着地点・3
美味は無事に高校を卒業してから、学校の推薦を受けて地元では一番格が高いとされる老舗ホテルのレストラン部門で働いている。さほど大きなホテルではないが、海外からの賓客や皇族の方々もたびたびお泊りになるので、本格的なフランス料理から地域の伝統を生かした和食まで幅広く学べる。
本当は大都会に出たいという気持ちも有ったのだが、もしもスドウがこちらの世界に来るような事が有れば、小ぶりな故郷の町の方が互いに見つけやすい、そんな風にも思ったのだ。
ただし、スドウが美味の故郷の事を記憶しているという大前提が崩れていなければの話ではあるが。
働いているのはこの地域出身で、大都会や海外の名門・名店で修業を積んだ「若くは無い」男性ばかりで、女は美味一人だ。海外では女性のシェフも珍しくは無いし、和食の世界にも昔よりは女性が増えてきたとはいえ、地方都市では格式あるホテルの調理部門は、まだまだ圧倒的に男社会である。だが、皆、美味からすれば親戚のおじさんか父親かと思うような年頃の人ばかりで、何人かは美味と似たり寄ったりの年ごろの子供の親でもあるので、美味は「職場のマスコット」扱いで、いじめやしごきも全く無い。
いささか過保護な扱いも受けていると美味自身も感じているので、皆の足を引っ張らないように懸命に務めている。
だが、ゴミ箱の手入れ一つでも手を抜かず、流しや鍋の手入れも懸命に行う美味の姿勢は「今時珍しい良い心がけの子」という風に皆に認識されているのだったが、本人にその自覚は無かった。
美味は家が職場に近いため、朝一番のシフトで職場に入ることが多い。そのため、夕方早いうちに仕事を終えて帰宅する。重要なイベントでもない限り、通常の夜の宴席などはほとんどタッチしない状態だ。それも「年頃の娘さんを危ない目に合わせてはいけない」という職場の上長たちの「親心」によるものだった訳だが、そのあたりの過保護なまでの気遣いを、美味は察知していなかった。もっとも、美味の母はある程度状況を察していて、有りがたいと感じていた。
帰宅が早いお蔭で、美味は母の店を手伝う事も出来たし、母子で話をする時間の余裕も有るからだ。
母の店は相変わらず繁盛を続けている。更にうれしいことに、祖父の容体も随分とよくなった。さすがにリハビリや通院が必要な状態での饅頭屋の再開は難しいが、体調の良い日には母の店で出す和風のデザートに使う餡を作るぐらいの事はできるようになっていた。
以前は深夜まで営業する小料理屋的な店であったのだが、今は家族連れや、近所にあるこの県でただ一つの四年制大学の学生や教員たちが食事をしたりお茶を飲んだりするカフェ風の店になっている。そのため酒の肴系より、スウィーツ系のメニューの比率が高くなっているのだ。
今では祖父の作るあんこを使った和風のパフェや、饅頭と緑茶のセットは店の人気商品だ。
「美味が教えてくれたガレットとスープのセット、お昼には一番出るわね。夜は夜で、スープパスタとサラダのセットは良く出ているわ」
美味が不在で非常に忙しい昼食時は、その近所の大学の女子学生がアルバイトで入ってくれていたのだが、もうすぐ卒業なのだという。
「気働きが出来て、感じのいいバイトさんて、なかなかすぐには見つからなかったりするのよね」
その感じの良い学生が就職活動や帰省で不在の時は、後輩の学生が幾人か交代で入ってくれる体制には一応なっているらしいが、代役の学生たちは「正直、あまり役に立たない」らしい。中には、即お引き取り願った者もいたようだ。
その日の朝も、母と美味は「なかなか良いバイトさんがいない」という話をしていたのだが、帰宅してみると、母が上機嫌で「よさそうな人がみつかったわよっ!」と言うので、美味はホッとすると同時に、その「よさそうな人」がどんな人物か大いに気になった。
「おじいちゃんのお饅頭をいつも使って下さっていたお寺の住職さん」と、その住職さんの親戚である大学の先生から推薦された大学院生だという。その先生はこの地域の古文書を集めて研究している人で、住職さんの所にも過去帳や古い日記などを見せてもらいに通っていたりするらしい。
「僕の前世は日本人だったと信じてます、っていうアメリカ人でね、なんか映画俳優みたいにカッコいいのよ。ものすごく日本語上手だし、筆でくねくね書いてある古文書まで読めるんだって」
「僕って言うから、男なの?」
「そうよ、イケメンよ」
「髪の毛は金髪だったりする?」
「黒い髪で黒目よ。でも、鼻が高くて、あちら風の顔ね」
「名前は?」
「ええっと、なんだっけ。あだ名は『キーくん』なんだけどね。ハリウッドスターに似てるからついたらしいけど……あれ? 名刺もらったんだけど、あれ? どこやったかな。すごいムキムキでね、左の頬と左の腕全体に傷が有るのよ。でもね、声はいい感じだし、アメリカの有名なレストランでバイトしてたんだって。あ、その傷はね、高校出てすぐに軍隊に入って、アフリカのどこやらでゲリラと戦って乗ってたヘリコプターが落ちて、大けがした時の傷なんだって」
「え? 軍人さんだったの?」
「なんかね、アメリカは軍人さんになると出る奨学金が有るんだって、それで大学行って、大学生の時はレストランでバイトしたって事なんじゃないのかな」
「その人、いつから来てくれるって?」
「そうそう、その事を言っとかなきゃね。明日は美味がホテルの仕事が休みだから、明後日から頼もうかなと思ったんだけど『見学と見習いって事で』明日の朝九時には来るって。役に立ちそうになかったら遠慮なく断って構わないって先生も本人も言うけど、私の勘だと、大丈夫だと思うわ」
「お母さん、イケメンに甘いだけじゃない?」
「もう、この子は、なんて事言うの! って、そうかなあ。あんまり意識してないけど」
「甘いと思うよ」
母が美味の父を夫に選んだのも「ハンサムだから」というぐらいだから、甘いのも仕方がないのだろうと美味は思っている。
ともかくもこんな話をしながら、その日の母と娘の閉店後の遅い夕食はいつもより弾んだ雰囲気だった。ちなみに祖父は昼食と入浴・夕食をデイサービスセンターで済ませて、自室で眠っている。明日は美味が休みなので三人そろって朝食を食べ、昼食時はなじみのヘルパーさんに頼み、早めに閉店して夕食はまた三人そろって食べる予定だ。
「せっかくの休みだし、遊びに行ってもいいのよ。デートとか無いの?」などと母に聞かれる事もたびたびあったが、美味は祖父との時間も大切にしたかったのだ。
母親としてはそんな美味の気持ちは嬉しいものの、自分が結婚した年齢を過ぎてしまった娘に男っ気のかけらも無い現状が、あまり長引くのも心配ではあった。そんなこんなで「前世は日本人で、いずれ日本に永住したい」などと言うアメリカから来たという青年を、美味の母は最初から非常に気にしていたのであった。だが、娘から以前聞かされた「夢みたいな話」の事はすっかり忘れていた。
温泉卵にサトイモと油揚げの味噌汁、イワシのつくね団子と野菜の煮物という祖父の好物を揃えた朝食を和やかに囲んでから、美味は店の掃除をはじめた。まずは、入り口付近の掃き掃除から始めていると、そこへ、一人の人物が近づいてきた。
「美味ちゃん、だよね?」
声が、そのまま同じだった。
「え、ええ? スドウさん?」
「うん」
「母さんが、バイト頼むって言ってた人って」
「うん、僕」
「よかった!」
その後、美味は自分でも何を口走ったのかよく覚えていない。
だが、スドウと美味は店の真ん前で固く抱きしめあうなどという、小さな城下町には似つかわしくない「派手な事」をやらかしたので、向かいや斜め向かいの店のおじいさんやおばあさんから「アメリカさんは、やることがはでじゃのう」などと言われてしまっていた。その見物人の中にいつのまにやら、美味の母まで加わっていた。
「あー、もう、今日は臨時休業でいいわよ、ね」
そう宣言した母は、笑っていた。
「あんたたち、なんか積もる話でも有るんでしょ? 若い人たちだけで、行ってらっしゃい」
「どうもいきなりで、申し訳ございません。皆様、お騒がせいたしました」
アメリカ人のはずのスドウが、やけに折り目正しい礼をするので、近隣の高齢者の中での評価は大きくアップしたのは言うまでもない。
美味はスドウを家からほど近い、江戸時代にできた庭園に誘った。かつての殿様の住まいの一部だという場所で、今は県が管理する公園だ。地域の色々な伝統芸能や芸事のイベントにもよく使われている。
この庭園で春と秋に催される大茶会で出される和菓子類は、かつては美味の祖父と弟子たちが担当していたのだが、この十年ほどは別の店が作るようになってしまっていた。
園内はちょうど寒牡丹の展示が行われていた。
「へええ、春とはまた違って良いもんだねえ」
「あら、寒牡丹と冬牡丹って、違うんですね」
「ほんとだね」
美味とスドウは、案内板の説明を興味深く見てから、牡丹が良く見渡せる茶屋で甘酒を注文した。気温は低いが、風は無いし、良く晴れている。
「甘酒なんて、ものすごく久しぶりだよ。何だかホッとする味だよなあ」
「見た目アメリカ人だけど、中身、日本人のままですね」
「うん。そうなんだ。日本にたどり着いてから、朝は毎日味噌汁にご飯だよ。やっぱりいいよね」
「それはそうと、こちらの世界にたどり着いたのは、いつだったんです?」
「七年前だな」
「私が戻ったよりも、前の時間になるんですね」
「そうなんだよ。ひょっとして、美味ちゃんのいる世界じゃない所なのかと、焦ったりもした。訳が分からない内に酷く負傷していてね。左半身が特に重傷で、耳たぶがもげたんだよ」
その取れてしまった耳たぶの跡を、スドウは堂々と外にさらしている。
「その、場所はどこだったんです?」
「内戦真っ最中のソマリア」
「大変だったんですね」
「うん。今の体は普通の人間の体らしくて、普通に痛いし、再生機能も普通のレベルだから、大きく傷やらヤケドやらも残ってる。でも、耳たぶがもげても普通に耳は聞こえるし、手足もリハビリに励んだおかげで、普通に使えるようになった」
「スドウさん、こっちの世界にずっといられるんですか?」
「ずっと……じゃないだろうけど、百年未満、って事にはなるらしい」
「じゃあ……私の葬式、してもらえるかな」
「うん。大丈夫だ」
そう言ってから、スドウは笑った。
「なあ、いきなり葬式って、枯れすぎだな」
「あ、そうですね」
「お母さんは、ある程度、僕らの事情は御存知なのかな?」
「ええ。私がスドウさんに助けてもらった事と、失恋した事を大体話しました」
「だからあ、失恋じゃない。こうやって、アメリカから追いかけて来たんだし」
「もしかしてそうかなー、と思ったけど、違ったら気まずいから、どうしようかって悩んでました」
「美味ちゃん、二十歳になったんだよね?」
「ええ。スドウさんは、何歳って事になるんですか?」
「何か色々ぶれてね、二十六歳という設定だよ。お互い大人だから、もういいかな……」
「え? 何がですか?」
「豊原美味さん」
「はい?」
「将来の結婚を前提に、僕と付き合って下さい」
「え? えええっ?」
「ダメか」
「ダメじゃありません……ありませんけど……」
「ありませんけど?」
「あー、びっくりした」
「びっくりしただけ?」
「あ、ああ、ごめんなさい。謹んで、お受けいたします」
「あー、よかった」
「ほんと、良かったです」
スドウは美味の肩を抱き寄せた。
「お店の前で、いきなり僕にかじりついちゃったから、ちょっと照れたけど、美味ちゃんが僕を待っていてくれたのは、痛いほどよくわかった。嬉しかったよ」
二人は臨時休業になった家の方に向かった。
その翌年に二人は結婚した。
結婚は美味に幾つもの幸せをもたらしてくれた。
とりわけ嬉しかったのは、祖父が元気な内に曾孫を三人見せられた事と、結婚式の際に家に戻った父と母の関係が修復された事だろう。
スドウは結婚する以前から、美味の母をよく手伝い、研究の合間に製菓学校の和菓子のコースに通ったりしていた。結婚し、更に大学院を出てからは、一時アメリカ系の巨大スーパーの日本法人の役員をやったりしたが「目標の資金がたまった」ところで、母の店のすぐそばに大きくは無いが品の良い和菓子の店を立ち上げた。
店を開いてからは、祖父のつてを頼って各地の「名人」と呼ばれる人を訪ねて教えを乞い、職人としての研鑽をつむ一方で、和菓子に関する古文書を集め、忘れられた技法を復活させることに熱心に取り組んだ。そのおかげで歴史の浅い店ながら、祖父の顧客であった寺や神社の関係者もほぼすべて受け継ぐ事に成功し、老舗の料亭が季節の和菓子を定期的に購入してくれるようになった他、マスコミの取材なども増え、各方面で確実に顧客層を広げている。
結婚して五年後に、スドウは正式に日本国籍を得て、須藤麗門と名乗るようになった。と言っても本人に言わせれば、本来の名をようやく名乗れるようになっただけなのではあったが……ともかくも晴れ晴れとした夫の表情を見るのは、美味にとっても嬉しい事であった。
スドウは負傷した際に「たまたま上官をかばう格好になった」為にアメリカ軍の名誉除隊証書を得ていたが、そのお蔭で、大学への入学も在学中のアルバイトも、更には日本への留学もスムーズに運んだのだそうだ。アメリカ国籍を失う事で、色々な権利や恩典も失うのは美味からするともったいない気もしたのだが、本人は「もう十分に役に立ってくれた」と納得しているらしかった。
アメリカ国籍を失った後でも「アメリカに関係するすべての交渉事で、この証書は一生役に立つ」のだそうで、アメリカのお役所関係の手続きやら申請やらがスムーズだったり、アメリカ系の企業との付き合いが有利だったりするのは確実なようであった。だから「世界に日本の美味しさを伝える上でも大いに役に立つ」という夫の言葉は、恐らく事実なのだろうと美味は思っている。
美味自身は母や夫を手伝いながらホテルの仕事も続けていたが、二人目の子が出来たところで退職した。しかし、すぐにスドウの立ち上げた店がホテルの中に、和風の喫茶コーナーを始めたので、美味は毎日のように元の職場に顔を出し、挨拶を欠かさないようにしている。そのおかげもあるのだろう。喫茶コーナーは評判も良く、連日大盛況だ。
「忙しい休暇ねえ」
「確かに、ちょっと忙しすぎるかな」
そんな会話を夫婦で交わす日々を重ねて年月が過ぎ、やがて祖父が、その十年後に母が亡くなり、三人の子供たちも皆、順調に育ち、それぞれに食べ物に係わる仕事を始めた。
さらにその子供たちがそれぞれ所帯を持ち、子が生まれるようになると、美味も次第に体力の衰えを感じるようになってきた。
「おばあちゃんだもの、無理も無いわよね」
「孫たちからすればおばあちゃんでも、美味ちゃんは十分に若いし魅力的だよ」
そんな風に言ってくれる夫は、やはり人間離れした若さを保っている。別世界においてきた肉体と違って、約束された休暇の期間しか持たない肉体なのだというが、白髪以外に年齢を意識させるところがないのだ。
「百年という約束の期間も、気が付けば半分過ぎたんですね」
「そうだな。子供たちはちゃんとやっているし、孫たちも育ってきたし、店の方も順調だから、そろそろのんびりしても、いいな」
金婚式を迎えて以降、二人は仕事を子供や従業員たちになるべく任せるようにして、ゆっくり旅に出たりする機会を増やしている。
「残りの期間が過ぎたら、戻るんですか?」
「そうなるんだろうな。気が重い事だ」
「じゃあ、ずっとこっちに残ります?」
「それが出来るんなら、いいんだけどな」
残りが三十年を切るようになったころから、度々こんな話をするようになった二人だが、子供たちは父が一体どこに戻るのか、さっぱり訳が分からずにいた。両親に尋ねても、どちらもあいまいに笑うだけで、一切説明をしてくれなかったのだ。




