思案のしどころ・4
自分は失恋した。
美味はそう思った。
スドウは「違う」というが、ある種のリップサービスというか、まだ数日でも共同生活をする相手に、あまり気まずい思いをさせたくないという心遣い、そんな程度の物だと思ったのだ。
「きっと、死んじゃった人の中に、本当に大好きな人がいたんだろうね。だから、その人以上の存在になんか私がなれるはずもないわけだから……」
そう考えると、最初から失恋は確定だったように思うのだ。
「一応、告白はしたわけだから、あきらめなくちゃね」
そう決心すると、何かすっきりした。スドウは気遣いのある人なので、美味がきまり悪く思うような話を自分から始めたりする事は絶対にない。だから、スドウの言うように限りある時間を、出来るだけ穏やかに楽しく過ごす。そう決めたら、気分が軽くなった。
「一日だけでいいから、ドミニクちゃんに特別指導をしてあげなくちゃ」とスドウが言うので、家に招待して、どら焼きと重曹と卵を使うドーナツと基本のスポンジケーキの作り方を美味が指導した。
特にスポンジケーキはスドウも「ちゃんと覚えておきたい」というので、製菓の授業でやった通りの「省略してはいけない基本事項」をきっちりおさえて、二人に教えたのだ。
「ともかくも小麦粉は腕の長さぐらいの高さから、しっかり三回はふるいにかけましょう」
「回数が少ないと、どうなのですか?」
ドミニクちゃんも、この日は質問しながら熱心にメモを取った。
「粉の塊がわずかでも残っていたり、空気の含ませ方が足りなかったりすると、ふんわりしません」
「オーブンというか、かまどは、温めておくんだろ?」
「ええ。170度前後としたもんですが、こちらのかまどなら弱めの中火でしょうかね。やや高めでも、開け閉めする内に内部の温度が下がりますから」
ドミニクちゃんには、摂氏170度の目安を追加で説明すべきなんだろうと美味なりに思うが、どう説明すべきか、とっさに思い浮かばない。
スドウも「170度の揚げ物の油だと、落とした衣は真ん中まで沈んですぐに浮かんでくる。だが、焼き菓子を作るかまどの場合はなあ……」などと悩み中だ。結局「特別に温度を測る器具を、レムリアの工房に作らせよう」ということになったようだ。平成の日本なら200度まで測定可能な温度計が二千円も出せば十分買えると思うのだが、この世界ではそうもいかない。水銀を細いガラス管に封入するだけでも、よほどの名工でなければ不可能らしい。しかも、そんな細工ができる名工は遠いレムリアぐらいにしかいないらしい。
「卵の湯煎を省くと、どうなりますか?」
湯煎というのも、ドミニクちゃんには目新しい手法なのだろう。
「卵は冷たいママだと、ふんわりしにくいです。そうかといって、熱すぎると卵が煮えてしまって、泡立ちません。湯を沸かし、その中にこうして一回り小さい鍋などを入れて、食材を小鍋ごと温めると、焦げ付きませんし、卵がちょうど良い感じにゆっくり暖かくなります。それがいいんです。湯煎は省かずに、ちゃんとやって下さい」
「出来るだけふんわりさせたい場合の工夫は、何かほかに有りますか?」
「卵白を一個分程度多めにして、しっかり泡立てるという方法があります。あとは小麦粉に一割程度米の粉を加える方法もありますよ」
「どのぐらいの熱さのお湯を使うのですか?」
「やっと手が入るぐらいの熱さのお湯でいいです。でも熱くなり過ぎは禁物ですよ。思い切り速くしっかり卵を混ぜます。ともかくこのぐらい白っぽくなって見えるまで混ぜます。こうして、ほら、楊枝を突き刺しても倒れないぐらいの固さになるまで、気合いを入れて、しっかり混ぜて下さい」
「はい」
美味の言葉通り気合いを入れて、ドミニクちゃんも真剣に卵を泡立てる。それから振るった小麦粉を混ぜ、溶かしバターを加える。
「高い位置から生地をすくって落とす時に、リボン状に積み重なるような状態だと完璧です」
スドウは難なく完璧な状態の生地を作った。
「焼き時間はどの程度かな?」
「二十分ほどです。焼きすぎは禁物ですよ」
スドウは「二十分」の意味が解らず怪訝な顔のドミニクちゃんに「中型の砂時計で二回測る長さ」と解説する。
「火加減や、その日の気候でも焼くべき時間は多少変わりますから、膨らんだ生地がわずかに沈んだ時が焼き上がりの目安だと覚えておいて下さい」
その後、美味が前日に焼いたスポンジを二枚にスライスして、ジャムを挟んだ。
「焼きたては、ダメなのですか?」
ドミニクちゃんは、折角自分が苦労して焼いたスポンジを使わないので、少し不満気だった。
「ダメじゃないですが、一日置かないとキレイに切りにくいです。どうしてもボロボロになりがちです」
バタークリームの作り方も教えた。生クリームよりも安定度が高いので、デコーレーションにはやはり不可欠だからだ。良いバターと新鮮な卵を使ったバタークリームは、光沢も美しいし、味も決してしつこくはない。まともなバタークリームの美味しさは、生クリームより上だと美味は思っている。
「卵白を使うやり方と、卵黄を使うやり方、両方を教えますから、ちゃんとメモも取って下さい」
本当はもう一つ、卵黄に牛乳も加えるやり方も有る。味自体は牛乳入りが一番おいしいかも知れないのだが、形が崩れ易いから飾りには向かないのだ。巻き込んだり生地にはさんだり、フルーツやチョコと合わせたりすると、口どけも良く美味しいので残念だが今回は見送った。そもそもこの世界にはチョコが無いというのも、省いた大きな理由だ。
美味が予想していたよりも、ずっと本気で熱心なドミニクちゃんは、初心者には難しい火加減も何とか覚えようと必死だ。二種類ともドミニクちゃん自身の手で、最初から最後までやらせてみたが、美味が作ったものと大差ないレベルに仕上がった。
「御助言が適切だからですわ」とドミニクちゃんは言うが、器用さやセンスの良さは本物なのだろう。熱意も有るのだから、美味が残すレシピ集をちゃんと活用してくれそうだ。
ちなみに、そのレシピ集は美味が口頭でした説明を、スドウが素早く書き留め、さらに解り易く手順を整理して、再び美味が点検する……といった感じで、ほんの一日で作ったものだ。それでも、この世界では目新しい料理と菓子類の作り方が二百種類ほども載っているという、充実の内容である。
「卵白の方は真っ白で、卵黄の方はごく淡い黄色なのですね」
どちらのクリームにも、この世界ではまだ珍しいグラニュー糖に近いタイプの砂糖が必要だ。どうしたって、貴族や王族でも毎日食べるのは贅沢な菓子になってしまう。
それから美味は純白とベージュのクリームで、様々なデザインをして見せた。クリームを蠟引きの紙で作った絞り袋に入れて、線や模様を描く事自体もドミニクちゃんには未知の手法なので、非常に興味を持ってくれた様子だった。
絞り袋を作るパラフィン紙に相当するこの世界の蠟引きの紙は、特別な衣類の仕立ての型紙とか、特別な細工の職人でも無ければ使わない特殊で高価な商品だ。可能な限り薄手の紙を探しても、わら半紙という風情の物しか見つからない。繊細な飾りつけには薄手の絞り袋の方が適しているのだが、有るもので出来る範囲の事をするしかない。
厚手のゴワつく絞り袋では、ごくごくシンプルな直線と、かなり大ぶりなドット、波型、そんなものぐらいしかまともに絞れない。それでもドミニクちゃんには新鮮なようで「まあ、すてき」を連発した。
更に完成度は低いが、つる草や花の形らしきものを作ったり、そこに果物やジャム、砂糖漬けの果物や食べられる花、ドライフルーツ、ナッツなどを飾る、などという事もして見せた。
「本当に色々な飾り方が有るんですのね」
ドミニクちゃんは、なかなかに上手なスケッチで、色々なデザインをノートに書き残そうとしている。二十一世紀の日本に生まれていたら、カリスマパティシエになったかもしれない。
だが、普通の食事もままならない人間が多いらしいこの世界では、当分デコレーションケーキは、庶民には高嶺の花であり続けるのだろうし、パティシエも独立した職業にはまだまだなりにくいのかもしれない。ドミニクちゃんのように、贅沢な材料も十分に使う事の出来る立場でなければ、美味の教える技法も生かせないのだ。
だが、美味が教えた技術がいつの日か、この世界でも一般的なものになって、庶民でもケーキを楽しめるようになる日が来るのではないか……などと美味は考える。
「ドーナツを飾っても良いのでしょうか?」
「それはもう、工夫次第で、おいしかったら何でもいいんですよ。じゃあ、クリーム使って飾ってみますか、ドーナツも」
美味が言うと、ドミニクちゃんは嬉しそうにドーナツにもデコレーションを始める。一個づつ,美味から見せられたばかりのやり方を試したのだ。そんなわけで、しまいには、デコレートしたドーナツだらけになってしまった。
「小さなドーナツをたくさん作って、蜂蜜やクリームを使って積み上げれば、ケーキっぽいですよ」
何気なく美味は思い付きで言ったのだが、それを聞いたドミニクちゃんは、えらく喜んだ。プチシューを積み上げればフランスの婚礼菓子クロカンブッシュなわけで、丸いドーナツを積み上げれば、形は似た感じになる。工夫次第で色々豪華にも出来るだろう。
「まあ、それなら、うちの領地の村人の家でも、作る事が出来そうですね。祭りの菓子なんかにも、良さそうです」
「良い事思いついたな、ドミニクちゃん」
スドウにも褒められたドミニクちゃんは、実にうれしそうだった。
最後は美味が、クロカンブッシュ風のドーナツタワーの飾り方のアイデアを幾つかデッサンして、ドミニクちゃんに渡した。
「まあ、お花を飾るのは素敵ですわ。果物を上手に取り入れれば、収穫祭などにも良さそう」
「最後のリボンやレースで飾ったのは、婚礼用によさそうだ」
わざとなのか、無意識なのか、スドウがそんなことを言う。クロカンブッシュが婚礼菓子である事ぐらい、スドウなら知っていただろうから、美味のデッサンからそういう言葉が出ても不自然ではないが……わざとなんじゃないかと、やっぱり美味は思ってしまう。
「本当ですわね! 私、決めましたわ! 自分の婚礼の時には、きっとこの様にテーブルを飾って、高く積み上げたドーナツを置こうと思います」
自分の婚礼について早くもあれこれ考えを巡らせているらしいドミニクちゃんを見ると、やっぱり気分はすっきりしない。
ドミニクちゃんへの一日特別指導が終わると、いよいよ出発準備も仕上げ段階に入る。どうやらスドウは様々な役所的手続きはさっさと済ませ、大学の方も引継ぎなどを終えたようだ。
美味も臨時休業以来一度しか顔を合わせていないタニアさんの所に、ドミニクちゃんに渡した物とは違うレシピ集と店の帳簿類や鍵を持っていく事にした。
確かにスドウの言うように、タニアさんはしばらく見ない内に、雰囲気が変わっていた。化粧もしていたし、少し太ってもいた。そして、美味が苦手だと感じるような、ある種の女臭さを感じさせた。
「あのね、言ってなかったけれど、私、所帯を持つ事になりそうなの」
「はあ」
「昨日ね、一応、アントニエッタ先生にお話して、お許しは頂いたの」
「そうですか。おめでとうございます」
そのあとは、タニアさん一人が色々しゃべったが、美味はあまりよく覚えていない。
美味がそんな調子なので、話は弾まず、最後になるかもしれない会話は、一向に弾まなかった。それでも、最後にタニアさんが「今まで色々ありがとうね」と言ってくれて、つっかえつっかえではあったが、美味も「どうかお幸せに」と別れ際に言う事ができたのだから、良しとすべきなのだろう。
具体的な旅というか、約束場所への移動だが、何とスドウは人目を避けて、夜間を中心に歩くというか走るつもりらしい。
「出発が迫っている割に馬車の話が出ないなあと思ってましたけど、歩きとは驚きます」
自分も走る事になるのだろうか、などとちょっと美味は悩んだが、その必要は無かったらしい。
「最初のネイメンからルテティアへの移動も徒歩さ。君の体はこのリュックに入れて背負ってきた。今回もそうするつもりだよ」
「ええっ? そうなんですか?」
「美味ちゃんのメインスイッチを切る事にはなるんだが、それが一番安全で確実だ」
美味の中で、前回よりスドウに対する信頼度や親密度が大いに上昇したせいか、スイッチを切られる事に対する拒否感はわかなかった。
スドウによれば、かつてレムリア帝国の時代に整備されたものの今は忘れられてしまった道がかなりあるそうだ。特殊能力で夜間の視力も問題ないし、生物反応もチェックできるので、ほとんど人間とすれ違う事も無く大半の行程を進めてしまう事が出来るのだそうだ。
「大半の旅人は夜間は移動しないし、急な公務で移動する役人や軍人は街道筋を馬で走るのが普通だ。運悪く山賊に出くわしそうになったにしても、見つかる前に木の上に登ったりすれば、十中八九無事にやり過ごせるはずだ」
スドウは行程の安全性については、何の疑念も持っていないようだ。美味を救助するためにちょっとした乱闘騒ぎになった以外は「一度も見つかった事はない」らしい。
スドウに言わせると、クッション性の低い馬車に長時間乗ったり、馬に揺られる方が、走るよりもよほどエネルギーが消耗するらしい。
「揺れによる不調を解消するモードは、何かと効率が良くないんだ」
発生した臓器などの揺れを、波動を生じさせて打ち消すモードなのだそうだ。「ノイズキャンセリングの原理と似たようなもんだ」というスドウの説明は、美味にはピンと来なかったが、ともかくもそのモードを発動すると「肝心な移動速度が落ちてしまう」らしい。
「普通に走ったって、僕は早いし」
「全速力だと、どの程度まで行くんですか?」
「安定した走りでも時速三百キロは出せる。実は」という。新幹線ですか?と美味はあきれた。
「そんなに早いと、不気味がられません?」
「だから人がほとんど通らないルートを行くのさ」
その先がどうなるのか、美味にはまだ、はっきりと見えていない。




