#2 Morality Slave
イイ女だった。
香水の匂いの中に、微かに紛れた機械油の香り。
あの女にとっての道徳とは、一晩の興奮に過ぎなかった。
( "仕事人" について、とある資産家の男の述懐)
時と場所、そして少々の手荷物。
アポイントメントなき訪問にも関わらず、『仕事人』は小綺麗な身なりに拘った。
実行の合図となったのは、今にも叫び出しそうな月夜の帳。都会の片隅の、閑静な住宅地に聳える大邸宅。田園調布の生温い風が、女の白い髪を撫でた。
「流石、良いトコに住んでるワネェ」
紙巻きのカナビスを口元で燻らせ、細められた人工の瞳が、紫煙の向こう側の正門を舐めるように一瞥する。感知出来る体温の類は、だだっ広い庭の中には見当たらない。ならば厄介の大元は、自身と同じく、血の通わない警備ボットに絞られる。民間が所持する警備システムなど、所詮高が知れているだろうが――警戒は緩めず、されど、張り詰め過ぎず。長年、闇の稼業に身を置いているが故の経験則。自己分析を終えるや否や、薬師丸まきなは既に、軽やかな身のこなしで宙を舞っていた。
「CHAO、お邪魔するワ」
小さな躯体が塀を跳び越え、整備された芝を、ブーツが音もなく踏み締める。先程まで楽しんでいたカナビスの香りは、今や隔てられた塀の外。道楽は月の裏側に身を潜め、代わり、地上に照らし出されたのは、一介の殺人者の影である。
ベルを鳴らすタイムカード。
その絵柄はジョーカー・クラウン。
50数枚の『法』に紛れた不純物が、不届き者の庭を、人の闇の最中を駆ける。
『仲介屋』エイメンの斡旋による、政界に於ける元重鎮の密殺依頼。前線から退いても尚、世に蔓延るその影響力は、各方面にとっての頭痛の種となり、街の暗部を大いに賑わせている。罪が罪を喰らおうと画策しているのか、はたまた罪に対する罰こそが、依頼主の望みなのかは定かではない。あくまでも女にとって、『その後』の話は興味の対象ではなかった。自身の仕事が世に及ぼすであろう多大な影響よりも、切り取られた小さな夜を求める浮浪の性質。奪取と自死の狭間にある興奮にこそ、薬師丸まきなは生業を見出だしていた。
広大な敷地内。ぽつり、またぽつりと、闇に点在する夜灯の人工的な光。定められたルートのままに、要人の庭を哨戒していた警備ボットの一体が侵入者の存在を察知したのは、旧式の機体に、自身と同じく血の通わない手が触れた瞬間であった。
「お仕事中、悪いワネ。職業柄、背後に立たれるのは苦手かしら?」
ドラム缶状の無骨な機体。背中側に設置された警告灯が鳴り響き、本丸である邸宅へと異常を伝え――それよりも速く、女の手は、本来存在しないであろう警備ボットの、『男』の部分を、緩やかに握り締める。
「突っ立って彷徨いてるだけじゃ、溜まって仕方ないでしょう。折角の夜が勿体ないワ。バレないようにシてあげるから、楽になさいな」
ヒトを模したアンドロイドとは違い、簡素な警備を旨として造られた彼の中に、『性』などという邪は存在しない。加えて侵入者の追跡、捕縛のみを目的とした、人間の肉体とは掛け離れた合理的な造形。燃料がなければ鉄屑同然の駆体に過ぎず、が、しかし――女は確かに握っていた。背後から、まるで人間へとそうするように、ドラム缶状の下腹部。外殻を挟んだ奥にある配線が、その小慣れた手付きを前に、確かに疼いていた。
初体験の不安。『凌辱』の予感――
「そう。絡まり合ってるのがコンプレックスなのネ」
哨戒業務すらも追いやられる程に、機械の身体は、いつしか夢中に成り果てていた。下着を下ろすかの如く前面の外殻を外し、ビニールの巻かれた配線を、指に絡める女の手。吐息を感じる程近く、存在しない筈の『性』の奇妙で溶けゆく理性。機械同士のコミュニケーションでさえ、粘ついた絡みへと変えてしまう仕事人のテクニック。今宵、彼女が初めに手を掛けたのは、警備ボットたる彼の『存在意義』であった。
「ネェ。仕事、続ける? それともこのまま此処で堕落したい? 素面のままだと残酷よ。失態を知られてお釈迦にされるか、精通の快楽で空に昇るか。尤も――一度知っちゃうと、後戻りは難しいと思うケドネ」
業務を遂行すべくして詰め込まれた、電子回路内の最低限。その全てが、強烈な性的思考という名の落雷により、次から次へと焼き切られてゆく。女が緩やかに手を滑らせれば、指を絡まされた配線が痙攣し、派手に火花を撒き散らす。非殺傷性レーザーを搭載したクリアパーツに口付けをされれば、まるで興奮を抑えきれぬかのように、ボディの隙間から溢れ出すマシンオイル。目を覆う程に歪んだ、しかし、悦びには違いない、狂った性欲処理の絵図。要人の庭に現れ、一方的に与えて嘲笑う悪魔は、彼の音声認識マイクへと続けて囁く。
「残念だケド。与えられてばかりじゃ、コミュニケーションとは言えないワ」
否。与えるだけの素振りではない。
機器的精通の圧倒的な快楽を餌に、仕事人もまた、彼を『求めて』いた。指で焦らし、瞳で焦らし、触れる仕草で炎を煽る。この、機械である自らに『初めて』を植え付け、嗤う女が求めるモノ。警備、哨戒以外に能のない自分に、一体何が残されているというのか。
「無粋ネェ。アナタが欲しいのよ、ボウヤ」
キャスケットから覗く薄紫の瞳が、官能を以て彼を更なる深淵へと誘う。理屈は要らない。特別は要らない。この女は、純粋に『自身』を求めているのだ。高鳴る機械の鼓動をバックに、挑まれた初は最早、気が気でない。腕代わりの粗末なアームで女を抱き寄せ、クリアパーツで唇を奪ってみせる。
「もっと、来て」
まるで、腹の中のオイルが茹だるようだった。史上最も愛おしく、ひたすらに、この女が欲しい。
「結んで、開いて――そう」
優しげな愛撫と、逸る身体が天秤の上。
貪るように絡まる我が身。この瞬間の為ならば、例え、存在意義とてくれてやっても構わない。
「ワタシも、アナタが欲しい」
嗚呼――現実の、『性』の、なんと色濃く濃厚な事よ。脳の領域が花開き、灰色の機械に魂が宿るという、俄には信じ難い奇跡の発現。夜灯のささやかさを引き裂く、配線から迸る火花の輝き。声なき声、そして息遣いすらも感じられる程に――今宵、彼は新たなる生を受けた。本来ならば、感情すら持たぬ警備ボットとして余生を送っていたであろう彼。この昂りの訪れを奇跡と呼ばなくば、一体何と例えられようか。
身も心も投げ果て、捧げ、そして遂に絶頂を迎えようとしている彼。最高潮の興奮の最中――確かにその機械の眼は見た。
女の、まるで醒めきった表情を。
「と、いうワケで。貰ってくわよ」
ぶちっ。
露出した配線を、何の躊躇もなく引きちぎる。先程までは愛おしげに彼を誘っていたその手は、奇しくも最期を与える結果となったのだ。何故、と疑問を生む暇もなく、電源を落とされ、芝生へと倒れ伏すドラム缶状の機体。溶けたビニールをハンケチで拭き取り、ずり落ちたホットパンツを正し、気怠るそうに立ち上がり、首を鳴らして仕事人が一言。
「やっぱ、素人は駄目ネ」
そう、素人では駄目なのだ。
滞りなく生き死にの業を遂行するには、確かな経験、正しき道筋、そして性への充足感。いずれも欠けていれば務まらぬ、仕事人、薬師丸まきなを構成せし三ヶ条。
故に、彼女は彼を『欲した』のである。
「認証データ、解錠パス、大まかな見取り……あぁ、イイ感じ。子供でもこさえた気分だワ」
引きちぎられた配線を自身の耳穴に通せば、女の眼球の中を泳ぐ幾多の情報の数々。男を殺し、その全てを奪い去る。何て事はない。薬師丸まきなという玄人は、それを機械相手に実践したまでだ。今や動かぬ哀しき警備ボット。彼の中に眠っていた『関係者』用の認証データは、既に女の手中にある。インプットメモリにたっぷりと『彼』を蓄え、耳穴からずるりと配線を引き出すまきな。強固な警備で守られた要人の庭は、最早、一度の交わりでザルにも等しい。
「そういう訳で。改めてお邪魔しまァす」
インベーダーと称するには、あまりにも大胆不敵な侵入劇。
女の次なる目的は――機械を従え、邸宅に隠居する生身の人間。その命である。
「警備の者が居た筈だが」
アポイントメントなき来訪に、隠居した政治家の男は驚きを隠せず、しかし然程の動揺もなさそうな様子で、腰掛けたまま呟いた。
「生真面目な子程、ふとした切っ掛けで簡単にほっぽり出しちゃうものよ」
「そういう輩が信用出来んから、機械に任せとったんだがねぇ」
「それは本末転倒ネ。同情するワ」
厳重な警備を施された庭とは裏腹に、老人の居城は至って静かであった。だだっ広い邸宅に、全てを手に入れた男が一人きりという『不自然』。しかし、同様に不自然を体現するふしだらは、彼が多くを語らずとも、その理由が判っていた。
「同情といえば、ミスター。お膝の上には、愛人の一人でも乗せていてよさそうな立場に見えるけど」
「そう見えるかね、仕事人」
「一見ね。幾ら経験を重ねようが、事情を覗くのは難しいものよ」
「だから身体を重ねる、と」
「アッハッハ。そう、それよ」
22世紀の必殺仕事人、薬師丸まきな。
誰が呼んだか、いつからか。その殺し屋としての存在は、闇社会に於いて神話を形成するだけに飽き足らず、ありとあらゆる無法者達と、女は『重なり』合ってきた。
「冗句を言える程度には耄碌していないみたいで、安心したワ」
経験人数、驚異の5桁。
それでも尚、身元不明の高嶺の花。
触れるだけが全てではない、と振ってきた者達の数だけ、女には歴史が存在する。
「私を殺っても、時代は動かんよ。息子とて同じ事だ」
「まぁ。国家転覆を狙うテロリストにしてみれば、これ程実入りのない宣言はないワネェ」
「テロリズムが目的かね、仕事人」
「いいえミスター。エロリズムこそが、至高にして究極」
"だから、ワタシは取り残されたの" 。
妖しい笑みを湛えたまま、するりと身体の曲線を滑り落ちるニットセーター。
女は、『性』という名の最大の隙を露にする。その隙に裏付けられた経験が、歴史が、薬師丸まきなを覆っている以上、男はそれに決して付け入れられない。
「最期にワタシとどうかしら。ネェ、 "ボウヤ" 」
いつでも好きに鞍替え出来るであろう、アンドロイドの、それも貧相な肉体。なのに、何故、彼女の『性』は、これ程までに男を惹き付けるのだろうか。
老人の喉を、ごくりと生唾が通る。
信用為らざる人の社会を渡り、そして老成した彼すらをも燃え上がらせる、薬師丸まきなの強烈な魔性。
「再び、花を咲かせてくれるのかね……」
人を殺め、闇に堕ち、行き着いた先は機械の城。
『重鎮』が最期に触れたのは、皮肉にも、ヒトの歴史を宿した人形だった。
「とっとと動きなさいよ、情けないワネェ」
一仕事終え、SHINJUKUエリアのビジネスホテル。ベッドの上にて『プライベート』を楽しむ女の下へとエイメンの着信が訪れたのは、既に陽が昇りきった時分であった。
「人のプライベートを尊重する程度には弁えて欲しいワネ。何なら次のターゲットはアンタに決めようかしら」
「悪かった、落ち着けって。それはそうと、迅速且つ後を濁さない仕事振り。全く頭が下がるよ、ジュディ」
「それを言う為にわざわざヤってる最中に繋いだの? マジで首から上フッ飛ばして犬に喰わせるわよ」
頗る不機嫌な様子で通話口に噛み付くが、それでも跨がった腰が止まる様子はない。下になっている若い男は既に虫の息であるが、彼の情けない悲鳴は通話越しに響いているのか、思わず苦い顔を浮かべるビジネスパートナー。
「いや、単なる忠告さ。最近、自警団がお前を抑えようと躍起になっている様子でね」
「治安維持団体が犯罪者追うのは当然でしょ。人様のプライベートを引き裂いてまで伝える有益な情報に感謝したい所だワ」
乱暴に通話を切り、投げ捨てたタブレットはデスクの上の金魚鉢へ。水面がスパークし、観賞用の魚が浮いても尚、女は情事に夢中な様子であった。