ドミニクちゃん・1
美味は相変わらずスドウへの言葉遣いを変えていない。変えない理由を、美味は「言葉の歯止めが無くなると、あまりに甘えきってしまって、わがままになるから」と説明したのだったが、その説明にスドウが納得したかどうかは疑問だった。
ともかくも、美味が泣いて喚いたのはあの日一日限りで、その後は平静な気持ちで店の仕事に励んでいる。七日ごとの市場の休みの際は店も休業だが、帳簿の整理や、普段手の回らない食料庫の片づけ、丁寧な水回りの手入れ、そんなことをやっていると丸一日ぐらい、簡単に過ぎてしまうのだった。
それでも、休日の夜はいつもより集中して読み書きの勉強をしたし、スドウとの食事も普段よりはゆったりしている。
仮営業のつもりで始めた店ではあったが、既に街中の人々の噂に上る程度には、店の名前も知られるようになった。季節が移り変わり、秋から冬になるころには、遠方からわざわざやってくる裕福な客の数も増えた。すると、代わりにこれまでの常連が弾きだされてしまうという状況になりつつある。
面倒なのは、馬車を仕立てて連れ立ってくる貴族階級の女性たちだ。こうした女性たちの場合、ガレットも食べるが、一番の目当てはデザート類のようだった。どうやら幾つかのデザートが貴族階級の女性たちの間で、うわさになったらしいのだ。
貴族だろうと平民だろうと、おとなしく食べてくれればそれでいいのだが、やはり貴族と言うのは得てしてわがままだ。立て込む昼食時に乗り込んできて、やれ席が狭いだのうるさくて落ち着かないだの別の席を用意しろだの、うるさいことこの上ない。
一度、美味はキレて、声を荒げた事がある。
「何分二人だけでやっている店ですので、色々と手が回りません! ウチでは相席でもご容赦いただける方しかお受けできませんのでっ、どうぞ他の店においで下さいっ!」
美味の言葉が終わった瞬間、拍手とどよめきが起こった。常連の男たちは、自分たちの気に入りの店が『めかしこんだ女狐ども』に荒らされるのは、我慢がならなかったらしい。ルテティアでは外食を楽しむという事自体、堅気の女性にふさわしくない行為とされてきた事情もあるのだろう。
更にタニアさんに言わせると、大貴族の奥方や姫君なら貸馬車に相乗りという事など「絶対に有り得ない」そうだ。どうやら一応貴族の家柄の出ではあるけれど、大貴族や王族の愛人だったり奥方に侍女として仕えたりする連中が中心らしい。
スドウはそんな話はしないが、店に来ている常連たちがしている噂話などから推測すると、奥方の侍女から愛人に『出世』した羽振りの良い女性が仲間を引き連れてくるようだ。
「うるさいお客さんをさばくだけでも大変じゃない? ねえ、アントニエッタ先生にお願いして、真面目な子を雇いましょうよ」
タニアさんがそんなことを言うようになった。
「誰か人を入れると緊張して具合悪いなら、小規模でも堅実な商いで乗り切るさ」
スドウは美味が体の事で嫌な目にあうのではないかと心配しているらしい。
というのも『着飾った女狐』の幾人かが、美味の手が『奇妙な形』だとか『薄気味悪い』とか言ったのだ。
調理をする際は邪魔で、手袋をしていなかったから、そのように言われてしまったようだ。美味だけでなく、タニアさんの足の長さが左右で違う事も、耳の形についても『見苦しい』とか勝手な事を言い散らかしたのではあったが、そもそもこの国の人間は一般的に、その手の配慮に欠けている。不愉快な女性たちは言い方が余りに直接的ではあったが、悪気無くその手の話をする人間は多い。
もし誰か新しく人を雇ったとして、その人間が美味にとって不愉快な存在になるようでは、かえって店を続ける上でも支障になる……そんな風にスドウは思っているらしい。
「私は、本当の事を言われたって、いちいち気にはしないけどね」
タニアさんは慣れているという。だが、不快なのは自分と一緒だろうと美味は思うのだ。
「美味ちゃんの言いたい事もわかるけど、このままじゃあ商売を続けていけないかも知れないって心配なのよね。ああいう人たちが、悪い評判をばらまいたりするかもしれ無いし……」
タニアさんは、美味が着飾った女性たちに声を荒げた事も気になるらしい。
「美味ちゃんが正しいのはわかる。でも、あの人たちなりに多分無理して見栄を張って、評判の美味しいものを食べてやろうと意気込んでいたと思うの。目当てはお菓子だったみたいだから、お菓子だけでも別に出す店があると、かえってお客さんのすみわけが出来て楽になるかもね。とは思うけど、それだと人手も材料も、それに別の店も必要になるから……難しいわよね」
美味がタニアさんの『お菓子だけでも別に出す店』を作るという考えについて話すと、スドウは目を輝かせた。
「それだ! そうしよう。お菓子だけの店を屋敷町の方に出そう。ドミニクちゃんがうるさいし」
「ドミニクちゃんって、宰相さんの所の?」
「そうそう。大学の方に毎日のように押しかけて、僕にいろんな疑問をぶつけるんだ。知識欲の塊みたいな子で、この世界で手に入る限りのいろんな本を読んでる」
スドウが言うには、国王の再婚話が立ち消えになったスッタモンダのあおりを食らったらしく、ドミニクちゃんと三人の公爵の誰かとの結婚話も宙に浮いた格好になったらしい。
「三人の公爵たちは、王妃の殺害には関係ないという事は、ほぼはっきりしているんだが、ユーグもニコラもマリサ・フリニをどう扱うか決まってからじゃないと、結婚なんて無理と思ってるんだな」
ユーグは国王、ニコラは宰相なわけで、二人を名前で呼び捨てる人間なんてそんなにいるとも思えないが、スドウにとってはどちらも子孫か弟子か、そんな存在らしいから、自然な事なのだろう。
「マリサ・フリニ夫人は病でどこかの修道院に引きこもったって噂になってますが、本当は違うんですよね」
「はっきり言って監禁だな。本人は罪を認めてはいないらしい」
「本当に王妃様を殺したんですか?」
「早く死ねばいいと思いながら、遅効性の毒物を王妃の化粧品や飲み水に仕込ませていたのは本当だよ。僕なら証人もそろえられるけど、まあ、愉快な話じゃないし、冤罪で誰かが捕まるわけじゃ無ければ、ユーグたちに任せればいいかと思ってさ」
「やっぱり、王妃様が憎かったのでしょうか?」
「僕は一度だけマリサ・フリニの意識を読んだ事があるんだが……ユーグは自分の男だと強く思っていた。ユーグが『形だけの王妃だ』と言っていた相手に子が出来たのが許せなかったのかな。僕は瞬間ごとの人の意識を読む事は出来るんだが、それだけだ。犯罪の動機の分析やら解明やらは、あくまで推測になってしまうんだよ」
美味にはそのあたりの事情は実感としてはわかりにくい。
「まあ、色々と微妙な立場になっちゃったんだろうけど、ドミニクちゃんは気にしてないみたいだな」
「まだ、子供だからじゃないですか?」
「十三歳は平成の日本なら子供だけど、この国の貴族なら大人同然と見なされる」
スドウの視線は、美味の方が子供だと言っているようにも見える。
「三人の公爵との結婚話が流れた格好になって、新たな結婚話が持ち上がったようなんだ。どちらも外国の王族だ」
一人は家督を継いだばかりのレムリア大公で二十歳、もう一人はアルビオン王国の王太子で十九歳らしい。レムリア大公家の領地は狭いが、かつての帝国の都であるレムリアを中心にした地域で、格の高い名門と見なされているらしい。一方でアルビオン王家は地球で言うとイギリスのグレートブリテン島にあたる大アルビオン島と、いくつもの島々を治めているらしい。海運業と貿易が盛んだそうだ。
「アルビオン王国とこのネウストリア王国は、ほぼ国力が同じ程度とされていて、共に大国と見なされている」のだそうで、「その未来の王妃となると、なかなかに大変な立場」という事になるらしい。
「でもドミニクって人は、宰相の娘ですから、王妃様になるのは無理があるんじゃないですか?」
少なくとも美味の知識ではそうなる。
「無論ユーグが養女にして王女としての体裁を整えるだろうが、むしろアルビオン側から申し入れてきた話らしいから、体裁も最低限整えば十分みたいだ」
「アルビオン王国がドミニクと言う人を指名して来たって事ですか?」
「そうらしい。ドミニクちゃんの実のお母さんは大層な美人で、もともとは今のアルビオン国王と婚約していたんだ。子供時分から行き来が有って、当人同士は結婚するつもりになっていたんだが、当時の王太子だった兄が亡くなって、程なく父である先代も亡くなって、気軽な二男の立場から一気に即位が決まってしまい、当人同士の意志は無視されて婚約が破棄されてしまったんだ」
アルビオン国王本人は国王としては珍しい事に、このルテティアの大学に留学した経験もあり、ユーグ陛下とも学友の関係だそうだ。
「かつての冷たい両国関係からすると、見違えるように友好的な今の雰囲気を長く続けたいという意識が、双方の国王に強くあるみたいだな」
「それなら……ドミニクという人はアルビオンにお嫁入りじゃないですか?」
「僕もそう思うんだ。でね、そのドミニクちゃんは食い意地の張った知りたがり屋さんで、美味ちゃんの作ったお菓子の評判を知って、ぜひ自分も作れるようになりたいと思っているようなんだ」
「国王陛下の養女さんになるんでしたら、自分で台所仕事をやる自由なんて、有るんですか?」
「普通なら無理だが、嫁ぎ先がアルビオン王家となると事情が特殊なんだ」
「そうなんですか?」
「だって、今のアルビオン国王は食道楽で、自分で料理もするって人なんだ。息子の嫁が美味しい菓子を作れるようになるのは大歓迎だろうというのが、ユーグとニコラの見方で、僕もその通りだと思う。でね、美味ちゃん、物は相談なんだが……」
美味にすれば、思ってもみなかった展開になりそうだ。




