妻の卵焼きは甘くない
妻の卵焼きはいつもしょっぱかった。きっと醤油を入れているのだろう。
俺の実家の卵焼きは白だしに砂糖が入っていたから、とてもきれいな黄色だったし甘かった。その甘さが俺は好きだった。母さんの作る味が。
「はい、卵焼きできたよ」
妻の美香が食卓の上に卵焼きを置いた。まだ幼い息子と娘がわっと歓声をあげると、箸を伸ばして、その卵焼きを熱々なことにも気に留めず口に入れる。
「お母さんの卵焼き、おいしい」
「大好き」
本当に大好きなんだろうな。
俺はその卵焼きを食べてみた。
しょっぱい。これは今回思っただけではない。今までの妻の料理は醤油が効いている。そしてあまり料理に砂糖を使わない。今まではずっと言っていなかったけれど、今日は仕事に疲れて、どうしても甘い卵焼きが恋しかった。
「……卵焼き、俺甘いのが好きなんだよね」
聞こえないように、独り言のようにつぶやいたはずだった。
明らかに妻の表情が変わった。
「悠人はしょっぱい卵焼きじゃダメ、甘いのがいいの? 砂糖を入れればいいってこと?」
「だ、ダメじゃないけど」
「私の家の卵焼きはずっと醤油を入れてたからわかんない」
なんだろう、声に不満の色がある。
「俺の母さんに聞けばいいだろう。俺の母さんはずっと砂糖が入った甘い卵焼きを作ってくれたんだ」
いつの間にか口走っていた。
「何を今更。悠人は今までずっと我慢してたってこと?」
「だってあんまり料理に口を出すのは良くないと思ってさ」
「言ってくれればちゃんとわかるのに。そういうとこ、悠人のよくないところよ」
すると子ども達が見上げているのに気がついた。
「お母さんたち喧嘩してるの?」
「どうしたの?」
子どもの声にまた美香の表情が変わる。きっと俺の表情も変わっただろう。
「ううん、大丈夫。気にしないでご飯食べなさい」
俺はその後も甘くない卵焼きを食べた。すると、美香が「美味しくない卵焼きなんて食べなくていいからね」と明らかに不機嫌な声で言った。別に美味しくないとは言っていない。美香の言葉に抗うように俺はしょっぱい卵焼きをむしゃくしゃとほおばった。
次の日。仕事を切り上げてランチタイム。弁当を箱を開けると卵焼きが入っていた。俺はその卵焼きが、いつもより黄色いことにも気がつかずに口に入れた。
そして思わずうわっと声を出してしまった。
「あんまっ! こんな甘い卵焼き食えるかよ。いくらなんでも甘くしすぎだ」
気持ち悪くなるくらい甘い。もしかしたら昨日のことを不満に思って、砂糖をいっぱい入れすぎたのか?
それにしてもこれはちょっと食べられないレベルだ。
いや、でも、食べないときっと怒ってくる。無理矢理でも食べるしかないか。
「どうしたんですか。先輩」
後輩が隣の席から俺を見ていた。
「もしよかったらこの卵焼き1つでいいから食べてみてくれないか」
「奥さんの愛妻弁当じゃないですか。そんなことしていいんですか?」
後輩は箸でつまむとそのまま口に入れた。入れた途端、うっと声が漏れる。
「これはちょっと」
「昨日ちょっと卵焼きの事について指摘したらこんなふうになっちゃってさ」
「このレベルになると、ちょっとした嫌がらせ?なんて言ったんですか?」
「本当は、甘いのが好きなんだよねって言った。俺のお母さんの卵焼きは甘かったからさ」
うーんと後輩は考える。
「もしかして母親の味と比べたから怒ったんじゃないですか? だからわざとこんなに甘い卵焼きにしたとか。喧嘩ですか? それは謝ったほうがいいんじゃないですか?」
「別にそんなたいした喧嘩じゃないと思うんだけど」
「意外と卵焼きって家庭の味が出るし、それをお母さんの卵焼きにしようと助言するとうちの妻もちょっと機嫌悪くなるんですよ。それにしても奥さん意気なことしますね。弁当で嫌がらせだなんて」
「ちょっと今日言ってみるか」
「それがいいですよ。仕事よりも家庭が1番ですからね」
「新婚だもんな、将来いい父親になるよ」
会社から家に帰り、ただいまと言った後すぐに言ってみた。
「美香、今日の卵焼きさぁ、ちょっとというか、いやかなり甘かったんだけどもしかして怒ってる?」
すると妻は首を傾けた。
「なにが?」
「怒ってなんかない?」
「え? なにに?」
もしかしたらとぼけているのか、それとも……。とりあえず俺は用意していた言葉を出した。
「今日の卵焼き、かなり甘かった」
「あれで甘すぎたんだったらちょっと味を調整してみるよ」
「わかった」
俺はそっけなくうなずくことしかできない。もしかして分量がわからなかったのかな。そう思うと、嫌がらせじゃないかという俺のモヤモヤもずいぶん落ち着いてきた。
だったら姑である俺の母さんに聞けばいいと思うんだけど。
次の日お弁当を開けた。また卵焼きが入っていた。昨日と同じように黄色い卵焼きだ。今度はおいしい甘い卵焼きだろうか。
「しょっぱ!」
食べてみてすぐにわかった。食べた途端に思わず出しかけた。
「こんなしょっぱいの食えるわけない」
醤油じゃない。これは塩だ。
隣で後輩が聞いてきた。
「先輩今度はどうしたんですか? しょっぱいんですか? 昨日甘かったじゃないですか」
「ちょっと甘すぎるって言ったら、今度はしょっぱくしてきた。多分これ砂糖じゃなくて塩だ。これ絶対にわざとだよ」
「やっぱり奥さん怒らせてるんじゃないですか? 昨日なんて言ったんですか?」
「別に変なこと言ったつもりないんだけどなぁ」
「もしかして女性特有のちょっとイライラ期みたいな感じですかね。……あっ、これを言うとうちの妻に怒られるんだった。今言ったこと聞いて忘れてください」
「きっとお前たち夫婦は仲良くやってんだろうなぁ。うらやましいよ」
「あのさぁ、卵焼き……さぁ」
残業が終わり急いで帰ってくるなり話を切り出した。
「ごめん! 今日塩と砂糖を間違えたの!!」
「……え?」
顔の前で手を合わせる妻と次に言う言葉を忘れた俺。少しの間時間が止まった。
「私も同じ卵焼きをお弁当に入れて持っていってるんだけど、砂糖のつもりで塩をいっぱい入れたことにその時気がついたの」
「あ、ああ……」
俺はさっきまで怒らせたんじゃないかって謝ろうとしていた。妻と母親の味を比べてごめんて。でもその言葉が消えてしまった。
「でも今回は大丈夫だよ! 食べてみて!」
夕飯が並んだ食卓に、追加で卵焼きが出てきた。焼いたばかりのようだ。湯気が立っていて、卵とだしの香りがする。
「ごめん遅くなった。お義母さんから連絡が返ってきてレシピを教えてもらったの」
わかったことがある。
そうか、本当にレシピがわからなくて間違っていたんだな。
「こっちこそごめん」
「なんであなたが謝るの?」
「いや、わかってないならいい」
「こっちこそごめんなさい。醤油を使わない卵焼きが何なのか一体よくわからなくて、砂糖を入れて何度も練習してたの。これはおいしいかな?」
ひときれ食べてみた。ほんのりと甘みが感じられて、白だしのうまみが口の中に広がる。卵焼きを食べただけで、子どもの頃、切り分けてもいない大きな卵焼きをかぶりついた記憶が蘇ってきた。うん、母さんの味だ。
「美味しい」
「よかった……」
でもちょっとだけわがままを言ってもいいか。
「母さんが作った卵焼きもおいしいけれど、やっぱり美香が作った卵焼きもおいしいよ。甘い卵焼きもおいしいけれどしょっぱい卵焼きも好きだ。2つの卵焼きを食べれるなんて俺は幸せ者だな」
「悠人……」
「何食べてるの?」息子がやってきた。
「あー卵焼きだ。お父さんだけずるい」まだ幼い娘だ。
「ちょっとちょっと、これはお父さんのご飯よ。二人はもう夕飯を食べたでしょ」
「いいんだ。みんなで食べよう。いいか二人とも、この卵焼きはお父さんが子どもの時に食べた卵焼きだ。おばあちゃんが作ったのとそっくりだよ」
「お母さんが作ったやつとは違うの?」
「そうだ。お父さんは甘い卵焼きもしょっぱい卵焼きもどっちも好きなんだ。よしみんなで食べよう」
目の前の卵焼きは出汁の香りがする湯気を立たせたまま、あっという間になくなった。
俺は、二つの家の幸せのなかにいる。
お読みいただきありがとうございました♪
もしよろしければご反応くださると嬉しいです
卵焼き作っていたら思いつきました笑




