思案のしどころ・5
美味はスドウの判断に自分をゆだねる覚悟は決めていた。だが、次に目覚めたとき、自分はどこでどうなっているのか不安にならないと言えばうそになる。いよいよスイッチを切るというその日になると、やはり不安は大きくなってくるのだった。早めにスープとパンだけの簡単な夕食を済ませたが、何を食べているのかわからないほど、気分が不安定になっているのが自分でもわかる。後片付け一つとっても、これで最後なのだと思うと平静な気分ではいられない。
スドウのいつに変わらぬ穏やかで落ち着いた態度が、薄情にも感じられてしまう。
小さな中庭を見下ろす窓からは見えるのは、穏やかな夕暮れの風景だ。
完全に日が暮れたら、スドウは出発する事にしているらしい。美味の目の前には、以前の移動の際も美味を詰め込んだのだという黒いリュックが置かれた。
「次に目が覚めた時も、スドウさんの事を覚えていたいです」
地球と同じ色をした夕日を眺めていたせいで感情を刺激されてしまったようで、美味は言わずにおこうと決めていたはずの事を、思わず口走ってしまった。
母と暮らしていた町の大学病院で目が覚めて、この世界の事もスドウの事も何もかもすっかり忘れてしまっている、そんな状態になるのはどう考えても耐えられない。そんな気持ちが膨れ上がってしまって、黙っていられなかったのだった。
「記憶を残すかどうかについては、美味ちゃん自身の判断に任されるらしい。メルヤ・アホとの面談には美味ちゃんも立ち会って、はっきり希望を言ってもらおう。それが一番すっきりするし」
スドウはこれまで二度ほど「これから普通に地球で暮らすならば、心の負担になる可能性の高い異世界の記憶など無い方が良い」というような話をしたが、美味の「忘れたくない」という固い気持ちを知ると、美味の自身の希望で決めればよいという態度に変わってきた。
「実は今朝の明け方の事なんだけど、あの岩だらけの暗い星に有るらしい巨大な人工知能らしき存在からコンタクトが有った。すぐという訳にはいかないらしいけれど、どうやら1500年ぶりに休みをくれるみたいだ」
「休み、ですか?」
「うん。『休みをあげよう』って向こうが伝えてきた。僕の意識だけを地球に送るというか、元の世界に帰らせる事自体はメルヤ・アホって子の知っているレベルの技術でも可能らしいんだよ。でも、誰かの肉体を乗っ取ってしまう形っていうのは……抵抗が有るんだよな。僕自体が抵抗を感じるだけじゃなくて、本来の肉体の持ち主の意識の状態というのは色々なケースが有るらしくて、僕の意識と基本的な人格を保ちたいなら、他人の肉体は避けるべきらしい」
「じゃあ、意識だけでも地球へ帰らせるって、どういう形をとるんでしょう?」
「本当は存在しない人物を作り出すらしい。物理的に肉体を作るだけじゃ、二十一世紀の先進国の発展段階ではもはや色々と無理が有って、巧く社会になじめない。そこで、ネット上の記録を改ざんしても目立たないような経歴をねつ造したりもするようだ。これもまあ犯罪的行為には違いないが、誰かの肉体を乗っ取ってしまうよりは、罪悪感が薄いかな」
「じゃあ、スドウさんと私、地球でも会えるんですか?」
「どうかなあ。美味ちゃんが元気に生きている時間と空間にたどり着けるのかハッキリしないし、地球で僕が使うことになる肉体は姿かたちも今とはまるで違う可能性も大きいし、恐らくは日本人ではないだろうし、話はそう単純じゃなさそうだ」
「時間がずれちゃうんですか?」
「人工知能の方からのアクセスでは、そんな情報は無かったように思うんだが……メルヤ・アホって子によれば、元来の肉体が存在しない意識体をピンポイントで特定の時間と場所に送り込む事は至難の業なんだとさ」
「メルヤ・アホって人の知っている技術というかテクノロジーというかの段階だと、無理でも、その、今のスドウさんの体を作ったレベルの技術なら、なんとかうまくできそうなんじゃ?」
「そうだといいなと思うけど、あの人工知能はその点に関しては今朝がたも何の情報もくれなかったからな、どうなんだろう」
スドウの今の肉体を作り出したと思われる謎の人工知能からのアクセスは、非常に間遠で、かすかなものであるらしい。
「次の情報が届くまで、僕のこれからに関しては、はっきりした話はできないってわけだ」
「でも、休みをくれるって事は、良い前兆なのでは?」
「良いのか、そうでもないのか、わからないと思ってる。僕の体の『製作者』が休ませると決定すれば、いやでもそうなっちゃうんだろうし……その休みって事が『この世界における僕自身の全機能停止』を意味するなら、死ぬ事とどう違うのか、良くわからない。この世界で死ぬ代わりにまっとうな一生を平成の日本で送る事が叶うなら、それで全然かまわないんだが……そんな保証は無いようだし……」
製作者はただ単に『この世界での機能停止』だけを行うにすぎないのかもしれない、あるいは、機能停止の間にメンテナンスでもするという事なのかもしれない。そんな話もスドウはした。
「でも、そんな機械的な話なら『休みをあげよう』なんて言葉を使うでしょうか?」
便利な道具か家畜に近い存在のようにスドウをとらえているのなら、いきなり機能を停止するのではないかと美味は思った。
「そうだといいなと、僕も思うけど、あくまでも希望的観測でさ、やっぱり僕はあの僕のこの体を作った存在からすると『観測機材』とか『実験用具』とかに近い存在なんじゃないかと思うんだ。というのもさ……」
スドウは何かを思い出して苦笑しながら『製作者』がかなり無理をしてでもコンタクトをとるようになったのは「僕が故障したのではないかと疑った所為みたいだよ」と付け足した。
「へええ、どうして故障したなんて判断を下したんでしょうね」
「どうもねえ……僕の子供が全く生まれなくなったから……らしいんだ」
「はあ」
「実は自分の血を受け継いだ大勢の人たちが、敵味方に分かれて殺しあう場面に遭遇した事が有るんだが、非常に辛かった。それに子供たちや孫たちの血を受け継いだ女の子は、異性というより身内に見えてしまうという状況にもたびたび遭遇したし、どうもその子供が出来ようもない状態だったんだ。僕自身の気持ちが」
スドウが言うには『無自覚に多くの子孫を作ってしまった責任』を強く感じるのだという。
「僕の不自然な今の体はどうやら破壊する手段も無さそうなので、死ぬに死ねないって言う事実は動かせない様なんだ。一時的にこの肉体を停止させるとして、その後をどうするかだよね。この肉体に僕以外の……もっと使い勝手のいい誰かの意識を入れるって選択肢もありそうだし……」
「でも、それって、この世界の多くの人とは縁もゆかりもない赤の他人が、スドウさんと入れ替わるって事ですよね」
「うん。僕の人格とかこれまでの判断をあの『制作者』がどう評価しているのか、僕には伝わってないからね。評価が低いのであれば、入れ替えというか、僕の人格を破棄するというか、そんな事にもなりそうだ」
「破棄するにしたって、せめて平成の日本社会で普通に暮らせるような肉体ぐらい『製作者』が用意するべきだと思うんです。だって1500年以上もスドウさんの事を働かせてきたんですから」
「まあ、それぐらいの事はしてほしいが……『製作者』は人じゃない。多分巨大で高性能な人工頭脳なんだ。人間の感情をどの程度まで正確に理解できるのかなあ。ドライに使い勝手の悪い意識体を、使い勝手のいい意識体に取り換える事ぐらい、痛くもかゆくもないんだろう。せいぜいパーツの入れ替え程度の認識じゃないのかな」
「そんな……」
スドウのこの今の肉体に、全く別の人格が宿ったとしたら……美味は今ほどスドウを好きになれたかどうかわからない。
「美味ちゃんは、失恋って言ったけど、それはむしろ僕の方に当てはまる言葉かもしれない」
「なぜですか?」
「僕は……恋をする機会すら失っているから。僕が平凡でも健康な平成の日本の高校生だったら……美味ちゃんと『お友達から』ゆっくりと思い出を重ねて行って、特別な関係になれたかもしれないけれど……肉体と心の有りようがあやふやで、どこからどこまでが自分なのかもはっきりしないような胡散臭い状態の今の僕じゃあ、日本に帰れば確実に平和な毎日を取り戻せそうな美味ちゃんをこの世界に押しとどめるのは、どう考えても良い事だとは思えない……それに……」
それでも、やはりスドウにとって、自分は何が何でも一緒にいたいという存在では無いのだと美味は思った。思ったが、それを口にはせず、珍しく言いよどんでいるスドウの言葉を待った。
「僕は幼いころに母と死に別れたし、父は新しい奥さんと平和な家庭を築いていて、僕の事も普段はほとんど意識しないようになっているから、地球に戻る必然性もあまり強く感じなかった。だが……美味ちゃんは事情が違う。病院に通い続ける美味ちゃんのお母さんの強い想いを垣間見てしまうと、あの強い想いを無視するなんて、僕にはできない。だから、やっぱり美味ちゃんはお母さんのもとに、戻らなきゃな」
「スドウさんは、ご自分のお父さんの意識とか、読み取れちゃったりするんですか?」
「あっちが強く僕の事を思ってくれた時だけね。どうやら僕の法事やら墓参りやらの時ぐらいしか、今は思い返さないみたいだ」
「ええっと、スドウさんがこっち来てから、1500年以上たつんですよね。それなのにお父さんの意識は、今でも時々流れ込んで来る、そういう事ですか?」
「地球とこっちじゃ時間の流れ方が違うのか、時空がいびつなのか、僕にはわからない。どうなるんだろうな、その辺は。だが、つい最近も父親が墓参りした時の感情に、寝ている時の夢の形で触れることはあったよ」
スドウに分からない事が自分に理解できるとは思わないので、美味は時空のゆがみや時間の流れについて考えるのは止めた。
「どう時空が歪んでたって、元来の肉体が完全な形で存在していれば、そこに意識を戻すのは比較的容易で確実というのは間違いないようなんだ。だから、美味ちゃんは無事に戻る事が出来る。僕はそう信じているよ」
美味はだまってうなずき、スドウに首を差し伸べた。スイッチを切った瞬間の感覚がどうであったのか、どうもうまく思い出せない。
次に目覚めた瞬間、一番に目に飛び込んできたのは、心配そうにのぞきこむやつれた母の顔だった。
「美味、美味ちゃん、わかる? お母さんが、わかる?」
美味はうなずいた。すると周りにいたらしい病院のスタッフたちが一斉に歓声をあげた。こちらはこちらで、大変な事になっていたのだ。そう実感させられた。だから、美味は無理にも笑みを浮かべる必要性を感じた。
「わかるよ。心配かけてごめんね」
その言葉に、拍手が巻き起こった。
頭が重い。
スドウのスイッチを切る瞬間の何を考えているのかよくわからないが、妙に静まりかえった表情も、「じゃあ、切るよ」という声も鮮明に思い返せるのに、その後の記憶が何も無い。果たして、あの後、メルヤ・アホとの話し合いはどうなったのか? 美味の意志は無視されたのか? そうではないのか? スドウはあれからどうなったのか?
わからない事ばかりだ。
ほどなく、美味は退院して、再び学校に戻った。
「なんか、美味ちゃん、雰囲気が変わったね」
「うんうん。なんか女の子っぽくなった」
「別に不器量って訳じゃないけど、前は何というか女の子って感じはしなかったんだよね。だけど今は乙女チックな雰囲気が漂ってる」
「なんかいいことあった?」
興味津々という感じの同級生に「別に、入院していただけだけど」と美味が答えると、「うそだあ」と決めつけられた。
「イケメンのお医者さんとか、カッコいい看護師さんとか、美青年の患者さんとか、誰か仲のいい人でもできたんじゃないの?」
勝手にそんな噂までたつようになって、閉口している。
「ねえ、誰か好きな人でも出来たの?」
終いには母にまで、そういわれた。
「うん」
「どこの人?」
「多分、もう、二度と会えない人」
そういったとたん、美味の瞳から涙があふれ出た。まぎれもない暖かな塩味のする人間の涙の味は、今はここにいない男の姿と声を鮮明に思い出させた。
激しく泣きじゃくる美味を前にして、母は驚いたようだったが、やがておずおずと遠慮がちにではあったが腕を差し伸べて、美味を抱きしめたのだった。
「何が有ったの? 話だけでもしてみない? ええっと、無理にってわけじゃないのよ」
「うん。あのね……」
美味はポツリポツリとではあったが、スドウの話を始めたのだった。
11月19日に誤字を三か所訂正しました。他にもありますでしょうから、教えていただければ幸いです。




