開店準備・2
「昨日は貸馬車屋の人たちと、いったい何が有ったのですか?」
「大学からの帰りに情報集めと腹ごしらえのために、近所の料理屋に立ち寄ったんだ」
店内では先ほどの貸馬車屋の男たちがかなり飲んで、すでに出来上がった状態だったのだそうな。そこで酒が引っ掛かっただの料理がこぼれただの些細な理由で殴り合いになり、止めに入った料理屋の主人まで殴られてしまったのだという。
「暴れている六人にそれぞれ一発づつお見舞いして、道路に放り出してやった。さらに道路上で数発づつ食らわせて、おとなしくさせてから、店内の酒の在庫が無くなるまで思い切り飲ませて食わせた」
「ああ、それで御馳走様って言ったんですね」
貸馬車屋に膏薬らしきものを貼ったり包帯を巻いたりした者がいたのも、その乱闘騒ぎの所為であったようだ。
「あの長たらしい黒い服を着た状態で、ちょっとやりにくかったが、まあ、大した事は無かった。だが……ちょっと引っかかるんだよなあ」
「何がですか?」
「他の男は、本当に戦闘に関しては素人なんだと思ったが、この御者は曲者だな。明らかに戦い方をある程度はわきまえていて、僕の拳は受け流したし、攻撃も一番鋭かった。わざとらしく殴られたふりはしていたけどな」
「やっぱり、この御者の人、スパイかなんかですか?」
「恐らくね。主な大学教授の行動に目を配れって命令を、軍の上層部から受けているようだから」
「なぜでしょう?」
「かつて先代の国王を烈しく非難した教授は、財産没収の上、国外追放の処分を受けた。それ以前にも色々有るんだ。王国よりずっと古くて、大陸中に知られた大学だからね。国王にしてみれば、厄介な存在なんだろうよ……いや、それだけじゃないな。僕はジャガイモの栽培を軌道に乗せようと思って、色々手を打ったんだが、それが金に汚い宰相の爺さんにばれたかな?」
「ジャガイモの栽培って、兼業農家になろうという事ですか?」
「いや、生産委託事業って感じだな。僕自身が栽培するとなると、法令で市内には住めないから」
「宰相さんて、この国の実権を握っている方ですか?」
「まあ、そうだ。生まれたばかりのころは病気ばっかりしてたくせに、無事に成長したら殺しても死なないようなずうずうしいオッサンになって、この国の財務を担当するようになってからは守銭奴一直線って感じだな」
「ええっと……スドウさんはその人の事を昔から知ってるんですか?」
「まあね。ほら、僕も普通の人間とは違うから……肉体は老化しないわけなんだが、この世界の人間にその事実を知られるわけにはいかない。宰相ニコラ・ヌムールは油断ならない男だ。たとえ目と髪の色を変えていたにしても、あいつなら今の僕がニコラの子供時分の家庭教師と同一人物だと気が付く可能性も高い。ともかく顔を合わせないに越した事は無いな」
「もし、スドウさんが普通の人間じゃなくて、年も取らない事が宰相さんにばれたら、いったいどうなると思います?」
「崇め奉られるか、徹底的に排除されるか、二つに一つだろう。どちらにしろ、どこかに隔離されて行動の自由は無くなるだろうな。まあ、そうなったら、どうにか脱走はするが」
どうやら、過去にもそのような経験があるような口ぶりに美味には聞こえた。
「宰相さんは、王様の御親戚とか大貴族とか、そんな方ですか?」
「いや。もとは地方のワインの醸造業者で、金貸しやら不動産の賃貸やら貿易やら色々やって大金持ちになった家の子だ。ニコラは僕が今務めている格好の大学を優秀な成績で卒業したおかげで、貴族や学者たちからも一目置かれるようになって、その事がきっかけで前の国王に仕えるようになったのさ。あいつに間接税なんてものを教えたのは僕なんだ。住民の入れ替わりが激しい都市部でも、物を売り買いする際に取りたてる制度を確立すれば、取りはぐれが少ない。贅沢品には高い税率を設定して、貧困層でも購入する基本的な食料は例外的に無税にすれば良い……なんて話を僕はあのニコラが子供の時分にしたんだが、宰相になったら、全くその通りの税制を敷いて、王国の財政を完全に立て直したんだ」
「良いお弟子さんじゃないですか」
「そこまではね。適切な税の取り立てには十分な情報が必要だという事で、各方面の情報収集を行うようになったらしいんだが……今じゃ行き過ぎて、そこらじゅうに宰相の手の者がいて、一般住民を監視しているって具合なのさ。もっと気に入らないのは、住民相互の監視を推奨していて、密告すると褒美が出るなんて制度が出来た事だな。あ、ソレル商会だ。いったん降りるよ」
ソレル商会というのは威圧的な雰囲気の石造りの四階建の建物で、中に入ると銀行か何かの窓口の様に、カウンター越しにそろいのモスグリーンの制服を着た店員がそれぞれの客に応対している。
「貸金庫の中の品物を取り出したいんだが」
スドウの風体を点検するように一瞬鋭い視線を向けたM字禿げの店員は、丁寧な調子でこう言った。
「割符の御提示と、こちらの書類に御署名をお願いします」
スドウがその割符らしき金属片を取りだし、サラサラと美しい書体でサインをすると、店員の口調はもっと丁寧なものに変わった。
「これはこれは、いつも大変お世話になっております。お持ちいたしますので、しばらくお待ち下さいませ」
店員が抱えてきた箱は文庫本を十冊ばかり重ねた程度の大きさで、金属製の様だった。
「主から、ぜひご挨拶を申し上げたいとの事ですが、いかがいたしましょうか?」
「今日は予定が立て込んでいるんでね。また、日を改めた方が良さそうだ。ソレルさんには、よろしく伝えてくれ」
「お預かりした物は、間違いなく揃っておりましたか?」
「ああ。大丈夫だ」
「では、恐縮ではございますが、こちらの目録への御記入と、こちらへの御署名をお願いいたします」
そう言った時の店員は、まるで王に平伏する家臣の様に恭しかった。どうやらスドウは、この商会でも特別な客であるらしい。受け取ったのは幾つかの鍵のようだった。
建物を出ると馬車はちゃんとその場所にいて、スドウと美味は、すぐに乗り込む事が出来た。
「先ずはここから一番近い候補地に行こう」
スドウに手を取られて降りた先は、石造りの二階建ての建物で、平成の日本なら十分豪邸で通りそうな面積は有るようだ。だが、周囲が大きな屋敷風の建物ばかりのためか、相対的に小さく見える。
「この、前庭の部分がちょっといいだろう?」
スドウが言うように、市街地には珍しく、花やハーブが植えられていて、テーブルでも出せばお茶を飲むのに良さそうな、そんな雰囲気だ。
「正面の建物は厳ついが、今は上流家庭の女の子のための学校になっているんだ。地方から来た子たちのための寄宿舎は、すぐそこだし、ルテティア市内に家屋敷がある子はお供連れでここを通過する。もとは貴族や王族の女性しか入学できなかった学校だが、今では所定の入学金を納めて学力試験に合格した者なら入学可能だ。といっても入学金が大学の教師の年収程度なんだから、普通の家庭じゃ出せない金額だけどな」
「良い場所ですけど、賃料がお高いでしょうね」
「まあね、普通なら。だけど、ここは僕の名義なんで賃料はいらない。去年まで子供の教育のために出てきた地方貴族の一家に貸していたんだが、今は空き家だ」
「貴族や王族の女の子がこのあたりに来るって事は,宰相さんの家族なんかもいたりします?」
「いるらしいんだな、養女が」
「じゃあ、まずいでしょうか」
「色々危険かもしれないな」
「それに、この建物じゃ私が初めてのお店をやるにしては立派過ぎるし」
「元が国王の秘密の愛人の家だったんでね」
「まあ、そうなんですか」
「うん。妙な成り行きで僕が貰ったんだよ」
「その方は、美人でした?」
「僕が知り合った時には、既にお婆さんで病人だった。美人の名残は十分にあったけど」
「へええ」
何となく、美味の中に愉快では無い感情が湧いたのだが、あえて意識しないようにした。部屋の内部は家具も無いがらんどう状態だ。台所は暗く、井戸と古風な石窯以外は何も無い。
「ここは仕入れがしにくいのがネックだな。一番大きな市場からも、街の外に通じる街道からも離れているから、食べ物屋で働くような人間も見つけにくい。雇うなら相場より給金をはずまないといけないだろう。確かに、最初の店の場所としては適当じゃないな。じゃあ、次、行こう。次の場所は市場のそばだ」
下町と貴族や王族の居住地とを分けている厳つい城壁に作られた大きな門を超えると、にぎやかな通りに出た。通りのすぐ下の川沿いに荷物を積んだ小舟や筏が係留されていて、そこからすぐそばの市場へひっきりなしに色々なものが運び込まれているようだった。