銀貨一枚亭開店・2
「お、今日はデカいソーセージとクレソンが乗ってるな」
「クレソンはわかるんだが、何だろうなこのソース」
「わからんが美味い」
「わからんが、卵を使っていると思う」
「酢も入ってないか?」
「そうかもしらん。何か、こう、癖になる味だな」
「うむ。実にうまい。ソーセージの塩気といい感じに馴染むしな」
客たちはマヨネーズが気になるらしい。仕入れの時間までに丸ごと一個の卵をガレットに乗せられるほど数が揃わなかったので、有る限りの卵を卵黄と卵白に分け、卵黄でマヨネーズを、卵白でメレンゲの焼き菓子を作ったのだ。
スドウによれば、かつて滅んだ帝国の大都市の上流家庭ではマヨネーズはかなり広く受け入れられていたらしい。だが、このルテティアは、帝国のころは「辺境」の「小さな植民都市」に過ぎなかったそうだ。「このあたりの庶民の家では料理らしい料理も存在しない状態」だったというスドウの言葉通りなのだろう。
かつて帝国の都であったレムリアは、今でも住民は食べ物の味にうるさいらしいが、それでもかつてスドウが作り方を人々に教えたマヨネーズは忘れられてしまっているそうだ。と言うのも、冷蔵の手段が無い社会では、安全な生の卵というのは贅沢な食品だかららしい。
帝国の時代は、多少裕福な家庭なら、奴隷を使って邸の敷地内に新鮮な野菜を手に入れるための畑や卵を得るための鶏小屋、時には魚のいけすなども管理していたそうだ。だが、奴隷制が崩壊するとそうした設備の維持は、ほんの一握りの王侯貴族しか出来なくなったのだ。
スドウが様々な段取りをしてくれて、朝産みたての卵が店にまで届けられるようになっているが、普通の店はそんなことは出来ない。大抵は市場に出かけて行っても望むだけの卵は手に入らない。大規模な養鶏は一般的ではない。市場にも近郊の農家が持ちこんだ物が出回るだけなのだ。ルテティア近郊、いやこのネウストリア王国全体で見ても、最も大規模に鶏を飼育しているのが、あの女子修道院であるらしい。
これまで、女子修道院は産みたての卵を固ゆでして更に燻製したものを、特定の業者におろしていたらしい。燻製にすると五十日程度は十分に常温で日持ちするとされる。スドウは従来の燻製卵と大差ない価格で新鮮な生卵を買い取るという条件で、女子修道院側を納得させたようだ。さらには輸送に関してもスドウの手配した業者が行う事にしたので、女子修道院は運送の手配も必要無い結構な取引なのだ。
「スープは昨日とは色が違うが、これもうまい」
「豆の種類が違うな」
「昨日はビーツの色で、赤紫だったが、今日は黄緑だな」
「インゲンか?」
「ああ、そうだたぶん。それにしてもうまいな。インゲン臭くない」
「ハーブづかいが上手いんだろうか」
「何かほかにも秘密がありそうだが」
野菜類をスープで煮込む前に、美味は刻んだタマネギをバターで炒めているのだが、そうした手法もこの国では知られていないようだ。更にはタニアさんですら出汁と言うかスープストックを作るという手法を知らなかったぐらいだから、客も知らないとみるべきだろう。
「今日は焼き菓子がつくのだな。ふむ。レムリアで、一度これに似た感じの焼き菓子を食べた事があるが、こっちの方が軽い感じで、うまい」
「ほう、そうか。レムリア風の菓子か」
「レムリアでは卵を使うと聞いたな」
「卵をどうすると、このような菓子になるのかな」
「さあ、わからん。レムリアで食べた菓子は、こんなにキレイな白ではなかった」
「上にちょっとだけ、蜜漬けのクルミの砕いたのが乗っているのもいいな」
「そういえばレムリアでは、上に何も乗ってなかった。クルミが乗った方が美味いな」
「この菓子なら、大皿に山盛りにされても全部平らげる事が出来るぐらい気に入った」
昨日も来た市場の店主四人組は、熱心に美味の料理をあれこれ分析している。他の客も色々と意見を述べていたが、この四人ほど熱は籠もっていない。とりあえず初日の味のレベルが維持できていれば良いのではないか、という反応が普通で、調理法や味付けを分析しようという者は他には居なかった。
タニアさんによれば、四人とも市場の顔役的存在であるらしい。開店当日の午前中に顔を見せたヴァラキという老人がワインの樽を詫びに置いて行ったことが、店の評価と関係があるのではないか、そんなことをタニアさんは言う。
「四人のお客さんは、言わば食通でうるさがたっていうことになるんでしょうか?」
美味は帰宅したスドウに四人の話をした。
「あの四人か。ニコラ・ヌムールの所に出入りしている連中だな」
「スドウさんは、宰相のニコラって人が嫌いなんですか?」
「どちらかといえば、嫌いかな。仕方のない部分もあるんだろうけど、反対派を追い落とす方法はえげつないし、しかも直接手を汚さないんだから、好きにはなれない。あれでも幼いころは、可愛い子だったんだけどな。今じゃすっかり、憎たらしいジジイだ」
「え? ニコラって人はもう五十かそこらの、若くない人の様ですけど……幼いころを知っているんですか?」
「うん。ニコラのおやじさんとは、一時期は仲が良かったんでね。家庭教師役を引き受けてやった事も有るし、病気を治してやった事も有る。当時はウェーブのかかった黒い髪で、目は黒に近い茶色にしていたから、普通なら今の僕と同一人物と疑われる可能性は低いはずだが……ニコラは王家に伝わっている『不死の男』の話も承知しているだろうし、勘も鋭いから、顔を合わせない方が無難だ。仲が良くても悪くても、年を取って死ぬことが無い僕は、いつかは身を隠さなくちゃいけなかったけどな」
人間の平均寿命から見て奇異に思われないで済む範囲のうちに、住む場所を変える。そんなことを、長い間スドウは繰り返してきたのだ。ただ、少数の例外はあって、スドウとの間に子をもうけ共に暮らした女性とその子供たちは、スドウの秘密の一端を知っていたのだ。
「といっても、アンドロイドだの人工生命体だの、まるで理解してもらえない事も有ったけどな」
スドウの血筋を受け継いだ各地の王侯貴族や旧家の中には、自分たちの先祖に『不死の男』がいると口伝とか家伝とかの形で伝えている家が幾つか有るそうだ。だが、ここ百年以上はスドウは一人で暮らしてきたのだという。
「その宰相さんのお父さんと、もしかして喧嘩でもしたんですか?」
「まあ、なんというか、ニコラの親父さんは女関係がだらしなくてね。自分の子供なのに面倒を見てやらなかったりした事も有って、そういうところが僕は嫌だったな。僕が捨てられた子供の世話をしたら、今度は子供を産んだ女性との関係を嫉妬されたり、色々重なって、嫌気がさしたんだ」
「面倒を見た子供たちって、宰相さんの妹とか弟ですよね」
「そうだな」
「全部で何人ぐらい、面倒を見てあげたんですか?」
「息子が二人に、娘が一人、全部で三人だな」
「そんなにですか」
「子供の母親たちは、皆、しっかりした女性だったから、僕の手がけている商売や事業の手伝いをしてもらったのさ。リネンを扱う店、寝具を扱う店、花を栽培する農園、そんなところだ。三組の親子は、ルテティアから遠く離れた場所で、落ち着いた暮らしをして人生をやり直したんだ。子供らは三人とも堅実な結婚をして、穏やかに暮らしているよ。みんな、もう孫がいる。結婚した事が無いのは、ニコラだけだ」
スドウによれば、ニコラが亡き弟の娘を養女にしたのは、養女の実の祖母でニコラの父の五番目の妻である人を、強く慕っていたかららしい。
「年も近かったし、儚げな美女だったから、継母として慕うっっていうのは無理だったのかもな」
だが、そのためか養女は甘やかされて育ったそうだ。
「噂じゃあ、わがまま娘だって言われてるけど、少々変人で面白い子らしい。だが、ニコラはその養女をどうしても優雅な淑女に育て上げなくちゃいけない事情が出来た」
「なぜですか?」
「今の国王の息子の一人と結婚させようと言う話が、決まりつつあるんだ」
つい最近、国王は二度目の結婚をしたいと言い出したのだそうだ。
「最初の妃は親の代に取り決めた政略結婚で決まったんだが、王太子を産む際に亡くなった。で、その喪が明けてから、ずっと付き合っていた愛人を妃に迎えたいというわけだ」
その愛人は王太子より二十歳も年上の王子を頭に、三人の男子を産んでいるらしい。
「その三人の王子は、全員既に公爵に列せられていて、それぞれ条件の良い領地を貰っている。庶子として生まれた王子は王位は継げない決まりだが、庶子だって嫡子扱いにする手立が無いわけでもない。何しろ王太子は母親に死なれた赤ん坊だ。何がどう転ぶかわからない」
「じゃあ、お家騒動が起こって、内乱になるんでしょうか?」
「国王もニコラも、そこまで馬鹿じゃないと思いたい」
養女の結婚相手は三人の庶出の王子の誰かだろうが、王も宰相もまだ決めかねているのだろう。そのドミニクという名前の十三歳の女の子は「未来の公爵夫人」にふさわしい教育を受けるために、あの邸宅が立ち並ぶ一角にある女子向けの学校に通っているそうだ。
「噂によれば、そのドミニクちゃんは可愛いい見かけによらず、大層食いしん坊らしい。それで宰相邸に出入りする商人も美味い物の情報集めに熱心なんだろう。そのうちここに来るかもな」
そんな話をした時点では、美味もスドウも事態を軽く考えていた。




