開店準備・1
次に美味が意識を取り戻した際に真っ先に目にしたのは、じっと自分を見つめているスドウの顔だった。だが、かなり見慣れた顔のはずなのに、何かが違う。
「気分は悪くないかい?」
声のトーンも顔の表情も変わりは無いのに、なぜ違和感を強く覚えるのか、美味には訳が分からなかった。
「何か違うんですよね、スドウさんの様子が」
「着ている服の所為かな? あ、そうか。髪と目の色を変えたからかな」
「カラーリングですか? カラーコンタクト?」
「いや、その手の技術はこの世界ではほとんど発達していない。あれ? 言ってなかったっけ、僕が自由に髪や目の色を変化させられるって」
「ええ? そうなんですか?」
「僕は住む場所ごとに、普段なら一番目立たない色を選ぶんだが……君の場合は今の色以外には、目も髪も黒くするしか選択肢が無いらしい。黒目黒髪はこのルテティアでは無駄に目立つから避けた方が無難だ」
スドウが言うには二人揃って褐色の髪と緑色の目であれば、同じ家に住んでいても他人に奇異に思われずに済むという事らしい。
「妹として役所にも届ける予定だ。この世界では住民台帳とか戸籍とか言ったものがきちんとしていない地域が大半なんだが……四つの大都市は例外なんだ。特にこのルテティアの住民として認められるには、それなりに色々手続きが必要だ。幸い、僕は既に市民権を持っているので、君を妹として申請しても色々役人に突っ込まれる可能性は極めて低い」
「スドウさんは、どうやって市民権をゲットしたのですか?」
「大学の教師としての資格を持っていたから、実にスムーズだったよ。あ、この黒いズルッと長たらしい服は大学の教師の制服だな」
「何を教えるんです?」
「何でも屋だ。この世界の大学の科目の大半が古典の文章を読んだり暗唱したり、哲学的というか、さほど実用性も無さそうな討論会みたいな事をやったり、って具合なんだ。数学のレベルなんて、平成の日本の小学校高学年レベルに到達しているかどうか怪しい学生が大半だ。理系や技術系の研究は個人の趣味と言うか道楽みたいに思われている。それでも大学の教師なら訳の分からない研究をしていても許される。僕みたいに正体を明らかにしたくない者には、大学の教師って身分は何かと都合がいい」
改めてスドウの身なりを観察すると、確かに大学の卒業式なんかで見る様な真っ黒いガウンを羽織り、頭には四角い独特の形の角帽と呼ぶ様なものを被っている。そして右手の人差し指に太い金色の指輪をしている。
「動きにくいが、この格好だと市内のどこにいても、何をやっても一番誰にも文句をつけられない。君の店を開く為の準備だって、やりやすいんだよ。気分が悪くないようなら、立ってみようか」
美味は意識を失う前と同じ服だ。金糸の縫い取りの入ったワインレッドの絹製でレースを縫い付けた豪華なものだが、体ごと折りたたんだせいかシワっぽいし、何より学者の妹と言う設定にはやや不向きらしい。
「もっと抑えた色目の方が無難だ。向こうの部屋でこの服に着替えておいで。帽子もかぶってね」
渡された濃紺のベルベット地のドレスと共布製の帽子はサイズがぴったりで、思いのほか着心地が良い。美味は壁に掛けられた、あまり大きくは無い鏡を覗きこんだ。
「紺色も良い感じねえ。あれ?もしかして、使う事の出来る言葉の種類が増えているかな?」
脳内では、新しく出現したサインが幾つか読み取れる。相変わらず表示は英語のままだが、どうにか意味は理解できるようになった。自分の中の正体不明な部分が少なくなったのは、やはり嬉しい。元の部屋に戻ると、美味はスドウの前でモデルの様にクルッとターンをして見せた。なぜかそんな気分だったのだ。
「可愛いな。良く似合うよ」
「ありがとうございます。あの、私、使う事のできる言葉の種類が増えたみたいですね」
「うん。古典で使う昔の帝国の公用語と、このルテティアで一番使われるサリカ語を話せるように設定しておいた。ただし、文字の読み書きは出来ない状態なので、急いで覚えてほしいな」
特に滅んだ古い帝国の公用語は、大陸中の知識人と上流階級の共通言語なのだそうだ。普通はお抱えの家庭教師なり、身内で学問をしたものなりに幼いころから叩きこまれて、ようやく習得するものなので、自由に話せるのに読み書きが出来ないというのは不自然に皆が感じるようだ。
「かつての帝国でも庶民は読み書きが出来ないのは普通だったんだけどね。じゃあ、出かけようか」
「え? どこへですか?」
「店を構えるのに良さそうな場所を幾つか見繕ったんだが、君が実際に見て決めた方が良いだろう?」
見るとスドウは大学用のガウンと帽子を取ってしまっている。
「店の場所探しには、大学の先生風じゃない方が良いんでしょうか?」
「貸家で商売をしている連中は儲けに敏感で、世事に疎い学者なんて、騙しやすいと思われるだろうからね。何というか羽振りの良い商人風が良いかも知れない」
美味にはドレスと同じ色のマントを着るように促し、スドウ自身はフードつきの黒い厚手のマントを羽織った。腰には帯剣していて、頑丈な革ベルトにはナイフが五本ほど仕込まれている。ネイメンでは剣なんて身に着けずに外出していたようだから、このルテティアは物騒なのかも知れない。剣はガッシリしたこしらえで、実用性が高そうで、ついでに言うとスドウはその剣を使い慣れているように見える。しかも、意外に筋肉がすごいのがこんなシンプルな服装だと丸わかりだ。
「でも、商人風にはならないですね。何というか……戦闘能力高そうですし」
「確かに。これで弓とか斧とか持つと、やっぱ傭兵風になっちゃうかな」
「うーん、どれでもなさそうに見えますけどねえ」
傭兵と言うと、今のスドウよりもっと粗野な感じではないかと美味は思う。
「少なくとも田舎領主のまぬけたドラ息子に見えなきゃいいか」
「それは大丈夫だと思います」
外に出て驚いたのだが、スドウの住まいのある建物は石造りのなかなかにしっかりした建物で、石で綺麗に舗装された大通りに面しているのだった。
「この家の場所は、市内の一等地なんでしょうか?」
「まあね。じゃあ、そこの貸馬車屋で一台都合して行こう」
見ると、通りの向かい側に黒い色の幌をかけた二頭立ての馬車が三台止まっている。看板の文字は今の美味では読めないが、文字の他に馬の形のシルエットが彫り込まれている。
「昨日頼んだように、日の暮れるまで一台頼む」
スドウはピカピカ光る金貨らしきものを、髭もじゃの御者らしき男に渡した。
「ありがとうございます。気前よく前払いして下さるとは、さすがです、豪傑先生。あ、こちらが御妹様ですかい?」
「そうだよ」
「お若い御婦人用に、柔らかいクッションと足置きを入れておきましたぜ」
すると他にも御者か馬丁なのだろう。五人程の男たちが出てきて「昨日は御馳走様でした」とかわるがわる礼を述べた。
「ああ。また、折を見て飲み屋で一杯おごろう。じゃあ、また」
スドウはにこやかにそう応じると、今度は美味の方を見て「さあ、乗るよ」と言った。
男たちとスドウのやり取りはサリカ語なのだろうが、美味に向けた言葉は日本語だった。
「今から、どうするのです?」
「さっきも言ったように、君の店にする場所を探すのさ。こういう馬車は色々と秘密が漏れやすいから、会話は日本語が無難だな。君と僕以外、恐らく誰にもわからないから好都合だ」
スドウに言わせると、貸馬車屋は王国のスパイ組織の手下も兼ねているのだそうだ。用心に越した事は無いらしい。
「ソレル商会に行ってくれ」
「へい。豪傑先生は王室御用達の大店ともお付き合いがあるのですか?」
「まあ、全く無いわけじゃ無い」
「腕っぷしは強いわ、酒は強いわ、その男っぷりで大学の先生様だったら、やっぱり色々有るんでしょうね、お偉い方々ともお付き合いが」
「あまり時間は無いんだ。早くいってくれ」
「へい、すみません」
御者とのやり取りの直後に、スドウは「けっ、何も話さないからな」などと日本語でつぶやいた。美味は事情が呑み込めなくて、小声の日本語で気になる事を聞いてみた。