初めての恋は、氷の上でもあたたかい。
『テガミ ──The short tales of LETTERs──』
「第17話 夢があるから」より。
「寒いな……」
コートを着込み横で呟く彼氏の声に、成増千里も心の中で同意した。
「ここ屋内なのに」
「仕方ないよ、スケートリンクだし。氷冷たいもん」
「全くだよ。外といい勝負だよな」
彼氏──志村徹も、苦笑いを浮かべる。
二人は中学のクラスメートだ。
実は前からお互いに気があったのだが、とあるきっかけがあって三ヶ月前に千里の方から告白して、正式に付き合うことになった。成り立てホヤホヤのカップルである。
クリスマスのデートをスケートにしたのは、千里だ。クリスマスの夜に繰り出すのもいいけれど、その前にせっかくだから冬らしくウィンタースポーツでもしてみたいと思ったのだ。もっとも、スキーができるほど二人はお金を持っていない。そこで、近場で安く済むものとしてスケートが選ばれたのだった。
ここは東京唯一の常設スケートリンク、東大和スケートパークだ。東大和市駅の目の前という好立地であることもあってか、クリスマスイブでもそれなりに込み合っている。
「あのさ。言い忘れてたかもしれないけど俺、スケートなんて滑れないよ……?」
徹の言葉に千里はぴくりと反応した。すぐに、照れ笑いを顔に出す。
「……大丈夫、私も滑れないから」
おい、と突っ込みの手が入る。
徹の急なカミングアウトに、千里は内心やや慌てた。徹も滑れないなんて聞いていなかったのだ。
ダメな私を徹くんがかっこよくリードしてくれる──そんな青写真を、千里は描いていた。自分が滑れないのは重々承知していたが、徹まで滑れないとなると計画が狂ってしまうと思ったからだ。というか、早くも崩壊の兆しを見せているではないか。
「と、とにかく行こうか」
レンタルのスケート靴を履き、徹はおっかなびっくりリンクに出た。靴を履くのにすらもたつく千里を、ちゃんと入口で待っている。
千里もやっとリンクに出られた。とたん、
「うわっ!?」
いきなり転びかける。
スケートリンクは思っていたよりもずっと、摩擦抵抗の小さい場所だった。駆け寄って来ようとした徹も、つるつる滑りながら氷の上でふらついている。
「だ……大丈夫?」
「痛い……」
頭の後ろを押さえながら起き上がると、徹がそっと手を差し伸べてくれていた。
「掴まって」
こくんと頷くと、千里はその手を取った。一面氷の世界の上では、その手はとても暖かかった。
少しずつ、慣れてきたような気がする。
「俺、コツ掴めたかも」
「どうやって滑るの?」
「んっと、まず普通に立つじゃん? で、片方の足を上げてちょっと斜めに氷について、それで後ろに蹴って……」
リンクの縁に掴まりながら、徹は実践してみせる。なるほど、確かに進む。
「徹くんすごい……」
「千里もやってみなよ。意外といけるかもしれないじゃない?」
恐る恐る、千里も壁に沿って平行に足を開く。片方を持ち上げて、斜めに……。
「ひゃあ!?」
滑った。
「落ち着いて、落ち着いて!」
徹が心配そうに叫んでいる。頑張って体勢を元に戻すと、千里はもう一度最初からやり直した。今度は、すいと刃が進む。
スピードは出ないが、滑れたみたいだ。
「進めた……!」
嬉しくて徹を見ると、徹は既に縁から手を離して滑っていた。これまたスピードは遅いが、滑れている。驚きの上達の早さだ。
「お、千里も滑れたじゃん!」
すいすいと前進できるようになった千里に、徹は笑いかける。
「支えがあれば滑れそう」
「じゃあ、俺の手握る? リンクの中央辺りまで行ってみようよ」
「え、そんなところまで行って大丈夫かなぁ……」
「大丈夫だよ、俺がいる」
怖々と、千里は頷いた。
その一言だけで妙に安心するから、不思議だ。体格もよく他のスポーツもできる徹が言うと、大丈夫の三文字にはより力が籠るのだ。
そろりそろりと進みながら、二人だけで氷の海へ。
リンクは広い。見渡す限り視界は白に染まり、影も映らない。氷というより、雲の上にいるみたい。
そんな空間にいると、徹の存在の感覚はいっそう強くなる。
千里は滑りながら、前を行く徹の手を見詰めていた。こうして手を繋げる幸せが自分にやってきたことが、今更ながらに嬉しかった。
告白した時は──いや、そもそも企画を聞かされた時は一体どうなることかと思ったが、あの時踏み切ってよかった。ほんとによかった。自分を誉めてあげたいくらいだ。
初めて徹と過ごすクリスマスは、表面はとても寒かったけれど、内面は炎が燃え盛るように暖かい。
千里の計画は、これだけではない。実は今日、他にも胸に秘めたある思いがあったのだ。
それは、キスだった。
初々しいカップルの憧れ、キス。千里も徹も変に恥ずかしがり屋であるためか、未だに実現を見ていないのである。
見渡す限りの白銀世界に、千尋はこっそり祈りを捧げる。
──ああ神様、今年は本当にありがとうございました。
私、今すっごく幸せです。たぶん世界で一番幸せです。
だけど、これ以上を望んだらやっぱりダメでしょうか。私たち、もう三ヶ月も経つのにキスもしてないんです。何となく踏み出せなくて、手を繋ぐ以上のことができないんです。
お願いです。私に、勇気をください。
上の空で瞑目していた千里にその時、
徹が怒鳴った。
「危ない!」
──えっ?
気づいた時には手遅れに近かった。千里の横に向かって、別の人が滑ってきていたのだ!
「わっ!?」
千里は夢中で氷を蹴った。身体がぐいと前に押し出されて、なんとか避けることに成功する。向こうも初心者だったみたいで、ブレーキをかけることなく一直線に滑っていった。
しかし千里の足はまだ止まらない。回避したその先には、徹がいる!
「千里──!」
「きゃあっ、止まってえ──っ!」
ガシャン、どさどさっ。
千里に突っ込まれた徹は後ろに倒れ込み、そのさらに上に千里が倒れ込んだ。
「痛ったたぁ……」
徹のスケート刃が足に当たって、痛い。どかなきゃと目を開いた千里は一瞬、呼吸を忘れた。
すぐ目の前に、徹の顔がある。
「…………」
「…………」
ばっちり目があって、千里も徹も五秒ほど意識が飛んだ。こんなに接近したことが、未だかつてあっただろうか。たぶん、ない。
もしかして、と千里は思った。
もしかして、もしかしなくても。
神様がチャンスを作ってくれたのではないか?
こんなに近くに顔がある。艶のある桃色の唇が、氷の反射した光で輝いている。
今を逃したら、次はもう……ないんじゃないか。
再び、千里に試練の時が訪れた。
「……千里、大丈夫?」
「……ごめん、徹くん」
「俺は大丈夫だけど、千里は──」
「お詫び、させて」
言うなり千里は徹の唇を強引に塞いだ。
初めはもがいた徹も、二秒後には千里と同じように、唇を重ねてきた。
氷の上に倒れたまま、体重のすべてを唇に乗せる。たったそれだけの、されど緊張で普段はできないその所作を、千里は懸命に行った。
初めてのそれは、まるで唇の先に生暖かいこんにゃくでも押し当てたような、変わった感触だった。
一分も経っただろうか。
千里はやっと唇を離した。呼吸が苦しくならなければ、もう少しやっていたかったのだけれど。
すぐ下にある徹の顔が、タコのように紅くなっている。
「……千里」
名前を呼ばれたとたん、羞恥心もろとも罪悪感が吹き出した。千里は慌てて立ち上がり、徹にぺこぺこ頭を下げる。
「ご、ごめんなさいっ! 私その、こんなことする気でいた訳じゃ決してなくてその……徹くんの気持ちも聞かないままに、そのっ」
公共の場たるスケートリンクのど真ん中で、自分はなんてことをしてしまったのだろう。背徳感に言葉が次々と口をついて出たが。
立ち上がった徹の胸に塞がれた。
「……嬉しかった。俺も、やってみたかったんだ」
「……嫌じゃなかった?」
「キスの嫌な彼氏なんているわけないじゃん」
そう言うと、徹は千里をそっと解き放つ。千里はぼやける目で、徹を見上げた。二人の身長差はだいたい十センチだ。
「じゃあまた……今度もしていい?」
「うん。むしろ、俺からするよ」
その言葉に、千里の心はときめいた。強引なファーストキスは、成功したのだ。あれで、よかったのだ。
「足とか痛めてない? 俺の刃、何かに当たってたんだけど」
「実はちょっと脛が……」
「痛かったら言ってな。ここ出たら、湿布か何か買おう」
「いいの。雪で冷やすから」
「そんな降るかなぁ」
「降るよ、きっと。そしたら徹くんと雪合戦したい」
「また転ぶなよー?」
「転ばないもん。転んだらまた……して、いい?」
ああ、と徹は頷いてくれた。
奇蹟を起こしてくれたのは、クリスマスなのか、これから降る雪なのか。もしくはそれ以外の何かなのか。
千里にはそんなことは分からない。
ただ、確かに思うのだ。奇蹟は、あると。
──また、あのラジオに報告しようかな。
私たち、上手くいってますって。
スマッシュグラフィーの人たち、喜んでくれるかな。
先を行く徹の背中に熱を送りながら、千里は思ったのだった。