忙しい中にも、幸福はきっとある。
シリーズ『EveningSunlight』より。
十二月二十四日という日にちには、名前はない。
クリスマスイブという役割は、後から与えられたものだ。それも、キリスト教の影響下で初めて成立するもの。
一億三千万人の日本人の中には、クリスマスイブなど祝わない、或いは祝えないという人々も数多くいよう。宗教上の理由であったら、用事や仕事が入っていたり、祝う気になれなかったりといった事情によって。
しかしそれでも、人々に平等に舞い降りるものはある。
「──わ、綺麗」
自由が丘駅前の広場に出てきた藤井芙美は、思わず声を上げた。広場の中央に設置された仮設のクリスマスツリーが、華やかな光を辺りに振り撒いている。
芙美はこの近くの中学に通う三年生、すなわち受験生だ。今日も昼過ぎに授業が終わったので、さっさと荷物を片付けて自由が丘駅前にある塾に通っていたのだった。来た時はまだ時間が早かったから、気づかなかったのだろう。
「塾を出ただけでもう、真っ暗かぁ……」
イルミネーションを見上げると、その先に広がる遥かな空はよけいに暗く見える。東京の市街地が放つ光を反射した雲が、どんよりと立ち込めていた。
そう言えば雪降るって言ってたなぁ、と芙美は思い出した。寄り道が最近は日課になっていたのだけれど、今日は早めに帰った方がよさそうだ。
と。
ヴーン、ヴーン。ポケットが鳴動する。
「電話……?」
芙美はスマホを取り出した。誰かと思えば、電話の主は蒲田秀昭。芙美の友達の男子だ。
「もしもし」
近くのベンチを適当に探して腰かけると、芙美は電話に出た。
──「やっほ、俺だよー」
「どうしたの、今日は?」
──「……え、どうしたのってクリスマスじゃん」
ああ、と芙美は苦笑いした。実は秀昭と芙美とは、一応付き合っていることになっている。芙美はまだ、はっきりそうと認めてはいないのだが。
忘れてた私も薄情だったな、そう思いながら膝の上にカバンを下ろす。
「クリスマスだねー。まだイブだけど」
──「藤井はクリスマス、どうやって過ごすんだ?」
「塾だったの、つい今さっきまで。これから家に帰ったらケーキがあるはずだから、それ食べてまた勉強かなぁ」
──「それ普段と何が違うんだよー」
電話の向こうの彼氏(仮)が、膨れっ面をしているのが容易に想像できた。
かく言う芙美だって、この結果が本意だった訳ではない。
「しょうがないじゃない、私たち受験生だよ? そんな悠長にしてる暇があるなら勉強しろって、塾の先生にも言われちゃったし」
──「うわ、出たよそういうセンコー」
「蒲田くんはどうすんの」
──「俺ー? 俺はこれから家族でお出掛けかなって言ってるけど。今年、武蔵小杉に建ったグランツリーっていうでっかい店があるじゃん?」
「ごめん、それ知らない」
──「……っと、とにかく家族で過ごすかなって」
蒲田くんだって私と同じじゃん、と芙美は内心感じた。本気で彼女(仮)のことを大事にする気があるのだろうか?
そんなことより寒い。芙美は身体をぶるっと震わせながら、座る位置をずらした。ベンチが冷たい。芙美の中学の制服はスカートがなかなか短く、ベンチに触れた太ももがつらいのだ。
「────あ」
芙美の目の前に、ふわりと白いものが舞い降りてきた。
雪だ。
──「どうしたの?」
「雪」
──「ゆき?」
「雪、降ってきた」
スマホを握っていない方の手を、芙美は宙にかざした。お椀みたいな形にすると、ふわりふわりといくつもの雪の結晶が降りてきて収まった。
──「わ、マジだ。雪降ってる」
「ねー」
もう夢中だ。芙美は少しずつ場所を変えながら、雪を集めるのに専念した。冷えた手に薄く積もったそれはすぐには融けなくて、芙美の左手は僅かに白くなった。
暗い空から、雪はぱらぱらと落ちてき続ける。イルミネーションの光があちらこちらで反射して、雪は赤くなり、黄色くなり、はたまた青くなった。
幻想的という言葉は、このためにある。それだけそれは、美しかった。
「……誰かと一緒に、見たかったなぁ」
無意識のうちに、芙美はそう呟いていた。
一人で見るのはもったいないし、寂しかったのだった。
──「……俺も。ホワイトクリスマスになるって知ってたら、彼女と一緒に過ごすのになぁ」
他人事のように言う秀昭。
何だか可笑しくて、芙美はクスッと笑う。勝手に彼女にしたの、蒲田くんのくせに。
──「ん、何?」
「なーんでもない」
──「なぁなぁ、藤井は思わないの? 彼氏と一緒に見たかったなーとか」
「彼氏より合格証書とかの方が嬉しいかも」
いたずら心でそう言うと、今度こそ秀昭は完全にむくれた。声がはっきりと、不機嫌になっている。
──「つまんねーなー、最近の藤井」
つまらないよね。
私も、そう思うよ。
芙美は心の中だけで秀昭に共感した。誰が好きこのんで、クリスマスイブにまで塾に通い詰めるというのだ。
芙美だって本当は、クリスマスイブくらい遊びたい。羽根を伸ばしたい。でも受験だって、芙美には大切なのだから。
「……私さ」
左手に溜まった雪を一口舐めると、芙美は電話口に言った。
「何でもない日にもきっと、幸せってあると思うんだ。最近」
──「ん、どういう意味?」
「何気ない日々の中にも、楽しいことはあるってことだよ」
芙美は目を閉じる。イルミネーションの光は見えなくなったが、雪が降っている割には寒くは感じなかった。
「物事って、捉え方一つでぜんぜん変わると思うの。雪を嫌がる人だっているし、クリスマスを迎えたくない人だっているかもしれないよ」
──「うーん、その感覚、俺にはよく分からないや」
「街にイルミネーションが点っていて、雪が舞っているってだけのことでも、私は綺麗だなぁって思うし、幸せだよ。なんか、光に包まれてるように感じる」
それは決して、強がりではなかった。秀昭が黙ったのを確認すると、芙美は一言、付け加える。
「──あのさ。その、私たちがこれからもかっ……彼女と彼氏って関係でいるかどうか、私の気持ちはまだ伝えてなかったじゃん? その答え、受験が終わったら、蒲田くんにきっと伝える。だからそれまで、待っててよ」
ひらり、ひらり。
風に舞い散る雪たちの動きはひどくゆっくりで。
秀昭が返事をするまでに、時間がどれほど経ったのかも分からなかった。
──「分かった」
秀昭はそう言って、ふふ、と笑ったのだった。
「何が可笑しいのよー」
──「いや、いま藤井、顔真っ赤にしてんのかなって思ったらなんか可笑しくて」
「してないよっ!」
そう叫んだ拍子に顔が赤くなって、芙美は視線を上げられなくなってしまう。
──「嘘つけー。あ、今なっただろ。そうだろ」
「もういいなら切るよ!」
──「え、ちょ待──」
芙美は無言で電話を切った。
この街を往来する人々に、平等に与えられたもの。
それは、この街の景色そのものだ。
「綺麗な景色くらい、私たちだって楽しんでもいいよね」
問いかけは雪とともに風に乗って、ビル街の壁を昇っていった。




