あのとき言えなかったことを、今。
『廻る線路、巡る想い』より
東京のあらゆる街で、降雪が始まった。
立ち込める低気圧が、八丈島から奥多摩に至るまでほぼ全域にかかっている今日。白亜の天使は余すところなく、くるくると舞いながらクリスマスイブの首都へと降臨してきた。
視界の悪化が予想されていたため、既に空の便は多くが欠航している。
がらんどうになった空に、超高層ビル群の航空障害灯が煌々と照っていた。雪なのかビルの明かりなのか、判別するのはなかなか難しかった。
逆もまた、然りであるが。
「──雪、すごいね」
長崎春乃はそう言って、窓に鼻先を押し当てながら下を見ようとする。
「窓ガラス、綺麗じゃないかもしれないぞ?」
浮間秋斗は忠告の言葉をかけたが、春乃は聞く耳を持とうとしない。秋斗のコートの裾を引っ張りながら、
「あ! ほらほらあれ山手線じゃない? あんな小さく見えるよー」
無邪気なものだ。
秋斗はやれやれと苦笑すると、自分もおでこを窓に寄せた。
秋斗と春乃は、社会人。かつて四年間付き合っていた恋人同士だ。
二年前、秋斗のブラジルへの長期出張の折に別れてから、長いこと連絡さえも取っていなかった。秋斗から春乃に声をかけ、今日は二年と二ヶ月ぶりの再会の日である。
巣鴨に住む春乃と上板橋に住む秋斗が最も会いやすいのは、地理的にもちょうど中間の池袋だ。一度も登ったことがないという春乃の意見で、二人はクリスマスイブの夜をとある建物で過ごすことにした。池袋駅の東にそびえる超巨大複合施設、サンキャッスル60である。
今、地上230メートルもの高さにある展望台に、二人はいる。
高空から見下ろす豊島区の市街地は、そうでなくても明かりしか見えない上に雪の光が邪魔をするので、何が何だかよく分からない。
「神戸の夜景が百万ドルなら、池袋の夜景は一千万ドルだね」
「期間限定なのが残念だな……」
「うん。ずっと降り続けられたら困るし」
春乃が何かを言うたびに、口の近づけられた窓ガラスが白く曇る。
なんでも春乃は、雪にあまりいい思い出がないらしい。滑って転ぶから嫌い、去年派手に転んで痛かったと、何年か前の冬にも言っていたのを秋斗は思い出した。未だにそのトラウマは健在のようだ。
「綺麗だけど、何がどこにあるのかはよく分かんないしなぁ」
「私はけっこう分かるよ。ほら、あの下に見えるのってサンキャッスル水族館じゃない?」
春乃の言葉に、秋斗は目を凝らした。
「あー、本当だ」
「二人で行ったよね、前に」
「行ったなぁ。あれはいつだっけ、付き合い始めて最初の年だった?」
「そんなもんじゃなかったかな。確か私が巣鴨からサンキャッスルに出ようとして、無理して都電でショートカットしようとして変なところに出ちゃった時だよ」
……思わず秋斗は春乃をまじまじと見詰めた。よく覚えているな、そんなことを。
春乃はきょとんとした目を向けると、すぐにまた下にそれを戻す。窓に映った口元が、笑っている。
「前から思ってたんだけどさ、短期記憶で勝負させたら私、秋斗に完勝できる気がする」
「……僕もそんな気がする」
「記憶系は前から強い自信があったんだけど、仕事に活かせないかなって思って脳トレとかもやってみてるんだ。だからか分かんないけど最近は仕事も調子よくて、この前なんか昇進できちゃってさ」
「マジかよ……!」
秋斗など、ブラジル出張の結果もごく普通なもので、年収もボーナスも増えてはいないのに。
急に目の前の元カノが遠く見えてきた。そんな秋斗に気づいたのか春乃はちらりと秋斗を見て、ニッと笑う。かわいいなと秋斗は思ったが、口には出さなかった。
「……私、まだまだ色んなこと、覚えてるんだから」
そう言うと春乃は、下界を指差す。
「ねえ秋斗、あの駅の向こうにあるのって東京芸術劇場だよね?」
「え、どれ」
「西武デパートの向こうのやつ。ガラス張りの」
「あー、そうじゃないか?前に二人でクラシックか何か、聴きにいったよね」
春乃は目をぱちくりさせた。
「なんだ、秋斗も覚えてるじゃない」
「バカにすんなよ?」
見下された気がして秋斗は言い返したが、それが引き金になったようだ。えへへと笑いながら、春乃は次々に問題を出してくる。
「じゃあ秋斗、あの下の方にある斜めの道は何でしょう?」
「えっ、サンキャッスル通り……だよな?」
「その途中にあるボウリングのピンはROUNDEX池袋店ですが、そこにはいつ何をしに行ったでしょう?」
「……いつだっけ。ええと確か、大学の卒業祝いでボウリング?」
「ブー、就職先が決まった時のお祝い。はい次、あの駅前広場に面してる眩しい看板の下にあるカナダ電機日本総本店で、二度目に立ち寄った時に私たちが買ったのは何でしょう!」
「だんだんマニアックになってきてないか? うーんと……そうだ! 扇風機!」
「……それ私、覚えてなかった」
「おい出題者!?」
「もう、次! 芸術劇場の前に見える池袋西口公園で、私たちは誰のライブを見たことがあったでしょうか!」
「そんなの覚えてな────」
秋斗は、はっとして黙り込んだ。
いや、はっとしていたのは春乃の方だ。何を言ってるんだとでも言わんばかりに、口元を押さえている。
「……どうしたんだ、春乃」
気になって尋ねると、春乃は少し青ざめた顔を秋斗から逸らして、早口で答える。
「ごめん、今の違う。スグルくんと行ったところだ」
秋斗はますます気になった。スグルという知り合いを、秋斗は聞いたことがない。
「誰、それ」
突っ慳貪な言い方になってしまったのを後悔した時にはもう、春乃は下唇を噛んだまま床に目線を落としていた。何を言っていいのか分からない、そんな表情だった。
さては聞いてはいけないことだったのだろうか。どっと押し寄せる不安に、秋斗も何だか居たたまれなくなってきた。
そのまま三十秒が過ぎて、口を開いたのは春乃の方だった。
「秋斗には、言ってなかったよね。私、秋斗と別れてから別の人と付き合ってたの」
「……初耳だ」
「麹町卓っていう、私の会社の後輩の子。秋斗がブラジルに行ってから入社してきた子だから、秋斗は知らないと思う。その子と去年、バンドのライブを見に行ったんだ。ちょっと記憶が混乱してたよ」
驚きで苦笑もできない秋斗に、春乃は笑顔とも何ともつかない変な顔を向ける。
疑われているとでも思ったのだろうか。
「……あ、安心してね。もうその子とは、別れたんだ。秋斗から電話がかかってきた、そのちょっと前に」
秋斗の抱いた感想は、春乃の想像していたものとはきっと違ったことだろう。
「……どうして、別れちゃったんだ?」
秋斗は尋ねた。
「えっ」
「その卓って後輩と、さ。なにかトラブルでもあったのか?」
質問の意図をやっと理解できたのか、春乃はちょっと目の焦点を変えた。
「ううん、そういう訳じゃないんだ」
「じゃあなんで、そんなもったいないことしちゃったんだ」
他人のことは全く言えないのは分かった上で、秋斗は尚も質問を重ねる。秋斗の決断を渋った春乃なら、自分から別れるなんてことをするとは到底思えなかったし、だからこそ春乃の言葉はすぐには信じられなかったのだ。
「……最初は、卓くんの方から告白されたの」
そう言って、春乃は窓ガラスに手をやる。すぐ数十センチ先の虚空を、雪の華が舞っている。
「どうしてもって言われて断れなくて、私も付き合うことにOKを出したんだ。何回かデートして、最初は離れていた私たちの心も少しずつ、近づいて行ってたはずだったの。
でもね、やっぱり無理だった。ある程度まで行くと、どうしても自分の心が結界を張ってしまう。ここから先は立ち入らせないって、守りを作ってしまうの。キスどころか手を繋ぐことすらできなかった時点で、私たちの恋は終わったの」
「…………」
「バカみたいって思うでしょ? 私も思うよ。せっかく私を慕ってくれる人が現れたのに、私はむざむざそれを振ってまで孤独になろうとしたの。本当、バカだよね」
春乃の言葉は、窓ガラスで跳ね返って自分に当たるように計算されて発せられているみたいだった。跳ね返った場所が、雲をぶつけたように白くなった。
白雪の舞う白雲の中に、自嘲的な笑みを浮かべる春乃が映っていた。
「……笑ってよ、秋斗。私、秋斗との日々をずっとこんなに覚えていたのに、他の子に手を出して、振ったんだよ。最低だよね。卓くんに、悲しい想いをさせちゃった。しかも今また秋斗にも、苦い想いをさせてる……」
僕が、いなかったからだ。
話の途中で既に、秋斗は悟っていた。
自分がいなかったから、その寂しさを持て余した春乃は会社の後輩の告白を受け入れたのだ。誰がどう考えたって、そういう見解に帰着するだろう。
春乃が悪いのではない、自分が悪いのだ。あの時、別れなければ。春乃が悲しんだだけではなく、卓も悲しませてしまったのだ。一度はまともな形で収まりかけた後悔が、再び火にかけられて燃え上がるのを秋斗は感じていた。
春乃の前で、どんな表情を作れば正解なのだろうか。答えがあるなら知りたい。秋斗はまだ、何も言えなかった。
「もう私、消えてしまいたい」
春乃はか細い声で呟く。
「こんなに苦しいなら、こんなに訳わかんないままでいるなら、いなくなっちゃえば楽なのかな。そしたら私、もう誰にも迷惑かけないで済むよ。卓くんの時みたいな失敗、もう繰り返さないのに」
半分くらい、本気で言っている。そう思った時、秋斗はやっと口を開くことができた。
「……僕も一緒に、消えた方がいいな。それ」
春乃は振り向いた。
「なんで秋斗までいなくならなきゃいけないの?」
「僕もずっと、苦しかった。今も苦しいんだ。春乃がいなくなってしまったら、僕も春乃と同じ道を辿って、誰かを不幸にするかもしれないからさ」
秋斗がそう答えると、春乃はふるふると首を振った。そうじゃないとも、そんなの嫌だとも捉えられるその所作を、秋斗は意図的に視線の先から外していた。
ああ、西口公園が見える。
木々に光が点り、きっと多くの恋人たちで賑わっているであろう街が、よくよく見える。
自分たちのことは、見えなかったのに。
秋斗はもう嫌だった。あの時こうすればと後悔を重ねるのは、もう十分だった。 二ヶ月前、あの眼下を回る山手線の車内で、後悔も懺悔も済ませたのだ。
前に進みたい。秋斗の想いはあの日から、もう決まっていたのだ。
「それに──」
秋斗は言うと、春乃の髪をそっと掻き上げた。
「春乃も、独りで消えるのは寂しいだろ? 僕は春乃に寂しさを感じてほしくない。どんな事情があっても、彼氏としてでなくても、一緒にいたいんだ。今さら何言ってるんだ、自分勝手だろって思うだろうけど、信じてほしい。これが本心だから」
春乃は秋斗を見上げた。秋斗も祈りを込めて、見つめ返した。
春乃の目に、儚い天空の夜景を映した涙が、ゆらゆらとたまっていた。
二年前、別れ話を切り出したあの日。
秋斗は春乃の望む未来を、汲み取ってやることが出来なかった。
彼女はただ、平凡な日々を願っただけなのだ。特別な事なんてなくていい、ただ存在を感じていられるだけで、構わなかったのだ。
再会のチャンスは、今日を逃せばきっともう廻っては来ない。二年間を精算することは叶わなくても、前進することはできる。そして、その道を切り拓くことが出来るのは自分だけだと、秋斗は心のどこかで確信していた。
なぜって。
春乃のことが好きだから。
どんな事情があろうが、春乃のことをもう、離したくない。失いたくないから……。
いつでも会える距離なのに、クリスマスイブまで再会を待ったのには、とある理由があった。
それは今、秋斗のポケットの中で光り輝いている。秋斗は悟られないようにそれを手のひらに隠すと、春乃に向き直った。
告白するなら、今だ。乾いた唇が、ぱりっと音を立てたような気がした。
「春乃、ごめん。あの時の僕はまだ、何も知らなかったんだ。春乃の気持ちも、あまつさえ自分の気持ちも。許してくれなくてもいい、ただ……分かってくれ」
秋斗が言う間、春乃は息一つしていなかった。
「そんな……私、だって……」
頭を下げていて春乃の顔は見えなかったが、泣いているのは明白だった。もっとも秋斗には、そんなことは想定内だ。ついでにそこには、もう春乃にこんな悲しい涙は流させない──そんな決意も、こもっている。
秋斗は手のひらを開いた。
春乃の顔が、驚きに染まる。
なぜって、きっとそこに指輪が光っていたからだろう。
「これ……?」
絶句する春乃に、秋斗は静かに言った。
「受け取ってくれるかは、春乃に任せる。もし受け取ってくれるなら、僕と結婚してほしい。もう二度と離れないように、永遠の絆を創りたい」
秋斗が選んだのは、プロポーズすることだったのだ。
再び連絡を取り始めた時、春乃はすぐにでも会いたいと言った。けれど、秋斗は拒んだ。クリスマスイブの夜まで、待ってほしいと。
春乃に伝えたい想いも、まだ秘めておきたい想いも、勢いで連絡したその時はまだごちゃごちゃだった。自分の気持ちを整理して、二人にとって最善の未来を考え、そこに至るための道筋を描くのには、それだけの時間が必要だった。メールのやり取りの中で秋斗は、春乃の自分に対する思いの中に、変わっている部分とそうでない部分があるのを見抜いていた。
やっぱり自分は、春乃が好きだ。そして春乃もまだ、諦めないでいてくれている。そう踏んだ秋斗は思いきって、プロポーズすることに決めたのだ。
そこで大事なのが場面と雰囲気作りだった。どんな風にするか、渡す指輪はどれにするか。ずいぶん悩んで時間をかけたが、クリスマスイブに東京で雪が降るという予報を見て、心が決まった。
選んだその指輪には、透き通った六角形の雪の結晶があしらわれている。釣り合いが取れ、安定していると言われる六角形。結婚の瞬間の最高の喜びを、その頑丈な氷の中に閉じ込めてしまえば、それは失われることなく永遠に続く──。そんな願いを、秋斗は込めた。
もちろん、受け取ってもらえればの話だった。自分を傷つけた相手を、春乃が再び選んでくれる保証などどこにもない。
クリスマスの奇蹟とやらに、秋斗は全てを委ねたのだ。
春乃は、そっと秋斗の手のひらに自分の手のひらを重ねた。
そして。
指輪を取った。
「春乃────」
言い終える前に、春乃は秋斗を上目遣いで見ながら尋ねてきた。
「本当に、本当に私でいいの? 私なんて寂しがり屋だし甘えん坊だし、かわいくなんて」
「春乃じゃなきゃダメだ」
きっぱりと断言する。
とたん、春乃の身体から力が抜けた。崩れそうになる肩を秋斗は掴んで、正面から見据えた。二年前から少しやつれた春乃の顔は、もう涙でぐしゃぐしゃだった。
「……受け取ってくれて、ありがとう」
「……うん」
「約束だよ。春乃、結婚しよう。春乃のこと絶対に、幸せにしてみせる」
そう言って、秋斗は微笑んだ。
うん、うんと春乃は何度も頷いた。
「ありがとう……! 私……わたし……っ……すっごく、嬉しい……!」
別れてから二年間、あちらこちらと彷徨い続けた二つの心が、廻り巡ってようやく繋がった瞬間だった。
春乃は秋斗を抱きしめた。
秋斗も強く強く、抱きしめ返した。
秋斗の読みは外れてはいなかった。これで良かった。これがお互いずっと、心の中で望んでいた結末だったのだ。
もう、どんなに距離が離れても、二人を裂くことは叶わない。指輪の中の、あるいは天上から降り注ぐ雪の精が、二人のことを守り続けてくれることだろう。
「……綺麗」
秋斗の腕にしがみつきながら、春乃は窓の外に向かって息を吐いた。
「すっごく綺麗だよ、何もかもが。あの日、あの頃には見えなかった、セカイが……」
秋斗は、胸がいっぱいで何もできなかった。
池袋の、いや──その外側に広がる全ての東京の夜景が。
舞い踊る粉雪に混じってきらきらと煌めいて、二人を祝福してくれていた。