忘れられない思い出を、ここに刻みたい。
『廻る線路、巡る想い』より。
クリスマスの夜は、止まることなく進み続ける。
迅と綾香のもとに、仲間たちが集ってきていた一方。
こちらの二人は、逆に仲間に帰られていた。
「あーもう……」
湊明日夏は不満の全てを込めたため息を、もたれかかったグランドピアノにぶつけていた。
薄暗い校舎の中で、ただ一つ明るい照明の点った音楽室。ピアノ共々、空気はよく冷えている。
「……なんでこんな遅くまで練習しなきゃいけないんだろ」
明日夏の愚痴を聞きながら、紀尾井冬馬は黙々とピアノに向かっていた。練習曲のクリスマスキャロルを、ただひたすらに。
譜面を見詰めるその目があまりに真剣だからか、明日夏もむっとしたように頬を膨らませながらも彼女のバイオリンに向き直る。キィ、と音が鳴った。
冬馬と明日夏は、同じ都立赤羽高校の管弦楽部に所属する同級生。
そして、部内恋愛禁止の規則を秘かに破り続ける、恋人同士だ。
高校一年でありながら先輩を差し置いて優秀なピアノ演奏の腕を持つ冬馬と、コンクールでも好成績を収め続けるバイオリンの明日夏。二人は部長の鶴の一声で、年末の発表会でクリスマスキャロルを演奏することになっていたのだが……。
「……駄目だなぁ」
冬馬も終に鍵盤に頭を下ろした。ガィン、と変な和音が音楽室に響く。
「明日夏、ちょっと休まない?」
その言葉を待っていたように、明日夏もバイオリンを椅子の上に置いた。二人は窓辺に寄ると、並べられた机の上に腰かける。
窓の外には、ほとんど降りしきる雪くらいしか見えない。
「止まないね……」
「帰れるかな……。路面がツルツルになってそうだよな」
「子どもみたいに雪の中で遊んでいられたらなぁ」
明日夏の台詞に今度は相槌を返さず、冬馬はふぅと息をする。窓ガラスが、ふっと曇る。
何というか、流れゆく時間が虚しい。外はきっと今ごろ、クリスマスの輝かしい光に溢れているだろうに。
「そりゃ悪いのは私たちだよ、もう時間がないのは身をもって分かってるし。でも、何もクリスマスイブまで練習ぎりぎりやらせなくてもいいじゃん」
明日夏の主張はもっともだった。いくらなんでも、無慈悲すぎはしないだろうか。冬馬だってさすがにそう感じる。
「……さっきから指がかじかんで、うまく鍵盤も叩けないし」
「私も弓をうまく引けないよ」
「遊びにいきたいよな……」
「ね……」
「…………」
「……はぁ」
二人は同時にまた、嘆息した。
口では色々言うが、心の内では分かっていたからだ。どうせ練習がなくても、大して変わりはしないと。
というのも、二人の親には恋愛に対する理解がまるでなかったからだ。いつも成績を気にする両親は、口を開けば勉強、勉強ばかり。家に居たって何も状況は改善しないし、むしろ二人でいられる今の時間の方が貴重なくらいだった。
「……寒い」
明日夏は冬馬に身体をぴったり寄せて、呟く。
明日夏といると、冬馬の口からも自然と愚痴が飛び出した。
「ったく、今夜中に完璧に仕上げろなんて、部長も酷いよな……。自分はこの雪の中を帰っちゃうしさ。監督する気、あんのかな」
「部長に限らないでしょ」
明日夏の吐いた息が、ピアノの上を通りすぎてゆく。
「みんなそうじゃん。私たちより下手なグループなんていくらでもあるのに、残されたのは私たちだけなんだよ? ニヤニヤしながら帰ってくの見て、すっごい不愉快だった」
「俺もだ」
「私だって帰りたいのに────」
そこまで言ったところで、明日夏の表情はフリーズした。
「…………どうした、明日夏?」
冬馬が尋ねると、明日夏はかくんと首をこちらに向ける。
「もしかしてさ、冬馬。私たち、わざと残されたのかな」
「どういう意味?」
「私たち、家に帰っても会えないじゃん。だから二人きりの場所と時間を作れるようにって……」
……その発想は、なかった。
冬馬は今日、自分たちに声をかけてきた部員や部長や顧問の顔を逆再生した。言われてみればそんな風に見えなくもない。
じゃあ、明日夏と俺の関係はバレていたのか?
不安が冷や汗になって、結露した窓を伝う雫のように背中を流れた。本当にそうなのだとしたら、叱責を受けるのも時間の問題なのではないか……?
「プラスに考えなきゃ、やってけないよ」
楽譜をくるくると丸めて筒にする明日夏は、もうすっかりそうと決めつけているようだった。
ふわりと冷えた空気に乗って舞うその髪を見ていると、信じてもいいような気になってくるから不思議だ。
いいや、もう。どんなに妄想したって今日のこの時間は変わらない。冬馬も明日夏に倣って丸めた譜面を、黒く艶の輝くピアノの上に放り出した。
いつもの秘密デートとは違う、高校の冬服を纏った二人。いつまでも見詰めていると、目が無防備な胸元やスカートへ行きそうで、冬馬はまた窓へと視線を逃がした。
東京の北の玄関、赤羽駅から徒歩十分ほどの場所にあるこの高校からは、目を凝らせば色とりどりの光に満ちた都心をぼんやりと望むことができた。屋上へ上がれば傍らを流れる荒川や、ユニークな形の北区清掃工場の煙突も目にすることができただろうか。
「雪、さっきより弱くなったな」
「そんな感じ、するね」
「明日はホワイトクリスマスだろうなぁ。校庭で雪合戦とかできたりして」
「男子ってすぐそういう発想になるよねー。私たちは隅っこで雪だるまでも作ってるよ」
「そのためにも今夜、しっかり降ってくれたらいいんだけど」
言いながら校庭を見下ろせば、既にそこは一面の銀世界に変貌している。部長たちが帰って行ったのはつい三十分前のことだが、足跡はとうに雪の下のようだ。
雪はすっかり高校を取り囲み、二人のいる音楽室は宙にぽっかり浮いたようになっていた。帰るな、そこで待てとでも言いたいのだろうか。
赤や緑のクリスマス色の上から、白銀に塗り潰されてゆく東京。
カレンダーに残されたイベントは、もはや大晦日だけ。今年ももう、終わりだ。
「冬馬はこの一年、楽しかった?」
明日夏が不意に尋ねてきた。
「俺? 俺は……楽しかったよ」
「私も。受験は大変だったけど、この高校に入れてよかったな。管弦楽部のみんなと出会えたし、何より──」
「明日夏に出会えたし」
言いたかったことを言われてしまった明日夏、したり顔の冬馬に掴みかかる。
「わ、おい何すんだ! あ痛っ」
「いつもそうやっていいとこばっかり取っていって──!」
限界まで顔を近づけたところで、明日夏はぴたりと身体を止めた。
そして、ふっと相好を崩した。
「私、冬馬に出会えて、よかったよ。私が恋の楽しさに気づけたのは、冬馬のおかげなんだ。どんなに私たちを締め付ける縄がきつくても、がんばって愛そうって思える。今の私はきっと、地球上の誰より幸せなんだと思う」
俺の気持ちも、明日夏と同じだよ。
冬馬は胸中でそう返した。
確かに二人を取り巻く環境は厳しい。色々と言い訳をして家を抜け出さなければ、まともに二人きりになることさえ叶わない。でも、だからって明日夏を諦めようとしたことなんて、一度もなかった。
その仕草もその性格もその容姿も、明日夏の全てが大好きだ。明日夏を手放すなんて考えられない。そんなことをするくらいなら、二人で心中か駈け落ちでもする方がましだ。今は本気でそう思える。
今年最大の幸福があるとしたら、冬馬も自信を持って、明日夏に出会えたこと、と答えただろう。
クリスマスという時間を享有できる今だって、本当はとても幸せなことなのだ。
「なぁ」
明日夏の肩を押して立たせると、自分も立ち上がって冬馬は提案した。
「もう一回、やってみようよ。練習」
carolとは、俗にいう讃美歌に分類される民謡の総称だ。
日本ではキャロルと言うと、大半はクリスマスキャロルのことを指すとされる。またの名を『クリスマス聖歌』、キリストの誕生にまつわる様々な場面や逸話を歌詞に仕上げた歌たちだ。
キリスト教の本場である欧米には、クリスマスイブの夜に教会に集まった子どもたちが街を練り歩きながらクリスマスキャロルを歌う風習がある。
『キャロリング』と呼ばれるその風習を再現し、全国から集められた中高生たちがキャロルを演奏する──それが、二人の参加する演奏会の概要であった。
鍵盤に置いた指も、弓を握る指も、すっかり冷えている。
それほどの冷気だったからか、頭も今は冴え渡っていた。どんな風に運指すればいいのかが、動画のように脳内を流れている。
あとはただ、その流れに身体を任せるだけでいい。
あれほどタイミングのずれていた冬馬のピアノ伴奏は、完璧に修正されていた。音程に狂いが生じていた明日夏のバイオリンも、演奏の主人公らしい自己主張を伴って、見事に改善されていた。
練習の結果は、きちんと出ていたのだ。
「……出来たね」
ことん、とバイオリンをピアノの上に乗せた明日夏は、言った。
「……ああ」
冬馬もピアノ椅子から立ち上がって、言った。
白い光に包まれて、二人は一歩、一歩と近づいていった。互いの身体は、もう十センチも離れていない。
この特別な時間を、ただの日常の一コマのままで終わらせたくない。
冬馬は明日夏の肩を抱き寄せると、
そっとその唇に、キスを落とした。
明日夏の舌が、口の中に入ってくる。
舌と舌が触れ合い、不思議な音を立てた。他の音は、何も聞こえなかった。降り積もる雪が、周囲の雑音を吸いとってしまっていたから。
静寂の空間で、二人は貪るように舌を求めあった。誰も見ていないという安心が、日常の中で溜まりに溜まった欲望が、いっそうそれを激しくさせた。
ぷは、と冬馬は息を吐いた。
「……久しぶりだね、キス」
唇を拭いながら、明日夏は照れて笑っている。
「最初に出会った日も、音楽室の隅でこっそりしたっけ」
「あれ以来だな」
七ヶ月ぶりのキスは、長い期間に醸成されていて甘かった。気を抜くと身体から力が抜けてしまいそうになる。
冬馬はまだ、明日夏の肩を抱いたままだった。離そうとすると、明日夏が今度は腰の辺りを掴んでくる。
「誰も来ないよ」
「守衛さんが来るかもしれないぞ?」
「じゃあ、ピアノの陰にでも隠れてよっか」
明日夏の言うままに、冬馬たちはピアノと窓の間に入る。二人寝転んでも十分な空間が、そこにはある。
「クリスマスだよ」
彼女は重ねて言った。
「普段はしないこと、できないこと、経験するチャンスだよ。私、もっと冬馬がほしい」
「……俺も」
自分の下半身に目をやりながら、冬馬もそう答えた。
気恥ずかしくなった二人は、とたんに顔を赤くする。けれど身体は、そして心は、欲望に正直だ。
ぴったりとくっつけ合った身体が、どうしようもなく熱を発している。冬馬は明日夏の、明日夏は冬馬の服に、それぞれ手を伸ばした。
「優しく……してね?」
下がる室温に連動して高まる体温の中で。
明日夏の喘ぐような声が、冬馬の耳を噛んだ。
全ての夫婦が、カップルが、地球上の誰より幸せになれる日。
それがきっと、クリスマスなのだろう。
会えても会えなくても、それは同じ。叶わない希望には奇蹟が舞い降り、ムードは街の風景が勝手に盛り上げてくれる。
だからクリスマスは、『リア充の祭典』なのだ。
時折視界に入る窓の外、覗き込むように舞う粉雪が、冬馬には二人への祝福の証に見えた。
クリスマスももう、終盤だ。