静寂に願うは、穏やかな幸せ。
『テガミ ──The short tales of LETTERs──』
「第12話 はるか」より。
夕色が彼方の空を覆い、迫り来る雲を下から照らし出しているのが見える。
「外、冷える?」
窓の外を眺めながら、白いベッドに潜る宮塚紗綾は尋ねてきた。
仕事帰りのジャケットのまま、紗綾のベッドの脇に座っていた夫の誠士は、彼女の疑問に少し考えてから、答える。
「いや、そこまででもない。空港からここまで来るのに自転車使ったけど、手袋をはめれば冷たいとは感じないくらいだ」
「そっか。……屋上に上がったら、ダメかな?」
「その病院服ではさすがに寒いだろう」
自分でもそうは思っていたようだ。ぱさっと布団を除けると、紗綾は半身を起こす。
「寝なくていいのか?」
「うん、もうだいぶよくなったってお医者さんにも言われたの。病院の中を歩き回っても、特に変な感じもないくらい」
「よかった。けっこう、回復したんだな」
「そうメールしたじゃない」
「実物を見るのとは大違いだよ」
誠士はそう言うと、紗綾の頭を優しく撫でた。こそばゆいのか、或いは気持ちがいいのか、紗綾は少し首をすくめた。
誠士は、新島警察署に勤める警視庁の刑事だ。
身体の弱かった紗綾は誠士と離れ、ここ多摩の小金井市で暮らしている。調布市との市境にある調布飛行場と新島空港との間には定期便があり、それが紗綾と誠士を繋ぎ止める唯一の交通手段だった。
もっとも、元から病院生活だった訳ではない。四ヶ月以上も前のある日、誠士に黙ってサプライズで新島に渡ろうとした紗綾が、フェリーの海難事故に巻き込まれて重体になったのが切欠だ。以来、心配になった誠士は頻繁に本土に戻ってくるようになり、紗綾と会う機会は結果的に増えることになった。紗綾にしてみれば、まさに怪我の功名だったことだろう。
「外に行きたいなぁ」
紗綾は尚も言う。
「そんなに行きたいなら早く治すことだよ。現状、ちょっと長い距離を歩いただけで動悸がするんだろう? そんなんじゃまだ駄目だ」
「正論で返された……」
「こう見えても警察官だからな、俺」
もちろん、紗綾も分かっているはずだ。何だかんだ言いながらも誠士は愚痴を聞いてくれるから、嬉しい。ずいぶん前に紗綾はそう言っていた。話し相手がいることだけでも、有り難いのだろう。
だから、紗綾はまだ言い続ける。
「ねえ、二人で抜け出そうよ。雪が降るんでしょ? ホワイトクリスマスだよ?」
「あのな、だからって……」
「誠士は見たくないの? 私は見たいよ、ホワイトクリスマス」
「いつでも見られるだろ、ここには窓があるんだから。俺も今日はこっちに宿を取ったから、夜まで一緒にいるよ」
「え、そうなの?」
「武蔵小金井にホテルはないから、隣の国分寺だけどな。大した距離じゃないし、深夜に着けばいいだろ」
それだけですっかり機嫌をよくしたらしい紗綾は、誠士の手をぎゅっと握ってきた。
外を歩いてきたせいか、手はすっかり冷えてしまっている。誠士も誠士で、そんな紗綾に文句の一言も言うことなくじっとしていた。
去年よりもずっと、大人しいクリスマス。
ケーキもチキンもサンタもプレゼントもない。
それでもよかった。二人で過ごせるというだけで誠士も紗綾も幸せだ。普段は違う街で暮らしているだけに、すぐそこに相手がいることそのものが幸福な気持ちを呼び寄せていた。
外の世界ではきっと、派手で賑やかな空気が流れていることだろう。ジングルベルやらクリスマスソングが町中で流れ、電飾が灯された光景はとても華やかだ。
誠士も空港からこの病院まで来る途中、仲良く並んで手を繋いだカップルをいくつも見た。小金井市は学芸大や農工大などに代表されるように、大学や高校の多い文教都市的な面を持つ街だ。若いカップルの数に関しても、他の市区町村よりは上なのかもしれない。
楽しそうに歩くカップルの後ろ姿を見ていると、幼い頃、紗綾と新島で過ごしたクリスマスの記憶が呼び起こされて、誠士も何だか心が温まったものだった。
「……時々ね、子どもに戻りたくなるの」
誠士の手をふいに離し、紗綾はぽつりと言った。
「子どもに?」
「うん。いい子にしていればサンタさんがプレゼントを持ってきてくれるって信じてた、あの頃に」
そいつはずいぶん昔だな、と誠士は思った。好奇心旺盛だった誠士はサンタの正体を確かめることに躍起になり、親だという現実を突き止めてしまった子どもの一人だった。あれは確か、小学生だっただろうか。
紗綾はぱたんと手を降ろして、続ける。
「クリスマスの夜には奇蹟が起こるって、よく言うじゃない。私けっこうあれ、信じてたクチなんだ」
「今は違うのか?」
「違わなくはないの。でも、なんか無邪気には信じられなくなっちゃったなぁって思って」
「うん……」
「奇蹟があるのは知ってるよ。私が今こうしてこの世で生きていけるのだって、奇蹟の賜物だから。でも、それっていつ起きるか分からないじゃない?」
「……まあ、そうだけど」
「誠士は今のままでいいの。ただ私は、もうちょっと子どもになれたらなーって思うんだ。きっとその方が、ずっと幸せ」
そう言って、紗綾は静かに目を閉じた。
幸せって、何だろう。
普段は意識しないけれど、こういう機会があると考えてみたくなる。
クリスマスを祝えるのは、共に祝える相手がいるからだと誠士は思う。それは伴侶や恋人とは限らない。友達かもしれないし、画面の中かもしれない。それでも楽しんでいることに変わりはないんじゃないか、と。
クリスマス、そしてその前日という、一年に一度しか来ない時間の使い方次第で、その人の『幸福度』は変わるのではないだろうか。
だったら俺は幸福者だ、と誠士は思った。
今までも、これからも、幸せなままでいたい。
そして紗綾にも、そう感じさせてあげたい。
誠士は窓の外を見た。陽も沈んで蒼くなった病院の外の景色に比べたら、この部屋の中の方が何倍も暖かくて、幸せな雰囲気に満ちているように感じた。
冬の東京は、冷たい。




