開店準備・3
「すごくにぎやかですね」
「うん。活気は有って良いんだが、気の荒い連中も多いし、皆殺気立っているから、君が下りると危ない目にあわされる可能性も高い。だから、馬車から降りるのはちょっと待ってくれ」
スドウは御者に「次に行ってくれ」と一言命じた。あまり広くない道を、多くの人や荷車などが行きかっている。目指す場所は大した距離では無かったが、思いのほか時間がかかった。
「まあ、この辺でよかろう。あの壁を装飾タイルで飾った建物に行っているから、この広場のあたりで待っていてくれ。そうだな、昼にするか。これで何か買って食べておいてくれ。だが、酒はダメだぞ。まだ行くべきところがあるしな」
御者が幾度も頭を下げて「ありがとうございます。御馳走になります」と言っている所からすると、相場より多めの昼食代を渡したようだ。
市場の広場の中心には五頭のイルカの口から水が出るデザインの噴水が有って、その水はそのまま、水路伝いに流れている。どうやら周辺の人たちの生活用水になっているらしい。
「下水道なんかも有るんですか?」
「ちゃんと有るよ。地下には巨大な下水用のトンネルが縦横無尽に走っている。千年ほど前の帝国の時代の設備を、今でもそのまま使っているのさ」
地下の下水道は石造りの立派なものらしい。
「昔は人知れず殺された人間の遺体が浮かんでいたり、お尋ね者が隠れていたりしたもんだが、今はどうなんだろうな」
「そ、そんな事が、有ったんですか」
「ああ。僕も下水道に逃げ込んで、追っ手を振り切った事も有るよ。ここの下水道じゃないけどさ」
「なんか、スドウさんて、波乱万丈な人生を生きて来たんですね」
「うん。まあね。何しろ死ぬに死ねない境遇だからな。安全装置のせいで自殺も出来ないんだ」
「自殺したいような事も、やっぱりあったんですか?」
「有ったかな。まあ、色々有りすぎて忘れたよ」
恐らく「忘れた」というのは嘘だと美味は感じた。だが、それを口にするのは憚られるような一種奇妙な緊張感が感じられた。
スドウのいう「壁を装飾タイルで飾った建物」の扉は開いた状態だった。スドウが中に向かって声をかけると、奥から小柄な老女が、使用人らしきガッシリした中年女に体を支えられるようにしてヨチヨチと言う感じで表れた。
「おやまあ、丁度良かった。世話してもらった郊外の家に近いうちに移る事にしたから、あなたに伝えに行かなくては、って考えていたところよ。それにしても、いいのかしら? こんな商売もやめて古ぼけてしまった家から、あんな綺麗な家具や畑までついている所に引っ越して」
「ええ。ここを使うとなりますと、かなり改装する事になりそうですが、外の壁は御希望通り今の状態のままにしておきます。屋根に関しては、この建物が出来たころの状態に戻す感じで修理するので、お許し願えますか?」
「まあ、それは嬉しいわ。そうね、タイルを綺麗にしたり、壁を元の色に塗り直したりするのなら、やって頂いた方が良いと思うの。オヤ、この若い女の人は?」
「妹です。一緒に食べ物の店をやろうと思っています」
「まあ、妹さん? てっきり王族の方の御邸あたりで行儀見習いでもなさった方かと思ったわ」
「堅苦しい田舎貴族の奥方になるより、好きな道で身を立てたい、そんな希望の様です」
どうやらこのアントニエッタという老婦人をスドウに引き合わせたのはソレル商会らしい。老婦人は美味がスドウの妹であるという説明をすっかり信じた様子で、にこやかな笑みを向けて、こう言った。
「お兄様はお若いけれど御立派な方で、ややこしい法律やら税の事もよく御存じだから、何でも御相談したらどうかって、ソレルさんがおっしゃって、引き合わせて下さいましたの。私の両親はとうの昔に亡くなっておりますし、一人しかいない兄は遠方に住んでいますから、家やら土地やらの始末を自分だけでつけるのは不安でしたけど、お兄様には色々教えていただいて心丈夫ですわ」
この建物は老婦人の母親の実家だそうで、元は旅の商人向けの旅館兼料理屋であったものを、老婦人が少し手を加えて住んできたらしい。
「女は大学への入学は許されませんので、つてを頼って幾つかの講義を隣の部屋から聴講させていただいた」と言う程度には学問をしたようだ。意に染まない結婚ならば、無理にしなくても良いと言う親の方針で、比較的自由に暮らしてきたらしい。老婦人は母から受け継いだこの建物で、商人の娘たちに読み書きなどを教えて暮らしてきたのだそうな。
「近頃は目がかすんで、長い時間立っているのも辛くなりましたので、二年前に教える事は止めてしまいました。今はこのタニアの行く末だけが気がかりです」
タニアと言う人は「子供のころに先生に拾って頂いた」のだそうな。老婦人を今も先生と呼んで、心を込めて家事と身の回りの世話一切をやっているようだ。
「アントニエッタ先生が御健在の間は、タニアさんも御一緒にお暮らしになればよろしいでしょう。それがお二人の御希望でしょうし。妹が無事に店を立ち上げましたら、タニアさんにも是非手伝って頂きたいものです。取りあえずは、僕の農場で出来たものを出荷する手助けをして頂ければありがたいです。あ、むろん働いてくださった分の労賃はお支払いします」
スドウのこの言葉は、非常に好意的に受け止められたようだった。そこから話が弾み、美味のために店を用意するという「素敵な計画」に協力したいという話になった。アントニエッタ先生によれば、タニアと言う人は料理が大層得意なのだそうな。
「ごく当たり前のシチューとか肉のローストとか魚の煮込み程度ですけど」
そう言ってはにかむタニアさんの様子は、思いのほか可愛い。美味は、この人となら一緒に働けそうだと感じた。
「出来たらここでお店を開いていただけないかしら? 仕入れの条件も最高だと思いますよ。それに、私が食品ギルドへの新規会員に推薦してを差し上げる事もできます」
アントニエッタ先生は長年市場周辺の娘たちの教育に携わってきたおかげで、食品ギルドの特別会員になっており、新規会員を推薦する資格も有るのだそうな。
「このルテティアでは食品を扱う全ての店がギルドの会員です。会員ではない者が営業しようとしても、様々な取り決めが有るので、井戸の水を使うにも荷馬車やはしけを使うにも、大変な不自由をします。大貴族か王族の支援があればギルド会員でなくても店をやる事は可能かもしれませんが、少なくとも城壁の外側の下町地域では、営業は困難でしょう」
「確かギルドの推薦の際、会員はその料理の味を確認済みでなくてはいけないんですよね」
スドウはある程度、ギルドの事も知っていたようだ。
「そうなのです」
「では、美味ちゃん、ここはぜひ、お台所を借りて、みんなのための昼食を作ろう。どう?」
「はい。ギルドに推薦していただく試験でもあるんですよね。頑張ります」
美味が張り切って返事をすると、アントニエッタ先生から「この家にあるものだけを使って、簡単に作れる物」で、との指示が有り、それに従う事になった。一体何が作れるのか不安だが、確かに有る程度臨機応変に対応できなくては、店などやれないだろうと美味は思った。
台所に行ってみると、「地下室に有る保存食や酒類、このあたりの乾物類、中庭にあるハーブなども御自由にどうぞ」とタニアさんが申し出てくれたので、スドウも少しほっとした様子だった。
「今から買い出しに出られても、大半のセリが終わった後ですから、大した品物は揃いません。この家には市場で扱う品物の大半が常備されていますので、かなり色々できると思いますよ」
自慢げにタニアさんが言うように、加工食肉に乾物類や穀類とドライフルーツのたぐいは、かなり種類が多い。酒も産地や味わいの異なるものが五種類もあるのだ。
「アントニエッタ先生は、食事だけは贅沢なさいますので、並みのご家庭よりはかなり良い条件だろうと思います」
スドウはタニアさんの言葉にうなずいていたが、調味料は塩以外ろくな物が無いので、どう味を決めるかについては、かなりの工夫が必要になりそうだ。
「塩以外で使えそうなのは、ドライフルーツやナッツ類、蜂蜜に酒類あたりでしょうか?」
美味なりに頭を働かせたつもりだが、スドウはそうは見てくれなかったようだ。
「先ずは、どの材料をメインに据えるか決めないといけないだろう」
「あ、それとアントニエッタ先生の普段の御食事と、好物と、お嫌いなものは最低限、うかがうべきですよね」
「そうだな、食べる人の好みと普段の食生活は、絶対に外せないポイントだ」
なかなかに立派なベーコンと五種類もある豆を使って、ポークビーンズ風の何かを作るという方針が決まると、後は早い。
「食べ慣れていらっしゃる人参・カブ・タマネギ・セロリ・ビーツを使いましょう」
地球のポークビーンズなら当たり前のように使うトマトが無いのは、ちょっと辛いものがある。
「美味ちゃん、こっち来てみろ。ハーブが色々有るぞ」
平成の集合住宅のベランダ程度の狭い中庭に、様々なハーブが育てられている。これならいける、と美味は嬉しくなった。