ」
「……うん」
「……ありがとな、笙子」
瑞季は居住まいを正した。アクリル板の向こうの笙子の表情までもが、堅くなった。
笙子の頬は痩せ、哀しそうではあった。だが、その瞳の輝きは以前よりずっと強く、強くなっている。この彼女に自分は救われたのだと、瑞季ははっきりと自覚していた。
逮捕されて数ヵ月が経った頃、笙子は手紙を送ってきてくれたのだ。
それには瑞季がいない寂しさと悲しみと、それでも前を向こうと励ます心が、ぎゅっと詰め込まれていた。
「俺、一度は諦めかけた。もう俺は冤罪のまま牢屋行きなのかなって思ってたよ。それでもいいや、何がどうなったって知ったことかって自暴自棄になってた。笙子が手紙をくれたから、目が覚めた。抵抗しよう、ちゃんと証言台に立とうって思えたんだ。笙子がいなかったら、俺……」
そこから先は言葉にならなくて、ただ瑞季は黙って頭を下げた。
「……頭、上げてよ」
笙子の透き通った声が、テーブル越しに聞こえる。
「私は瑞季の彼女だよ? 大好きな人に励ましの一言もかけないで、どうしろって言うの? 私は私にできることを、しただけだよ」
テーブルに逆さまに映る笙子は、笑っていた。その目尻にまたじわりと涙が浮かんだのを発見して、瑞季は慌てて顔を上げる。
気のせい……だったみたいだ。
笙子はくすんと鼻を鳴らすと、言葉を続けた。
「……それにね、私。瑞季がいなくなった時間のおかげで、色んなことに気づけた。私にとって瑞季がどんなに大切な存在だったか、改めて気づかされたの。瑞季がいなきゃ愚痴も言えないし、甘えられない。私は思ってたよりずっと、瑞季に依存してたんだね。寂しくて、孤独になりたくなくて、私も時々もう諦めようかって思った。あの手紙を書いたのは、そんな時だったの。でも、瑞季が向こうで頑張ってるならって思えたから、私も頑張れたんだよ」
笙子だって、諦めかけたのか。
少しく意外というか、予想外ではあったが、瑞季はほっとした。結果的に今こうして二人、元の関係に戻れるのなら、それで構わなかった。
あの手紙には、瑞季だけでなく笙子までもが寄りかかっていたということだろう。仕事の過程では湯水のように消えていく、たった一枚の手書きの紙に、それほどの力が宿るだなんて。
「外、どんな感じ?」
瑞季の唐突な問いに、笙子は一瞬うーんと悩む。
「どんな感じか……。ああ、雪、降ってるよ。明日は積もりそう」
「そっか。じゃあ、去年と全く同じだな」
こくんと頷いた笙子に、瑞季は提案する。
「明日、外へ出たら、祝い直しをしよう。去年と今年の、二回分のクリスマスを」
笙子は、
「うん!」
と、笑ったのだった。
今度こそ、心から。
クリスマスの夜には、奇蹟が起こる。
雪にもまた、奇蹟を起こす力がある。
それは見える範囲に限らない。拘置所の中にも刑務所の中にも、それは隙間を見つけては進入し、幸せの輪を広げてゆくのだ。
十二月二十四日、午後八時。
降雪の勢いは徐々に減速を始めた。
クリスマスでもなかったら雪害呼ばわりされていたかもしれない東京の雪は、落下のスピードを緩め、いっそう綺麗に街中を舞う。
地上の星、──或いはそう表現することもできただろう。




