耳栓
窓ガラスからさす春の日差しを長時間浴びたせいか、すこしうとうとしかけて、右へ右へと沈みかける火照った頭をひっぱり戻そうと、無意識のうちに踏ん張った一瞬、教師の声がやけにやかましく聞こえ、右手の隙間からペンが指の支えをうしなって抜け落ち、前席の椅子の足元へ転がっていった。
「おい、佐々木。」
前の席の佐々木は先ほどからずっと俯いたままほとんど動かず、椅子が自分の机と擦れるほど手前に引かれているので、自分のほうへ嫌に迫ってくるような、微かな居心地の悪さを感じる。肩幅はどちらかといえば狭いほうだが、頭を下に向けているおかげで、後ろ髪の刈り上げた生え際から細い首筋、学生服の襟裏へ潜ってゆくうなじへと、クラスの男子ではいちばん白いに違いない肌が、すぐ眼の前で強調されている。
「おい、佐々木って。」
もう一度、今度はすこし身を浮かせ気味にして、彼の耳もとへ囁いてみたものの、佐々木は無反応のままだった。自分の声が一切聞こえないほど夢中になって勉強でもしているのか。それとも自分をわざと無視しているのか知らないが、とりあえず腰を降ろしてから、数秒間、白い首を睨みつけていた。やがて教師の話し声が途切れて、教壇のほうを見やると、チョークの白文字は自分が手を動かさないでいるあいだに黒板の左端近くまで埋まりつつあった。急いで書き写さなければ。片足を椅子の下へ伸ばして、ローファーの丸みを帯びた爪先でペン軸を手前へ引き寄せようとつついてみるが、なかなか思うようにいかない。そのとき不意に、佐々木の椅子の、脚を蹴ってしまった。
佐々木の肩が一瞬、ぴくりと上下に揺れ動いた。佐々木の首が時計回りに九十度あまり回転して、自分のほうへ向けられたが、おそらく佐々木の眼は自分の顔をまだ見えていないだろうと思う。自分からは佐々木の軽く巻かれた睫毛だけが見えて、瞳は隠れている。おそらく椅子の脚を蹴った後席の奴の顔を見るつもりはなく、佐々木は自分の次に発する言葉を待っているのだろう。
こうして回想するぶんにはどうとでも言えるが、実際にはそのとき、自分は少し焦っていた。謝るなり、ペンを拾うよう頼むなり、何か言わなければならない。しかしそのとき、佐々木の右の耳穴に詰まっていたオレンジ色の耳栓を唐突に発見してしまい、自分は喉から言葉が出なかった。それまで何の変哲も無かった耳が、顔の輪郭からくっきりと浮きでている物体であるような印象を受けた。佐々木が振り向きざまに少し持ち上げた右手は、何語なのか知れない横文字のペーパーバックを持っていた。咄嗟に自分は、
「それ何の本?」と、本を指差して尋ねた。そっと囁きかけたつもりが、自分の声は予想外にうるさかった。右前の日下部が、自分のほうを一瞬振り返ったが、すぐ目を逸らした。教師には聞こえていない。佐々木の耳栓の詰められた耳まで声は届かなかったはずだが、自分の何かを指さす仕草は見えたらしく、左手で右耳の耳栓を外して「何?」と聞き返してきた。
「いや、その本。」と自分がもう一度いうと、佐々木は肩をずらしてもう三十度ほど振り向いた。
「本が何?」
「いや、何の本かと思って。」そういってもう一度指差したつもりが、本は佐々木の身体に隠れて見えなくなり、何を指さすのか自分でも自信無さげに突き立てられたひとさし指を、彼は眉間に皺をつくって見詰めるので、汚いものでも自分の爪先についているのではないかと、あわてて指をひっこめた。
「あとで教えてやるよ。」
そう言い終えるまえから彼は背中を見せていた。白く細長い指が耳栓を詰めなおすと、佐々木はもう動かなくなった。
佐々木があとで本のタイトルを教えてくれるとは思わないし、そもそも自分のほうも特別に知りたいわけでは全然ない。佐々木に声をかけたのを後悔して、わざわざ屈んでペンを拾い上げる気にもなれず、そっとノートを閉じた。窓から校庭を見下ろすと、校庭のいちばん奥に張られた緑のネット越しに、小学生の一団が道路をぞろぞろと歩いてゆくのが見えた。どの子も体操服姿で赤帽を被っている。先頭も最後尾も見えないままずっと途切れずに続いている。
自分は机に額を押しつけて、ふて寝することにした。もう一年足らずで受験だというのに、授業中に本を読むような余裕はすぐになくなるはずだ。なかなか寝つけず、次の授業の開始ベルがやかましく鳴るまで起きずにいた。