#1 腎臓盗られて鼻から牛乳
「気分が良くないって?」
この図々しき友人の口から、よもや「気分が良くない」などと弱気な発言が飛び出るとは。決して長い付き合いとは言えぬものの、いや、それにしてもらしくない。初夏の午前、真上に構える太陽照りつく学生の昼飯時。流れるような黒髪が特徴たる『友人』、桐崎凛檎と机を向かい合わせに玉子焼きを頬張っていた栗原 葵は、さも意外そうな様子で、物憂げにプチトマトを弄ぶ目の前の少女を二度見する。
「何かが足りないのよねぇ」
「オツムとか」
「葵じゃあるまいし」
いつもながらの軽口を余所に、人差し指を口元に当て、ふぅと気怠げな溜め息を一つ。何処にでもあるようなADACHIエリアの女子高、その一室。何やら難しい顔をしつつカミングアウトする友人だが、どうやらその素振りを見るに、保健室で横になっていれば治るような類のものではなさそうな様子である。紙パックカプチーノのストローをくわえつつ、目の前の友人を今一度見据える葵。ううむ。こんなにもしおらしい桐崎凛檎が、未だかつてあっただろうか?
「で、何なのよ結局。昨日引っ掛けたタチの悪い女を殴り倒せなかったとか? それともマジでビョーキなん? とうとう性病デビュー?」
「ないない」
「桐崎・ヘルペス・凛檎」
「お黙り」
「レズでも性病になったりすんのかな」
「知らねえよ。つーかなんだこの会話」
このじゃじゃ馬お嬢様たる友人が口にする『気分が良くない』。考えられるのは、賭博闘技で存分に暴れ足りなかったのか、それとも前述の女絡みが故なのか。知った事ではないものの、間違いなく体調の悪化程度で泣き言を漏らしている訳ではあるまい。桐崎凛檎という少女は、日常的には上手く隠しているものの、その本性は厄介を極める。違法とされる闘技賭博への日常的な参加、狡猾且つ悪どい思考回路、場合によっては『自警団』でさえも事もなげに嵌める悪徳性、齢16にしてガチレズ疑惑、甘党の度を超えた超甘党……。TOKYO CITY界隈に於ける桐崎家は名士として名が通っているが、この友人が実家とは絶縁関係にあるのも大いに頷ける話である。
プチトマトにどばどばと盛られる練乳に吐き気を催しつつも、相変わらず物憂げな様子の友人に怪訝な目線を送る葵。
「結局、何が足りないのさ?」
「んー。腎臓?」
ぶばっ。
盛大に噴き出されるカプチーノをハンケチで防ぎつつ、再び溜め息をつく凛檎。
「嗚呼、気分が優れませんわ」
「いやいやいや」
気分が優れませんわ、じゃねえよ。それこそ文字通り、自身の腎臓を『現役女子高生の腎臓』として変態相手に競売にでも掛けたのか、それとも臓器売買に関わっている事への暗喩なのか。この裏社会と繋がりの深い友人ならば、どちらにせよあり得そうな話だから困る。
「え、え? なになに? マジでどゆこと?」
「この前、ちょっと夏風邪ひいて病院行ってきたんだけどね。その時に盗られたっぽくて」
「腎臓を?」
「腎臓を」
「はぁ」
もう今更、驚く事もあるまい。
机に散ったカプチーノの飛沫を拭きつつ、呆れたような上目遣いで生返事を返す葵。こいつ、やはり足りてないのはオツムなのではなかろうか。
「んな、財布盗られたみたいなノリで内臓盗られたってアンタ」
「近くの穏川クリニックの院長よ。昔から臓器売買に関わってたみたいだけど、後腐れのなさが好きでよくお世話になってたの」
「で、結局アンタも内臓盗られちゃった、と」
「節操のねえクソジジイですわ。よりによってワタクシを相手に……ぷんすか」
「思い出したかのようにお嬢様言葉使うのやめろや」
マシュマロのような頬を膨らませつつ、ぷんすかと憤る凛檎。この病んだ街で危ない橋を渡り、日々の生計を立てている者は数多く存在する。今やニューヨーク以上に無数の移民が流入し、定職に就けないアンドロイド達が端金で犯罪を請け負うこのTOKYOは、脛に傷を持つアウトローならば大いに過ごしやすい土壌と化している。治安の悪さならば世界的に見ても随一なこの都市で、隣人にすら寝首をかかれるのは何も珍しい話ではない。珍しい話ではないのだが、こいつは、この友人は、体裁上は一応女子高生である。一介の学生が臓器ブローカーと関係を持っており、よもやそれに嵌められるとはこれ如何に。いや、やはり今更突っ込むのは野暮なのだろうが。
「盗られた物は取り返す。コレこの街の基本ね。腎臓ちゃんが去ってからはダルくて仕方ないし」
「まぁ、そりゃアンタならそうなるわな」
「 "臨時収入" の額によっては、売ってあげても良かったんだけどね」
「アホか」
「冗談だって」
度重なるガムシロップの投入により、半ば粘液状になったコーヒー牛乳を口に含みつつ苦笑する凛檎。課題が終わらずに涙目で電子教科書を展開している生徒、女子にも関わらず、教卓後ろの電子ボードに卑猥なホログラムを展開させ、遊んでいる生徒……此処で見られる光景は何でもない女子高のワンシーンではあるものの、この友人――桐崎凛檎がこれから向かうのは、日常に於ける非日常でありながらも、この街の暗部では通説とされている『危ない橋を渡る』世界である。午後の授業が残っているにも関わらず、「行ってくるわ」と何喰わぬ顔で席を立つ凛檎。机に突っ伏したまま、慣れた様子で彼女の背中を見送る葵。先週の昼食時の話題は、確か街で絡んできた軍隊上がりの屈強な白人3名の手足をへし折ってやった事だったっけか。ともかく、やはりこの桐崎凛檎という友人は、一緒に居て退屈しないという意味では良き友人である。
「あっ。おーい凛檎、忘れ物ー」
「いっけね」
教室を出る間際で葵に呼び止められ、ふと思い出したかのように踵を返す凛檎。彼女が向かった先は、教室の片隅で腰掛け、俯いて肩を震わせている一人の女子生徒の下である。
「ぁ、りんごちゃん……」
「ごめんごめん。よく授業中耐えたね、えらいえらい」
女子生徒のスカートから尻尾のように伸びている、『ぶるぶる震える桃色の機械』。それをずるりと引いてやれば、喉からか細く絞り出される艷声に、桐崎凛檎の表情は恍惚としたものに変わる。
「えっちな女の子が居れば明日も頑張れるっ。それではマイハニー、わたくしは行って参りますわっ」
「ぇ、あ、りんごちゃ、私置いてっちゃ嫌ぁ」
「私は危険な世界に片足を突っ込んだ存在。恋人よ、背中を追う事なかれ――」
「さっさと行ってこいや、この変態レズ」
葵に尻を蹴られ、『ぶるぶる震える桃色の機械』を口に含みつつ、鼻唄混じりに教室を後にする凛檎。全く、こうしてクラスの気に入った女子を調教しては悦に入っているのだから困りものである。
ともかくして、腎臓を盗まれた不幸なこの少女は、自身の一部を取り戻すべくしてこれから大いに奮闘する訳だ。一介の学生ですら臓器を盗まれ、競売に掛けられる魔都TOKYO CITY。何処の馬の骨とも判らぬ輩に腎臓が渡ってしまわぬ内に、彼女が大事な内臓器官を取り戻す事を我々は願うばかりである。