少しくらい甘えたって、許されるはず。
『八王子戯愛物語』より。
「綺麗だね、外」
「そうねえ。さすが、クリスマスよね」
母と暢気な会話をしながら、由木俊介は窓の向こうをぼんやりと見ていた。
八王子駅前の駅ビル『SELEO八王子北館』上層フロアには、レストラン街がある。二人がいるのは九階の南欧風レストラン「新宿仲村屋Olive House」だ。
俊介と母──真喜子はせっかくのクリスマスにと、ちょっとコジャレたそのレストランを予約しておいたのだ。とは言え、既に食べ終わってはいるのだが。
「下の方はやっぱり賑やかそうね。こんなに雪が降ってるのに」
「だからこそ、って人もいるんじゃない?」
ああ、と母は納得の声を上げる。
実際、雪が降るのは楽しいとは思うのだ。友達や愛しい人と過ごすのならば、なおさらだろう。
「あんたも誰か友達と出掛けてくればよかったのにね」
グラスを片手に笑う母から、俊介はついと目を逸らした。
「しょうがないじゃん。俺の友達、みんなリア充なんだもん」
「リア充って言葉を考えた人は偉大よねぇ」
意味不明なことを言う。煌びやかな街の火をぼうっと眺めながら、俊介は嘆息した。
と、その時。どこからか電子音が響き渡った。
「?」
音の出所を探す俊介に、母が言う。
「スマホじゃないの?」
そうか、と呟いて俊介はカバンからスマホを取り出した。マナーモードにし忘れていたみたいだ。
開くと、メールだった。
〔【やっほー】
彼氏できたよー! 横山美南〕
……たったそれだけのメールだった。
が、俊介は目を見張る。送り主の横山美南は、北海道に引っ越した俊介の幼馴染みだ。この前まで彼氏の存在など、ほのめかしてもいなかったのに。
「……マジで?」
思わず口に出たその言葉を、俊介は返信にも打ち込んだ。送信ボタンをやっと押したが、正直なところ気が気ではない。
よかったじゃん。彼氏願望の強かった美南のことだからきっと喜んでるだろうし、一緒にお前も喜んでやれよ。いやいや、でもあいつ北海道に発つ時に、「彼氏はもう諦めた」って言ってたし。
正負の気持ちが心中で鬩ぎ合う。動揺が収まらないうちに、返信が来た。速やかに開く。
……大きな雪だるまに抱きついて笑っている美南の写真が、〔彼氏でーす!〕という一文と共に添付されていた。
「やられた……」
俊介は呟いた。
向かいから母が、その言葉に反応する。
「何がやられたの?」
「ちょっと、ね」
かなり適当に誤魔化すと、俊介はメールをスクロールした。おや、まだ下がある。
〔……電話、したいなぁ〕
一番下の段には、そう書いてあった。
さすがに無理だろ、と俊介は思った。
クリスマスだし、向こうの家でもきっと何かしらをしているに違いない。こっちだって外食に来ているのだ。ここで抜けて電話するのはさすがに躊躇われて、
〔後で時間が遅くなったら、いいよ〕
そう返信をしたためる。
するとその時。
「今、美南ちゃんのこと考えてたでしょ」
不意に母が口を開いた。
「ふぇ?」
唐突の言葉が的を射すぎていて、俊介は思わず変な声を出してしまった。スマホをカバンに放ると、座り直す。
「照れてるわね」
「う、うるさいよ!」
「知ってるのよー、あんたが美南ちゃんのことを考えてる時っていつも、鼻の頭を掻くから」
その時初めて、俊介はそれを知った。たった今の今まで鼻の頭に伸ばしていた指を、慌てて引っ込める。が、もう遅い。
「大方、電話でもしたいって言ってるんでしょう? いいわよ、待ってるから」
「なんで知ってるんだよ……」
「母親ってのは子供に関してはサトリなのよ」
「…………」
よく分からないが、大人の勘という奴なのだろうか。
俊介はスマホをもう一度手にした。返信が来ているようだ。
〔えー(´・ω・)〕
顔文字を見るや、俊介は席を立つ。
「……ちょっと、待ってて。すぐに黙らせてくるから」
はいはい、という母の笑い声を背に、俊介は店を出て廊下の隅まで駆け足で向かった。
……俺ってやっぱ、美南に甘いのかな。
そう思いながらも呼び出しすること五秒。美南の声が響いた。一ヶ月くらい前が最後の電話だったから、割と久しぶりだ。
──「あ、かけてきてくれたんだ!」
「用件は何だ」
さっそく本題を要求するが、美南はまるで聞いていない。
──「いやー、シュンのことだからかけてくれるかなとは思いつつ、でもちょっとワガママかなって悩みもしながらトイレ脇で待っているこの時間の長さときたら……」
「……待て、美南はどこから電話してるんだ?」
──「え、レストランだけど?」
お前もかよ!
激しく突っ込みたくなる気持ちを、俊介はぐっとこらえる。
「美南も家族を待たせてるのかよ。早く戻ってやれよ……」
──「シュンもレストランなの?」
「ああ、だから用件を早く」
──「別に、理由があって電話した訳じゃないんだけどなぁ」
あっけらかんとした美南の声が、俊介の覚えた怒りをつんとつつく。
──「あ、怒った?」
「……別に」
──「ごめんごめんー。でもさ、おばさんも私と電話するって言ったらゴーサイン出してくれるでしょ?」
「そんなわけ──」
あった。あったではないか。
全てお見通しよ、とでも言いたそうな母の顔がまぶたに浮かんだ。言い淀んだ俊介に、美南はさも楽しそうに続ける。
──「前に八王子を二人で歩いた時も、事前におばさんに相談したんだけどね。おばさん大喜びだったよー。シュンもやっと踏み出してくれるかしら、って言って」
「マジか……」
──「恋人ごっこ、まだ続いているんでしょ?」
「……俺、続いてるって意識なかった」
──「恋人がクリスマスに電話したって、何の不都合もないじゃない」
お前さっき雪だるまを彼氏にしてたじゃんかと俊介は反論しかけたが、やめておくことにした。言葉の裏に隠れた美南の気持ちを探し当てるのは、得意だからだ。
「……そんなことよりそっち、どうなんだ?」
俊介は強引に話題を換えた。
──「そっちって、うち?」
「ああ」
──「大丈夫だよ、雪の重みで傾いたりはしてないから」
盛大にボケをかましてくれた美南に、俊介はため息をつく。
「家のこと聞いた訳じゃないよ……。美南、もう引っ越してから半年になるだろ。どうだ、そっち」
──「順調だよ。友達もできたし、成績もまあまあだし。怖いくらい順調」
「そっか、なら良かったよ」
──「シュンは? 私がいなくて寂しくて眠れなかったりしないの?」
「しないよ」
──「なんだつまんないのー。私は何日か泣いたのに」
一瞬、我が耳を疑った。
「泣いたのか?」
尋ねずにはいられなかった。くすぐったそうな笑みが、耳元にこぼれる。
──「情けない話だけど、ちょっとだけね。時々、会いたくてたまらなくなるの。東京にいた頃のみんなに。私まだ、あの街から巣立ちしきれてないみたいなんだ。
シュンは、私が電話かけてきたら嫌?」
俊介は我が身を振り返った。嫌なはずがない。今日は待たせる家族がいるから嫌なだけだ。
「嫌じゃ、ないよ」
──「なら、これからもっと電話してもいい?」
「いいよ。ただ、今日みたいな日にかけてこられると──」
──「やったぁ──!」
「人の話を最後まで聞け──!」
はぁ。
やっと電話を切った俊介はスマホを見つめた。
電話帳のアイコンに使われた美南の顔が、愉快そうに笑っている。
あいつもまだまだ、北海道に慣れるのには時間がかかるんだろうな。そう思った。気にしないように努めてはいたが、俊介だって寂しくなかったと言えば嘘になるから。
席に戻ると、母は外の景色を眺めていた。
「ごめん、遅くなって」
そう言って座ると、母は俊介を見る。
「美南ちゃんはどうだった? 元気そうだった?」
「通常営業だったよ。すげえ元気そうだった」
「そう……。あんた、ちゃんと年賀状とかも書いてあげなさいよ?」
「書くよ書くよ」
書かなかったら電話口で何を叫ばれるか分からない。俊介は苦笑して、母に倣って外を見た。
ここ八王子の駅前から、浅川も小宮公園も中央自動車道も越えて、遥か向こうの街まで続く光の海。あれを辿ってゆけば、美南の街にも着けるのだろうか。
「いつかあんたにも、できたらいいわね。こんな綺麗なクリスマスイブの夜を、一緒に過ごせるようなかけがえのない存在が」
母の声は少し、残念そうだった。
「美南ちゃんなんて、素晴らしい逸材だったのに」
「……その話は、しない約束だろ。美南は自分の決心で行ったんだ。俺に、引き留める権利はないよ」
「そうね。でも、出会いは大切にしなきゃダメよ」
「分かってるよ」
不安げな母にも、俊介ははっきりと言い切る。
かけがえのない出会いは、きっとある。自分にも、美南にも。何より自分と美南が、そうだったのだから。
今は俊介は、そう信じることにしているのだ。
降りやまない雪と、その先にちらちらと揺れる夜景にも。
二人は静かに、祈るのだった。