思案のしどころ・2
朝になって美味が真っ先にしたのは、店を二日続けて休むという連絡をタニアさんにする事だった。スドウが急に仕事を休む事なったと報告しただけの、非常に短い手紙を書いて、今いる家兼店舗のすぐ目と鼻の先にある貸馬車屋の店に持って行った。アントニエッタ先生の家に住んでいるタニアさんに、大至急届けるように頼むためだ。
「店の方に教授先生から月ごとに十分な御代を頂いてますから」と遠慮する御者に、「ほんの気持ちだけ」だと言って銀貨一枚の心付けを渡した。
いつもなら台所に姿を見せる時間になっても、スドウは自室から出てこない。何も手につかずふさぎ込んでいる……とは思わないが、昨夜の様子からすると平静な精神状態だとも思えない。
あの奇妙な端末の内部の情報を取り出そうと奮闘しているのかもしれない、あるいは既に取り出した情報を前に、ひどく怒ったり悲しんだりしているのかもしれない。だが、美味にはそれを確かめるためだけにスドウの部屋を訪ねて行く勇気は無かった。
「考えてみれば……私って一度もスドウさんの部屋に行ったことが無いなあ」
別にスドウに「来るな」とか「立ち入り禁止」などと言われたわけでは無い。だが、生真面目な女子高校生にとって男の寝室というのは、やはりハードルが高いものなのだ。
「スドウさんは……壁紙の張り替えとか、家具の配置換えとか、色々やってくれたのになあ……」
スドウが珍しく、気分的に滅入っているのが明らかなのに何もしないなんて、それはそれで、共同生活者としてどうなのかとも思う。だから……ともかくも、美味は朝食を作る事にした。
「朝ご飯を持っていくのなら、部屋のドアをノックも出来そう」
手持ちの野菜類を細かく刻んで、鶏のスープストックで煮る。更にプレーンな感じのホットケーキを焼く。
ホットケーキはスドウが持ってきた重曹を使ってふんわりさせるのだが、重曹の苦みを抑えるために柑橘系の果汁を加えるのが美味なりの工夫だ。学校で教えられたのはレモン果汁で苦みを抑える方法だが、ともかくも酸性の物が少し入れるのが大事らしい。
これまでベーキングパウダーが無いので、好物のホットケーキを食べるのをあきらめていたと言うスドウは、美味の工夫を大いに褒めてくれた。
「でもスドウさんなら……卵白を泡立てる事を思いつかないはずもないわよねえ……チョッとほめ過ぎのような気もするんだなあ……」
調理経験の浅い女の子ならスドウのその言葉を信じただろうが、これまで見てきたスドウの調理のスキルから言って、卵白で生地をふんわりさせる事を思いつかなかったとは美味には到底思えない。それでも「ホットケーキらしいホットケーキだ。これはうれしいな」と言ってくれた言葉までが嘘だとは思えない。ホットケーキが好物だと言うのも、多分本当だ。だから、ともかくも丁寧にきちんと作る。
「女の子を悦ばせなくちゃと言う気持ちが強いのかなあ……」
スドウが嘘つきだとは思はない。だが、時々リップサービスが過剰なのかも知れないと思う。
「秘密も多いし……でも、秘密にするそれなりの事情も理由も有るんだろうとは思うけど……」
別鍋の上等なベーコンは弱火でじっくり火を通し、そこに卵を割りいれる。黄味の加減がスドウの一番好きな半熟より微妙に固めになるように細心の注意を払う。
飲み物はホットアップルジュースだ。幾つものやり方があるだろうが、美味は体調が悪い時に母が作ってくれたのと同じ方法を取った。リンゴを丸ごとすりおろし、生姜とシナモンとを加えて温めてから布でこし、熱湯で少し割る。
蜂蜜などを足さない、少しさっぱりした感じがスドウは好きらしい。スドウに作って出すたびに「おいしい」とは言ってくれるが、心から本当においしいと感じたらしい時は、スドウの口角が微妙なカーブを描くのだ。そのカーブを描いた日のホットアップルジュースの甘みと濃さ、そして生姜とシナモンの加減を忠実に再現する。
ホットケーキに野菜スープとベーコンエッグの朝食にたっぷりのホットアップルジュースを添えて、美味はスドウの部屋に食事を運ぶ。大振りの丸い盆に全てを載せても危なげなく片手で支えられるのは、今のロボット的な体のおかげでもある。
「朝食をお持ちしましたよ」
スドウは驚いたようだったが、すぐに自室の戸を開けてくれた。大きなデスクと簡素なデザインのベッド、衣装ダンスそして壁面の本棚以外は何も無さそうな、すっきりした感じのその部屋は、ネイメンの家の屋根裏の部屋にそっくりだった。
「美味ちゃんは、食べたのかい?」
「味見がてら、済ませました」
「じゃあ、切りのいい所でいただく事にするよ。もうちょっとなんだ……」
「では、また来ますね」
美味が部屋を出ようとすると、スドウが言った。
「多分、今日中にメルヤ・アホの行動範囲が絞り込めると思う」
「出来そうなんですか、そんな事が?」
「この端末から設定されている持ち主の位置情報が割り出せるんだ」
「へええ。この世界にいるんですか?」
「今はいるみたいだな。探し物をしているんだろう」
「それって、スドウさんと私、ですか?」
「もうちょっと、調べると、はっきりした話が出来ると思うよ」
「片づけ物したりしてから、また来ます。その……どうぞ冷めないうちに召し上がって下さい」
「うん。わかった。じゃあ御言葉に甘えて、いただきます」
スドウはいつもちゃんと手を合わせて「いただきます」と言う。一人暮らしをするようになってからの習慣らしい。
下に降りて入口に臨時休業を知らせる張り紙をし終わった所に、使いを終えた貸馬車屋の御者が、タニアさんからの預かり物を持ってきた。
「風邪や疲れに効くので、使って欲しいとのことです」
手提げ籠一杯のルッコラと芽キャベツとキノコだ。早速使わせてもらう事にする。ルッコラはゴマを思わせる独特の風味が有り、スドウも美味も大好物だ。
「チーズを刻んでルッコラと合わせて、胡桃を刻んでドレッシングと一緒にかけようかな」
学校でも芽キャベツはビタミンCとB1がたっぷりとか、ガン予防効果が凄いとか習った記憶がある。朝も使ったベーコンがまだ、かなりたくさん残っている。ネギ類やハーブも合わせてゆっくり煮れば、昼には美味しく食べられそうだ。
掃除も近頃は手際が良くなったし、煮洗いが主体のヨーロッパ風に近い洗濯の仕方にも慣れた。この体自体が家事用ロボットの物であるせいか、自分でもほれぼれするほどの仕上がりだ。
いつもなら、ピカピカの床と磨きぬいた調理台、真っ白に洗いあがった布巾やシーツや下着類を見るとささやかな達成感と幸せを感じていたのだが、あの、メルヤ・アホというこの体の元の持ち主の存在を知って、複雑な気分になった。
「私の今のこの体は……あの、アホ隊員とか言われていた女の子の持ち物だったのよね。高機能な掃除機ロボットとキッチン家電が合体した感じ? なんか、ムカつくな」
美味自身の自由な意志や想いだと思っていたものが「家事ロボットの基本性能」にすぎないと決めつけられたような、と言うか矮小化されたと言うか、ひどく損なわれたような気がしたのだ。
「私は、ロボットじゃないもん」
そう一人呟いてみるが、球体関節だらけの手を見ると、情けない気分になる。それでも昼食用の芽キャベツの煮込みを暖炉の大なべに仕掛けて、ルッコラのサラダを大振りの鉢に盛り、食料庫から大きなチーズの塊とライ麦入りのパンを持ってくると、気分が持ち直した。
「そうそう、朝ご飯の食器を回収してこないとね」
そういう理由付けをしないと、やっぱりスドウの部屋には入って行きにくいのだ。
美味が再び部屋に入ると、スドウは丸い端末を握り締めて、難しい顔をしていた。それでも「ごちそうさま、おいしかったよ」という言葉は忘れない。
「僕は……連中の調査観察対象かも知れないが、元の地球に戻すべき存在とは認識されていないようだ。美味ちゃんの中身は、大学病院で寝たままの状態の体と合わせなくちゃいけないだろうし、その今の体はメルヤ・アホって子のうっかりミスによる忘れ物らしいから、いずれにしても探している対象って事になるんだろう」
「こっちは、そのアホって子が現れるのを待つしかないんですよね。結構近くにいるんでしょうか」
「実はこの端末に簡単な通信機能がついているのにさっき気が付いてさ、つい今しがた、アホって子に会う約束をどうにか取り付けたよ」
何やら、ゲッソリしているように見える。
「ずいぶん……大変だったみたいですね」
「何せ不慣れなメカを、こわごわ弄ってやってみたんでさ、うまくいく保証なんて無かったわけで……それでもどうにかなったようだけどな……なんか消耗した。自分の持つ機能とか能力とか、きちんと認識してこなかったから、こんな事も出来るのかって、驚いた部分もあるかもな」
スドウが言うには「僕の指にはかなり高機能の万能センサーみたいな機能がある」らしいが、普段使っていない機能を使うと、かなり疲労したのかもしれない。
「アホって人の反応はどんな感じでした?」
「野蛮な古代人が、通信機能を使いこなしていたんでビックリしていた。そして自分の大事なロボットの所在が知れたのはうれしかったみたいだが、美味ちゃんの意識と結びついてしまった事に驚いていたな」
「いつ会うのですか?」
「どうやら遺失物が見つかった的な届け出とか、『巻き込んでしまった豊原美味さんの御希望を最大限尊重した対応をするためには具体的にどうすべきか』って話をまとめるために、こっちの日数で十日かそこらかかるらしいよ。で、美味ちゃんの希望を具体的にまとめる必要があるわけだが、どうしたい?」
「現状維持……という選択肢は、ありえないんでしょうか?」
「冗談きついな」
「冗談を言ったつもりはありません」
「少なくとも、メルヤ・アホって子の所属している組織としてはありえない選択肢なんだろうと思う」
「私の今の体を……研究用だか事故検証用だかに、回収したいんですよね、きっと」
「だろうな」
「じゃあ、私の希望がかなうなんて事にはならないじゃないですか」
「だが、今の体は決して希望通りの物じゃないだろう?」
「それはそうですけど……でも」
続けて話そうとする美味の言葉に、押しかぶせるようにして、スドウは話を続けた。
「少なくとも、美味ちゃんの御両親は、原因不明の眠りから目覚めない娘を待っている。特にお母さんは心身ともにかなりの疲労が蓄積しているようだ。その点をどう考える? 未来の連中としては、ロボットに入り込んでしまった美味ちゃんの意識は、元の肉体に戻るべきだと考えているようだ」
「それならば最初から向うの組織としての方針ですべてが決まるだけで、私の希望がどうのこうのなんて……」
「多少のオプションはあるらしい。この世界での記憶を完全になくすか、差支えない範囲で保持するか」
「差支えない範囲って、どういう事なのでしょう?」
「さあ。わからないが……平成の日本の社会を大きく混乱させない範囲で、って事じゃないかな」
スドウに言わせると、地球と自由に行き来できない異世界の記憶を持ち続ける事は、精神的な平和を保つ上でリスクが大きすぎるので完全消去が「推奨」らしい。
「スドウさん自身については、謝罪も償いもしないって事なんですか?」
「あの子にたとえ土下座されたって……何にもなりはしないよ。僕の意識を戻す事のできる体は消滅したんだし、償いようもないさ」
「例えば……例えばですよ……身内や家族がいなくて、脳死か昏睡かよくわからない状態の男性とか、いないんでしょうか?……たとえばですけれど……そういう人の体になら、スドウさんの意識を送り込めるんじゃないでしょうか?」
「他人の体を乗っ取るのかい? 僕が?」
「あのう、やっぱり……嫌ですよね。そんなの」
スドウはじっと、黙ってしまった。美味はスドウの沈黙が苦手だ。
「あ、あの、お昼出来たら、お呼びします」
美味は台所に駆け戻った。そして、何も考えず昼食のテーブルを整えた。
「ワイン良し、チーズ良し、パンはスライスして盛ったし、サラダは大丈夫……」
呟きながら確認していると、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
「困ったなあ……どうやったら、止まるんだろう」
台所の流し台に顔を差し出して、かつてないほど激しい涙の流れ方に、美味は困惑していた。すると、後ろからいきなりスドウが美味を抱きしめた。
「こんな、みっともない顔、見られたくないです」
「見てないよ」
「なんで……台所に」
「朝食分の食器を洗わなきゃ……って思ってさ」
確かに美味は食器を回収し損ねていた。
「美味ちゃんも、寂しいんだと思っていいのかな」
「そう、そうです。二度とスドウさんに会えないなんて、嫌」
「そうか。嫌か。僕も、嫌だ」
「本当に?」
「本当だよ」
すると激しかった美味の涙の流れは、ぴたりと止まったのだった。




