ドミニクちゃん・2
美味とタニアさんは時に押し寄せる客をさばくのに四苦八苦しながらも、連日営業を続けた。
冬になってきて鮮度の良い野菜や果物類の品ぞろえが少なってきたので、保存性の高い食品で何か売れ筋メニューをと考えて作り出した蜂蜜ケーキの評判が非常に良い。
バターを全く使わず、しっかり泡立てた卵白と卵黄、そしてたっぷりの蜂蜜を使うのだが、タニアさんに言わせれば「ケーキなのにバターを使わないなんてびっくり」であるらしい。女子修道院の作る極上バターが十分に確保できなかった日のお助けメニュー的な存在でもある。
スドウは重曹を持ってきてくれた。
重曹があれば菓子の生地をフンワリさせる方法が増えるわけで、それはつまりお菓子のバリエーションも劇的に増える事につながる。
イーストを使ったケーキやワッフル、ドーナツもモッチリした歯ごたえで、それなりに美味しいが、軽いふわふわ感はどうしても出せない。それに、冷蔵庫も無い空調も無い世界で、イーストを失敗なく毎回発酵させるのはかなり大変だし、何よりイーストの仕込みには時間がかかる。
美味はこの世界では珍しい軽い味わいを求めて、卵白を泡立てて生地をフンワリさせる場合が多いのだが、どうしても高価な卵がたくさん必要になる。
だが、簡単に生地をふくらます事が出来る重曹にも、大きな欠点がある。焼き上げる時にどうしてもアルカリ性の苦みが残ってしまうので、よほど味が濃いもの以外は使いにくいのだ。繊細なふわふわ感を出すためには、重曹から更に進歩したベーキングパウダーが欲しい所だが、まだ、具合のいい酸性の中和剤の処方が見つからないそうだ。
「ミョウバンを配合してみたんだが、実際やってみるとなかなか大変でさ、昨日は大学の研究室で、ちょっとした爆発事故が起きちまったよ」
その開発の助手に、ドミニクちゃんを「本人の希望で」採用していたそうだが、宰相の娘で国王が養女にしようという話もあるのだ。怪我をされたらまずいので、「菓子の製造の研修に回ってもらう事にした」のだそうだ。
「なあ、どら焼きを作って、売りださないか? ああ、場合によっちゃ人形焼きとかの方がうけるかなあ……」
「確かに、重曹はどら焼きに向いた膨張材ですけどね」
「だよな。ベーキングパウダーみたいに高さは出にくいが、横には膨らむし、どら焼きみたいなしっかりした焼き色が欲しいものには向くよな」
「どら焼きなら、こつを掴めば割とすぐにちゃんと焼けるようになると思います」
「あんこだけど、小豆は無いから……白いんげんとか? 栗はあまり出回ってないしな」
「レンズ豆も餡にできますよ。チョッとあっさりしちゃいますが、蜂蜜使ったらどうでしょうか?」
最初、ちょっとドミニクという子を自分たちの「仲間」に加えることに対して戸惑いと反発を感じた美味だったが、具体的にどら焼きを作る話を始めるとモヤモヤした気分はどこかに行ってしまうのだった。他ならぬスドウが「僕の孫の一人に見た目は生き写しで、中身はかなりおもしろい子」というのだ。そんなに嫌な女の子でも無かろうと思ったのだ。
結局、あの邸が立ち並ぶ街にある、スドウが先代だかその前だかの国王の愛人から貰ったという石造りの二階建ての小ぶりな邸を「菓子専用の店」としてオープンする事にしたのだ。何しろ、貴族階級の女の子が沢山出入りする学校の傍だし、付近には他にも芸事の教室やら有力貴族の奥方が主催するサロンやら、色々と集まっているらしい。
「単価が多少高くても、菓子類に対する需要は大きい場所だよな」
それは確かにその通りなのだろう。ただ美味は、貴族階級の女性たちが普段馴染んでいるデザートや菓子が、どのようなものか知らないので不安はある。
「だから、ドミニクちゃんが仲間になった方が、何かとやりやすいだろう?」
スドウに言われると、そうなのかもしれないとは思うが何しろ本人に会わないと何とも言えない。それが美味の正直な気持ちだ。それに、タニアさんがどう思うだろうか? その点も美味は心配だった。
「厳しくしつけて、美味ちゃんやタニアさんともトラブルを起こさないようにしてから、連れて来よう。基本気立ては良い子なんだが、気配りとかがどうしたって足らないんだよな。賢いし察しは良いんだから、多少教育すればどうにかなると思うよ」
ドミニクという子の話をする時のスドウは、いつも思い出し笑いと言うか微苦笑というか、そんな表情をする。悪気は無いが一番人が傷つく事をズバッと遠慮会釈なく口にしてしまう、そんなタイプなのではないかと美味は想像した。タニアさんは不当な扱いにも、無礼な言葉にも慣れているようだ。というか、スドウに出会う以前は、アントニエッタ先生と周囲の人間以外は「皆不愉快で失礼」だったらしい。「世間の連中なんて、そんなもの」と達観して、無礼な相手を冷静に観察できるタニアさんより、感情的に反応しがちな自分とトラブルになる事をスドウは懸念しているのかもしれない。美味はそんな気もしていた。
「気立てが良い人なら、きっと私もやっていけると思います」
お菓子に特化した第二の店を立ち上げる話が具体化するにつれ、美味とスドウの菓子の試作品は増え、試食係のタニアさんの体型は「ぽっちゃり」から「でっぷり」に変化した。
正直な話、そのドミニクという子に興味は無い。スドウが言うには、ずっと以前に亡くなってしまった孫の一人に「瓜二つ」あるいは「生き写し」らしいが、性格は「おとなしくて物静かだった」孫娘とは「全く違う」のだそうだ。そんな話を楽しそうにするスドウの顔を見ていると何か「もやっ」と言うか「イラッ」というか、今まで感じた事のない感情が戸惑うほどの激しさで湧いてくる。
だが、美味は無理にでも微笑みを浮かべて話を聞く。こんな時、今の不自然極まりない表情筋の状態は、逆にありがたい。
何はともあれ、美味はスドウに「面倒で付き合いきれない奴」と思われたくはなかったのだ。それに、スドウと新しいメニューについて話し合ったり試作したりするのは、いつだって楽しい。
やがて季節が厳しい冬から、暖かな春に移り変わっても、美味の日常に大きな変化は無かった。相変わらず銀貨一枚亭は大繁盛で、出資者でもあるタニアさんは、以前より上等の服を着るようになり、小粒ではあるがダイヤをあしらった首飾りをしたりするようになった。
「タニアさん、男が出来たようだよ」
ある朝、スドウがボソッとそんな事を言った。美味はまるで気が付かなかったのだが、市場に店を出している穀物商で、妻を病で亡くした男が相手だというのだ。
「そんな話、全くしてくれませんでした」
女同士、気持ちを許した仲ならば、いわゆる「恋バナ」の一つもするものだろうに、自分が全くその対象にならなかったのが、美味にはショックだった。
「最初はまあ、不倫だったらしいから、美味ちゃんには打ち明けにくかったんだよ。成人した息子や娘のいる相手だし、いろいろ面倒ではあるんだ。アントニエッタ先生にも、まだ内緒のようだからね」
「じゃあ……私、知らないふりしていた方がいいんでしょうか?」
「打ち明けてくれるまで、待つべきだろうね。僕も知らないふりをするよ」
「なら、なんで私に、その話をするんですか?」
「あらかじめ心づもりできた方が、美味ちゃんのショックが小さいだろうと思ったからさ。それに、男の状況からすると、タニアさんが捨てられる可能性も高いし」
「そんなひどい人なんですか?」
「別にひどくもない。男の考える事なんて、そんなものだっていう程度には身勝手だが、まあ、まともな方だと思う」
「じゃあ、家族というか息子さんや娘さんの反対で?」
「というより、知られたら息子や娘の結婚相手の家の連中から、色々妨害があるかもしれない」
スドウが言うには、美味としては今の段階で何もできる事はないというのだ。
「まあ、温かい目で見守ってあげるぐらいしかできないさ」
「無理かも」
「無理か」
「なんか、ちょっと気持ち悪いかな……タニアさんには悪いけど」
「悪いとは思うのかい?」
「え?」
「だから、気持ち悪いと思うのが、悪い事だと思っている? タニアさんにしてみれば、初恋なんだよ」
美味は何と答えたらいいのかわからなかった。タニアさんの初恋を「ちょっと気持ち悪い」の一言で片づけるのは、共に働く仲間としてどうなのか? いや、人間としてどうなのか?
「なんか、私って……自分で思っていたより、嫌な奴だったみたいです」
「そうか」
「そうです」
「じゃあ……ちょっと落ち着いて、考えてみろよ。美味ちゃんだって、タニアさんに打ち明けきれてない事はあるだろう? 自分の体の事とか、元いた世界の事とか」
「そうですね」
「でも、タニアさんは、大切な仲間だよね?」
「確かに」
「それでいいんだよ。相手のすべてを知らなくったって、良いんだ。それでも相手を受け入れて、信頼する事はできるだろう?」
「ええ」
「タニアさんは、美味ちゃんを信用してくれたよね」
「はい。そうだと思います」
「じゃあ、美味ちゃんも、タニアさんを信じるだけだ」
「はい」
「なら、大丈夫だな」
そんなやり取りをした翌日、スドウは一人の少女を連れて帰宅した。
これまで度々話題になったドミニクちゃん本人だった。
孫に似ているとしかスドウには聞かされていなかったが、正統派の美少女と言っていいだろう。きめ細やかな白い肌にバラ色の頬、結い上げた赤褐色の艶やかな髪に青い瞳、ほっそりした白い手の指にはダイヤの指輪、ベージュ色のドレスには金糸で細やかな刺繍が入り、耳には大粒真珠と桃色サンゴのイヤリング、ほっそりした首には黄金と真珠のネックレスときた。どこから見てもお姫様だ。
「ドミニク・アンリエット・ジルベルト・エロイーズ・オルタンス・ジャンヌ・マルゴ・ミシェル・ド・ムラン・ヌムールと申します」
優雅にドレスの裾を引いて、礼をする。その自然な動きに、美味は気おされた。
「あ、あのう、美味です。ええっと、ヨシミ・トヨハラです」
「ドミニクちゃん、美味ちゃんが戸惑ってる。普段はドミニクちゃんだけでいいよね?」
「無論です。教授、トヨハラというのは御家名ですか?」
「そう。スドウというのが僕の本来の家名であるように、そういうのが向こうじゃ、普通なんだ」
「あの『カンジ』というのでしたか、美しい神秘的な文字で書き表せるお名前なのでしょうね」
「まあね。こんな具合だな」
スドウは手元に置いた小型の石版に、漢字で「豊原美味」と縦に書いた。実に達筆だ。
「教授ご自身の本当のお名前は、どうなるのですか?」
「僕? 僕の名前はこうだ」
須藤麗門という四つの文字が、豊原美味の隣に並べて書かれた。
「あの、これって、スドウさんの日本での本名ですよね。『れいもん』さんだったんですか?」
美味は思わず日本語で、声を潜めてスドウに質問した。
「うん。名前のほうは、奴隷だったころはよく使ってたが、帝国が滅んでからは、もっぱら苗字しか使わないな」
「何か、理由があるんですか?」
「うん、まあ、有るといえば、あるかな」
「王様が口にしたカリストスという苗字は?」
「帝国時代につけられた苗字で、今はあまり使わない」
日本語の会話は、美少女にはまるで理解できないのだろう。あっけに取られたような顔をして二人を見ている。
「本物のお姫様じゃないですか。こんな人が台所仕事、できるんですか?」
「本人はやる気まんまんだし、できると思うよ。この装飾過剰な服は、着替えさせるさ。本人的には、君に敬意を払って正式のご挨拶というつもりらしい」
「下々の女を圧倒しておこう、とかじゃないんですか?」
「それはない。彼女にとって、日本語を自由自在に操る君は、別世界から来た貴人なんだよ」
「つぶれかけた饅頭屋の孫ですけどね」
「その饅頭を、この世界に広めようじゃないか」
「あんこは小豆じゃないですけど」
「そのうち、その問題もどうにか出来るさ。というのは……」
その時、とんがった美少女の声が上がった。
「教授、出来ましたら私にも理解できる言語で、お話願えませんか?」
スドウは美少女のほうを振り向かない。美味は気が気ではなかった。
「ご機嫌ななめですよ」
「美味ちゃんとの相談もあるから黙って待っていろと、最初に言い聞かせて連れてきたんだ。どの程度まで我慢が続くか、見てやっても良いかなと思うよ。昨日も一生懸命どら焼きの皮を焼いていたから、本人なりに真剣なんだろうとは思うがな」
「使い物になる皮でしたか?」
「大丈夫だと思う。美味ちゃんの事を『お菓子の聖人様』だと思っているようだから、うまく手なづけて、こき使ってくれ」
「そんなにうまく行くかなあ」
「見た目はお姫様系だけど、中身は結構ガテン系だよ。美味い菓子のためなら肉体労働も厭わないし、手仕事も好きみたいだ。まあ、せいぜい鍛えてやってよ」
スドウはそう言うが、美少女は自分が仲間はずれにされたと怒っているのは明らかだ。薄桃色のほっぺが膨らみ、きらきら光る眼が大きく見開かれ、手が震えている。
「おやまあ、怒ってる」
スドウは美少女に背を向けた姿勢で、美味に向ってニヤリとして見せた。




