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トワイライト・キャロリング  作者: 蒼原悠
第三章 暒夜
12/12

降誕祭の奇蹟 ──後半

『テガミ』

『冽空の刹那』

及び本小説第四章「降誕祭の奇蹟 ──前半」より。


 ……まだ、雪は舞い続ける。



 ふわりふわりと風に任せて降りてくる雪で、コートもスカートももうすっかり白くなっていた。

 どのくらいベンチでじっとしていたのだろう。関前(せきまえ)咲良(さくら)はスマホの画面を点けると、現在時刻を確認した。午後十時。もう、そんなになるらしい。

(長いな……)

 スマホを仕舞った咲良は、二人隣の少女をちらりと見やった。

 少女──深大寺(じんだいじ)ひばりは、こんな寒さにも全くめげる様子もなく、時おり白い息を吐きながらも待ち続けていた。すぐ脇に置かれた車椅子の中で眠る青年の、回復を。

 咲良とひばりに挟まれた少年、御殿山(ごてんやま)拓磨(たくま)も、文句の一つも言わずに座っていた。

 咲良もそれは同じだ。冷たい静寂に充たされたこの空間にいると、不思議と空腹も喉の渇きも感じないのだった。あまつさえ時間の流れも止まっているみたいに感じられる。寒さばかりは、どうしようもなかったが。

 雪が降るくらいだもん、相当寒いんだろうなぁ。咲良は密かにため息を吐くと、遥かな空を見上げた。


 交通事故に遭い、意識の回復の見られない云わば『昏睡状態』のまま一年の月日を経ている、青年──富士見(ふじみ)治修(はるのり)

 ひばりは治修の記憶を何とか呼び起こそうと、こうして雪の下、寒さに耐えながらひたすら時間を潰している。偶然居合わせた咲良たちも時を共にしているのは、他に特段したいことがあった訳でもなかったからだった。

 しかし、さすがにそろそろ辛い。寒さに耐えると口で言うのは容易くても、雪が肌に触れるだけで痛覚が走るレベルなのだ。

 秋の雨に打たれるのと、どっちが辛かったかな……。

 咲良はさっきからとりとめもなく思いを巡らしながら、そのたびにかつての自分と今を照らし合わせていた。





 三人の前を、数人の成人男性が歩いて通りすぎて行く。

 こんな時間帯に狭山公園をうろつくなんて物好きだな、と咲良が自分を棚に上げて思った時だった。一人が、ふとしたように振り返った。


「あれ、君って確か深大寺ひばりじゃない?」


 ひばりが、つっと顔を上げた。

 その口が、小さく開く。

「あ、プロデューサーさん……」

 プロデューサーさん? 咲良と拓磨は、一様に首をかしげる。

「どうしたの、こんな所で座って。脇の二人は知り合い?」

「いえ、行き掛かりで会ったんです。プロデューサーさんは、さっきのライブですか?」

「もちろんさ。僕の事務所(ところ)の者も何人か出演しているからね。なんだ、深大寺さんも来ると分かっていれば特等席のチケットを用意したのに」

 他の人たちを先に行かせてから、プロデューサーさんと呼ばれた男性はひばりの前に立つ。服の選び方がお洒落な人だな、と咲良は感想を抱いた。身長は低いみたいだが。

「……けっこうです。特等席には私、座れないから」

「座れないって、なぜさ」

「座れないんです」

 ひばりは声を大きくして、同じ言葉を二度繰り返す。

 咲良たちにはその理由が分かっていた。車椅子を停められないからだろう。だが男性にその事情は通じていないらしく、彼は頭を掻きながらやや不満げな顔をした。

「うーん、そうまで言うなら仕方なかったね。すまん」

「いえ」

「……元気、ないね」

「気のせいですよ。私、いっつもこうだし」

「そうなのかい? まぁ、練習の時は明るく振る舞ってくれ。スタジオみんなのテンションにも影響するからね」

「分かってます」

 男性の言葉に、ひばりは一言でしか答えようとしない。ついに諦めたのか、男性はまた向こうへと歩いて行ってしまった。

「よいクリスマスイブをね、深大寺さん」


 その時初めて、ひばりは闇に嘆息した。

 なんと言うか心配になって、咲良は尋ねる。

「……今の人は?」

「プロデューサーの大沢(おおさわ)さん」

 間髪入れずにひばりは答えを口にした。

「プロデューサー……?」

「うん。私が今年の夏くらいにオーディションを受けた、芸能事務所のね」

「芸能事務所? ってことは深大寺さん、芸人なの?」

 言ってから、場違いな表現をしてしまったと気づいたらしい。口を慌てて塞ぎにかかる拓磨を白い目で見ながら、──その目をひばりは下へ落とした。降り積もった純白の雪が反射して、やっぱり白く見えた。



「私ね、夢だったの」


 ひばりは、ぽたりぽたりと氷柱から水が滴るように、言葉を少しずつ紡いだ。

「歌手になりたかった。どんな歌かにはそんなに拘らないけど、とにかく人前で精一杯歌いきって、聴いてくれた人たちを感動させられるような歌手になりたかったの。アイドル経由だったらなれるかなって思って、『ひかりの家』の事務長さんの薦めもあってオーディションを受けてみたら、大沢さんのいる事務所に受かったんだ。だから私、最近は他の子と一緒にスタジオに通って、歌の練習をしてたの」

 咲良と拓磨は、顔を見合わせた。

 納得だった。歌声を耳にした訳ではないが、美声を出せる喉というのは日常の会話の中でも相応の声を出しているものだ。加えてひばりは顔にも恵まれているし、座っている所しか見てはいないがスタイルも良さげに感じる。

 この小さな少女が、未来のアイドルかもしれないのだ。ずいぶん脈絡がないな、とは思わないでもなかったのだが。

 ひばりは顔を上げようとしない。

「……私、昔から歌を歌うのがすっごく好きで、親の虐待を受けながらもこっそり練習してたんだ。でも、その親も死んじゃって、なんか張り合いなくなっちゃってさ。それで一度、本気で諦めようかなって思った。

そんな時、私の潰えそうな夢を聞いてくれた富士ちゃんは、応援してくれた。ひばりなら行けるって、目を輝かせながら言ってくれたの。それでもどうしてもがんばる気が起こらなくて、私も最初は富士ちゃんの言うことを無視したんだ。でも富士ちゃんはそんな私を何度も追いかけてきて、訴えたの。夢を諦めるな、生きることを諦めるなって……」


 強い力で握られた膝が、無言の悲鳴を上げている。

 ひばりは涙を堪えているのだ。咲良はすぐに、それを察した。

 でも察したからといって、なにか特別なことがしてやれるはずもなかった。咲良も拓磨も、当事者にはなれっこない。聞き役に徹する以上のことは、できないのだ。

 咲良たちのせいではないにしても、不甲斐なかった。


 勢いの落ちた雪たちは、星のように天空の彼方に留まっている。

 一陣の風も吹かない、ただひたすらに静かな狭山公園の堤防の上。ひばりの語りは、まだ、続く。

「……一度、富士ちゃんに歌を歌ってあげたことがあるんだ。富士ちゃんに出会って、私と似たような境涯の人もいるんだなって思って、なんか嬉しくなっちゃって。で、共感してもらえるかなって思って、歌ったの。歌いたくはないけど、今でも歌える。GreenPeaceの『MOMENT(モーメント)』って歌だった」

「……だから、今日のライブに来たんだね。『MOMENT』、ちゃんと歌われてたし」

 拓磨の相槌に、ひばりは大きく頷いた。

 きらりと光る何かが落ちたのを、咲良は見逃さなかった。

「私、どうしても、どうしても富士ちゃんに目を醒ましてほしかった。富士ちゃんがいたから、自殺しようとした私を何度も止めて説得してくれたから、今の私があるの。私、がんばって夢を叶える道を見つけた。富士ちゃんの期待してくれた未来の端っこを、掴んでみせた。

でも富士ちゃんがいなかったら、意味ないの……。富士ちゃんに見てほしかったから、がんばったねって言ってほしかったから、私今までがんばってこれたの……。だけど富士ちゃんが目を醒まさなきゃ、何も報われない……! だから、だから私、せめて記憶の手がかりにならないかって思って、病院の人にも無理を言ってライブに連れ出して、こうして雪の中にも連れてきて……っ!

だけど……もう、富士ちゃんは…………っ……!」




 泣きじゃくるひばりを、誰も止められない。

 この場所(くうかん)は、あまりにも寂しすぎた。



 咲良の肩を、拓磨がそっと叩いた。

「……咲良。僕たちもう、ここにいない方がいいよ」

「…………うん」

 咲良も同感だった。何もしてあげられない悔しさと、ひばりの哀れな境遇に耳を傾け続ける辛さは、もうそろそろ飽和点に達してしまいそうだった。


 二人はそっと立ち上がると、黙ってそこを離れた。

 涙に濡れるひばりは、それには気づいていないみたいだった。





 クリスマスイブの光が、ずっと向こうの街にも煌めいている。

 東村山駅の辺りだろうか。咲良はあまり、羨ましいなどとは思わなかった。あの時素直に帰途についていたとしても、そのままぼうっと時間を浪費するか、趣味の小説でも書いていたことだろう。

 とぼとぼと歩んだ道のあとに、靴あとが四つ。歩幅も大きさも違う組み合わせ同士が、同じ場所を目指している。出会いってこんな風にして重なるのかな、なんて思ってみる。


「……笑えなかったんだよね」

 拓磨が、ぽつりと言った。

「あ、いや、元から笑う気なんてないんだけどね。ただその……深大寺さんの話していたことが、あんまりにも耳に痛くてさ」

「……うん」

 咲良も、拓磨の言わんとすることは分かっている。

 拓磨はこれまで、生きることに希望や夢を抱いてこなかった。一時、母が生存している可能性があることを突き止めてからは、それが短い間の生き甲斐になっていたのだが、その僅かな希望を打ち砕かれてからは一気に生きる活力を失っていった。全ての過程を見届けていた咲良にも、拓磨はひばりの縮図のように思えてならなかったのだ。

「僕が咲良の『生きていれば目的が見つかる』って言葉で立ち直れたのは、きっと咲良の存在そのものが生きる希望だったからだと思うんだ。困っても疲れても、そこに咲良がいると思えたならきっと僕はがんばれるって信じられた。そこのところは、深大寺さんも同じなんだろうね」

「……拓磨にとっての私が、深大寺さんにとっての富士見さんってことだよね」

「うん……何て言うかなぁ」


 髪についた雪を払いながら、拓磨は呟いた。

「…………切ないや」


 ざくざくと踏みしめる雪が、足に冷たかった。









「…………の」



 ……今、なにか聞こえた?

「僕じゃないよ?」

 ちらりと咲良が目をやると、拓磨はすぐに否定する。

「だよね」

 今の声、どこか女性っぽかったし。雪女とかだったら嫌だなあ、と大真面目な妄想を膨らませかけた咲良の耳に、もう一度それは届いた。

「あ、の……っ」

 空耳ではない。咲良と拓磨は、同時に振り向いた。

 そこに一人の女性が立っていた。

「……どなたですか?」

 先方に何かを言われる前に、咲良は尋ねる。彼女は泡を食ったようにわたわたと自分の身体を眺めたかと思うと、自信なさげな声で自己紹介した。

「えっと……わたくし、銀杏大学医学部附属病院勤務の看護師をさせていただいております、井之(いの)と申します……」

 その病院の名前は知っていたが、咲良とは縁がなかったはずだ。曖昧に頷くと、咲良はもう一度問いを重ねた。

「あの、私たちに何かご用ですか?」


 井之と名乗った看護師は、自分より背の高い咲良を見上げながら小さな声で尋ね返してきた。

「あの、失礼ながら先ほどまで、深大寺ひばりさんと話をされてませんでしたか? ……うぅっ」

「話してましたけど……。あの、大丈夫ですか?」

「平気です、ただ寒いだけですので」

 井之はぶるっと身体を震わせる。それだけ長い間、外に出ていたのだろうか。

「深大寺さんの様子はいかがでしたか? 横に車椅子の男性がいたと思うのですが……」

「……あの、井之さんはもしかして」

「深大寺さんと車椅子の──いえ、富士見さんの担当をしております」

 ああ、だから。

 ひばりは無理を言ってライブに連れ出したと語っていた。病院側としてもあまりに勝手なことをされては困るだろう。だから万が一の時の要員として、井之を付き添いに送り込んだのだ。

 この人で本当に大丈夫なのかな、と咲良は内心苦笑した。ひばりが治修と共に多摩湖に投身自殺を図ろうとしたら、井之はきっと止められなさそうだ。

「それで、あの……二人は」

「まだ記憶は、戻ってないみたいです」

 現実を告げると、井之の顔はたちまち落胆に満ちた表情へと変わる。

「そうですか……。……全く?」

「はい。ライブにも雪にも反応してくれないって」

「…………」

 ついに井之は目を覆ってしまった。


「……可哀想」

 指の間から、声がこぼれ落ちる。

「ひばりさん、忙しい日々を過ごされているはずなのにわざわざ施設から毎日のように足を運んでは、富士見さんの看病を熱心にしていたのに……。やっぱり、報われないものは、報われないんですね……」


 医療関係者がそれを言うか?

 とは思ったが、それもそうなのかなと咲良は思い直した。医師だって万能の神様には、なり得ない。

 何だか現実をまざまざと見せつけられているような気がして、咲良は悲しかった。ひばりだってきっと、クリスマスイブくらい奇蹟を信じていたいに違いないのに。何より、自分が目覚めて再び夢を追いかけられるようになったそのことそのものが奇蹟の結果なのだと、ひばりは誰より分かっているはず。奇蹟を信じるなという方が、きっと無理な相談だ……。


「本来なら……奇蹟なんて望まなくても、私たちが何とかしてあげなければならないのですが……」

 項垂れながら井之は、突っ立つ二人を見つめた。

「あの、先ほど聞きそびれてしまったのですが、あなた方はどちら様でしょうか? 深大寺さんと親しくされている方ですか?」

「親しくというほどではないんですけど、知り合いです」

 拓磨が名乗り出る。「御殿山拓磨って言います」

 井之の目付きが変わった。

「御殿山……というと、あの……?」

「たぶんその御殿山です」

「ニュースで何度もお見かけしました。その、迷子だったそうですね」

「迷子って訳ではないんですけど」

 拓磨は苦笑いする。拓磨の現状を言葉にして説明するのは、なかなか難しいのだ。

「初めは意図的に家出したんですけど、途中で記憶を失ってしまって。この人がいなかったら僕、今ごろこの世にはいないかもしれません」

 拓磨は咲良を指し示した。

 またかこの流れと思いながら、咲良は照れ隠しに頭を掻────







 待て。


 待って。


 待ってよ。




「……私あの時、いくつか調べたんだけど」


 咲良は話に割って入っていた。ちょうどいい、ここには医療関係者がいる。

「あの、井之さん。記憶喪失──じゃない全生活史健忘の症状の回復には、かつて記憶があった頃に経験したことをまた経験させてあげると効果的だって聞きました。あれって医学的には問題のない対処法なんですか?」

 面食らったように井之は目を白黒させた。が、さすがは看護師だ。はっきりとした言葉で、咲良の疑問に答えを投じる。

「適切だと言われています。記憶の回復には催眠療法などが使用されますが、目的は同様ですから」

「じゃあ、記憶ではなく意識を回復させるのにも使えるかもしれませんよね? 昏睡状態という事は、聴覚は生きているんでしょう?」

「え、ええ。一定の効果は見込まれますが……」

 咲良は拓磨を振り返った。

 ひばりのとった手段は正しかった。理論上は効果があるのだ。

 が、拓磨は眉をひそめる。

「でもそれってもう、深大寺さんが試していたんじゃ……。現実に効果は出てない訳じゃん……」

「歌わなきゃいけないんだよ、きっと」

「えっ」

「『MOMENT』だよ。富士見さんの記憶にたぶん一番鮮やかに刻み込まれていて、尚且つ現在と未来を繋ぐ力があるのは、それしかない」


 咲良は本気だった。

 それは確信があったからだ。そもそも元を辿れば、ひばりの『MOMENT』の歌声に惹かれた治修が、ひばりの夢が自殺によって途切れるのを惜しいと思った事が、発端だったのだ。ならば治修の記憶にとって一番に必要とされているのは、『MOMENT』で間違いない。

 それも、それを歌うのは本家本元のGreenPeaceではなく、ひばりでなければならない。

 咲良はそれを、一通り説明した。二人はやっと頷いてくれたが、井之はまだ浮かない顔をしている。

「あの子、いつか『もうしばらく人前で歌は歌いたくない』って言っていました……。私、富士見さんが亡くなって以来──」

「歌ってもらうしか、ないでしょう」


 きっぱりとそう言った拓磨の瞳には、

 さっきまではなかった、強い強い意志の力が宿っていた。







 深大寺ひばりはまだ、哭いていた。

 車椅子の持ち手を握り締め、眠る富士見治修のもとに手をかけて中を覗き込みながら、ひばりはそこへ大粒の涙を落としていた。雪のせいでうっすらと白くなった治修の顔は、ひばりの涙が落ちた場所だけが素直な肌の色を見せていた。

 二人を照らす常夜灯の明かりは、あまりにも凍てつきすぎていた。


 忍び足で歩み寄った咲良は、そんな二人のすぐ足元にスマホを置いた。

 三秒後、リズミカルなドラムの音が流れ出した。

「…………!」

 ひばりははっとしたように辺りを見渡した。見つからないようにベンチの後ろに隠れた咲良と拓磨は、やがて始まる曲のAパートに向けて、すっと息を吸った。

 静寂の闇夜に、声を絞り出す。



『♪光の差さない 闇の中で

 僕は叫んだ

 raison d'être of my blood

 raison d'être of eternity』



 ずっと離れた場所から、心配そうにその様子を見守っている人影が見えた。井之だろう。

 スマホの音楽アプリから流れる原曲の邪魔にならないように、二人は声を落として大人しめに歌った。これだけでいい。これだけで、ひばりにはきっと伝わる。そう信じて、歌い続ける。



『なぜ、振り返る事は出来ないの?

 なぜ、戻ってはいけないの?

 愉しかった日々が

 晴れやかだった陽々が

 残滓の靄へと消える前に 届いてほしかったのに』




 ……ひばりはまだ、歌い出そうとしなかった。

 困惑していた。声色からあの二人であることは分かっても、自分はどうしたらいいのか分からなかった。


 怖かった。

 それが最も適した、ひばりの心情表現となろう。

 ひばりとて、自分で歌うことは考えただろう。だが彼女は『MOMENT』だけは、どうしても歌えなかった。一年前の記憶を、直接掘り起こす行為だからだ。

 もしもこれで治修が起きなかったら…………いいや、起きるはずがない。ついさっき、ライブに連れていって本物のGreenPeaceの歌うものまで聴かせたのだ。今さらそんなことに、どれほどの価値があろうか。


 もっとも、ひばりが躊躇するであろうことなど、心情の読み取りを得意とする咲良にはお見通しだ。

 ただ漠然と歌うのでは意味はない。咲良には、計算があった。

 粉雪の乱舞するベンチの後ろで、拓磨と咲良は頷きあって互いの意図を確かめた。



『Maybe we all wished to bright

 Maybe we hoped to days of delight

 助けがほしい 光がほしい

 刹那の風に消え行く my crying song』────




 間奏を挟むことなく、曲は二番に続く。

 が、二人はそこで、ぴったりと歌うのを止めてしまった。


 さっきまで聴こえていた歌声が唐突に鳴りを潜め、気分の悪い時間が生じる。ひばりは再び、辺りを見回した。

 どうして。どうしてここで止めてしまうの。心に聞こえてきたその声に、咲良は笑って言い返す。


(私たちはもう、歌わないよ。あとはあなたがどうするか次第。でも私は、私たちは、富士見さんを動かせるのは深大寺さんの歌声しかないって、信じてる)




 しんとした世界に足元から流れ続ける、かつて愛した人のお気に入りの歌。

 固く目を閉じたまま、ぴくりとも動かない彼。

 叩きつけるようだったあの日のそれとは違い、まるで舞台の最後を飾る紙吹雪のように天から舞い降りる、粉雪。

 多くの幸せを生み出し、そして幸せに囲まれた東京の夜景。


 全てを目にした時。

 ひばりはその口を、きゅっと真一文字に結んだ。

 その隙間が、すうっと広がるように大きくなった。







『♪夕凪に霞む 彼方の空へ

 僕は叫んだ

 raison d'être of my spirit

 raison d'être of determine』





 歌った。



 それは甘く、

 切なく、

 時に狂おしく、

 千変万化の感情の一つ一つを丁寧に織り直すような、そんな歌声だった。

 GreenPeace独特の高音域と低音域のハーモニーが、目の前のたった一人の少女によって、完璧に近い形で再現されていたのだ。


「す……ご……」

 拓磨が横で、完全に言葉を失っていた。咲良とて同じだった。

 治修が彼女の歌声に惹かれた理由が、ようやく分かった。幼い身にはあまりにも過酷だったのであろうその宿命を、ひばりは甘んじて受け止め、そして全て歌に込めてしまったのだろう。そうとしか、思えなかった。

 聴く者を圧倒させる歌声は、乾いた寒空の下、まるで集る邪気を振り払うように狭山公園全域へと波紋を広げていた。勢いに乗ったのか、ひばりは歌う表情にも力を込める。時に夜叉となり、時に菩薩となり、それは歌い手の心情を見事に表現しきっている。




『なぜ、僕らは前に進むの?

 なぜ、希望は人を動かすの?

 陰湿な過去の自分に

 幽玄な影に囚われる自分に

 戻りたくて でも幻想の時間(まぼろし)は決して冀望を受け取ることはなくて』




 咲良も、拓磨も、井乃もひばりも。その時、全員の願いはただ一つだった。

 富士見治修の意識の回復と、記憶の回復だ。

 もう、誰も苦しむところなんて見たくなかった。ひばりは血縁を全て失い、治修は一年という貴重な時を沈黙のまま迎えようとしている。そして今また、ひばりは治修の変わらぬ状況に涙し、絶望を覚えかかっている。これ以上、悲劇の連鎖が続いてはならない。続けてはならないのだ。

 咲良はまた、ひばりを遮る事の無いようにそっと歌いだした。歌わずにはいられなかった。

 拓磨と共に一度絶望の淵に立たされ、そこから生還することのできた人間として、咲良はどうしても二人の役に立ってあげたかった。歌うことで本当に何かが変わるかどうかなんて、分かりっこない。けれど無駄な足掻きの果てに、奇蹟は必ず起こる。それはもはや妄想ではなく、咲良や拓磨の経験則によって生まれた信念だった。

 あとは、その信念を胸にただひたすらに、祷ることしかできない……。




 ──ああ、神様……!


 一年ぶりのクリスマスイブに、この人に未来という名の贈り物(プレゼント)を、どうか、どうか与えてあげてください……!!




『Maybe we all wished to bright

 Maybe we hoped to days of delight

 助けがほしい 光がほしい

 刹那の風に消え行く my crying song──』








 ひばりは、最後の歌詞を路面に叩き付けた。

 『MOMENT』は二番で終了する曲ではない。が、歌どころではなくなってしまった。

 吹き寄せた風で粉雪がぱっと舞い上がったのだ。公園内は瞬時に雪煙に包まれ、何もかもが見えなくなった。ホワイトアウトだ。

「わっ……!」

 咲良と拓磨は、反射的に目を閉じた。

 目に入った雪の結晶が、ちくちくと痛かった。瞳に映る網膜の上を、何かが音を立てながら通過していったような気がした。


 そして、次に目を開けた時だった。




「────あ……っ」


 声を上げたのは、ひばりだった。

 ひばりはバッと車椅子を手にした。その顔に紅色が差し、ついで蒼くなり、表情が徐々に崩れてゆくのが、恐る恐る目を開いた咲良には間近で見てとれた。


「…………ぅ」

 誰かのうめき声が、北風に流れるように聞こえたかと思うと。

 ひばりは叫んでいた。

「富士ちゃん、聞こえる!? 見える!? 私だよ!」

「……ひ、、、ば……り?」

 ひばりは泣き顔を隠すこともなく、首が壊れるのではないかと思うほど何度も頷いていた。異変、それも良い方の意味での異変を察したのか、井乃がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。

「富士見さん、意識がお戻りになったんですか!?」

「……その、声は……、井乃さん……」

「はい……! 私です、看護師の井乃です……! いつもいつも、あなたに軟弱なところばかりお見せしていた、あの……あの……!」



 後ろで何が起こっているのか、そんなものは火を見るよりも明らかだ。


 咲良は知らず知らずのうちに、胸の前で手を組んでいた。

 なぜだろう。他人の事なのに、自分には何の接点もない人のために祈りを捧げていたのに、こんなに胸の奥が透き通っているなんて。

「よかった……」

 ぐすんと涙ぐみながら、拓磨は咲良の隣で笑っていた。

 咲良も首を垂れた。ぽとりと落ちた涙の粒を、とっさに差し伸べた腕で拾い上げることはできなかった。




 ちょうど一年もの間、あの世とこの世の境を漂っていた富士見治修の意識と記憶は、同時に回復した。

 奇蹟が起こったことを、誰一人として疑ったりはしないだろう。

 何が起因したのかは分からないが、きっと全てだろうと咲良は思った。一年ぶりのクリスマスであること、雪が降っていたこと、ひばりがかつてと同じ歌声でメロディを奏でたこと──。数えたら、きりがあるまい。


 井乃の連絡で、すぐに輸送車両が飛んできた。

 治修は病院へ運ばれ、検査を受けることになった。念のためと担当医は言っていたが、付き添いと言って乗り込むひばりと途切れ途切れに言葉を交わすその様子は、もう安心だと思えるくらいに正常だった。

 発進した車両の尾灯が遠ざかり、自分の車で来たという井乃は最後に残った。


「本当に、ありがとうございました」

 彼女は、深々と頭を下げた。

 そんな恐れ多いと、咲良はぶんぶん手を振ってみせる。

「いえ、私たち、ただ話を聞いて歌を歌ってあげただけで」

「とんでもありません、あなた方の発想と協力がなければこんな奇蹟は起こっていないです。あの二人に代わって、お礼をさせてください」

 そう言って何度も頭を下げながら、井乃も夜の帳に消えて行った。咲良と拓磨は、取り残されてからもしばらくの間、茫然自失としてそこに立ち尽くしたままだった。



 夢物語を見ていたのではないか。

 現実のような、でも現実では起こらないような不思議な体験の後には、ただそんな思いが漠然と頭の中に浮いている。


「帰ろう」

 咲良は、目尻の涙を拭って拓磨に言った。

「うん」

「着いたらお風呂沸かしながら、のんびりテレビでも見てよう。クリスマスイブだし、何か面白そうな特番でもやってるかもしれないよ。それに……」

「分かってるって」

 拓磨はふふっと笑う。そして、髪に積もった雪をすくい上げた。

 今のこの何とも言えない幸福感に浸っていたい、そんな咲良のささやかな願いを拓磨はきちんと読み取っていた。


「……落ち着いたらあの二人と、色んな話をしてみたいなぁ」

「お互い、苦労話のネタは尽きなさそうだね」

「うん。でも今なら、あの頃は大変だったななんて笑える気がするよ」


 いよいよ厳しさを増す寒さに耐えられるように、仲良く手を繋いで。

 咲良と拓磨も暗闇の中へと足を踏み入れた。

 等間隔に並ぶ街路灯に照らされた背中が、遠くなっていった。












 クリスマスの奇蹟。


 正体なんて分からない。

 そんなものはないという人だっている。


 それでいいのだ。

 何が奇蹟かなんて、その時々によって変わるもの。

 望まれているかどうかさえ、限定的ではない。



 ただ、一つ言えること。

 それは望む人の前には必ず、望んだ形ですうっと現れ、願いを叶えて消えてゆく。




 全ての人々にとって、クリスマスという名のこの限りある時間が、幸福に満ちた時間でありますように。

 今もこの世界のどこかで、誰かがそんな風に祈っているのだろう。

 



















 Merry Christmas!!












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