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灰のあとに残るもの  作者: アーエル
第1章 転校生

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8/23

8.


休み時間になると、朝倉はすぐに教室の後ろへ行き、別の男子たちと次の体育の話を始めた。仁科は友人に呼ばれて廊下へ出ていき、森は最初から誰とも話すつもりがないように問題集へ戻った。悠真の机のまわりにできていた小さな輪は、チャイムの余韻と一緒にほどけていった。


悠真は席を立つ理由を探した。トイレに行くほどではない。購買の場所を見に行くにはまだ早い。けれど、座ったままでいると、意識がどうしても窓際に向いてしまう。見ないようにしようと思うほど、紗良の動きが視界の端で輪郭を持った。


紗良は立ち上がっていた。教科書を胸の前に抱え、机の横にかけた鞄から何かを取り出そうとしている。その拍子に、筆箱の中から消しゴムが床へ落ちた。小さな白い四角形の物体は、机の脚に当たって跳ね、通路側へと転がっていく。


それは悠真の足元までは届かなかったが、彼が少し身を乗り出せば拾える距離で止まった。紗良も気づいたようで、ゆっくり膝を曲げようとした。その動きが、先ほど見た座るときの仕草と重なった。


「あ、拾うよ」


声が出てから、自分でも少し驚いた。もっと考えてから言うべきだったのかもしれない。けれど、もう遅い。悠真は椅子から半分立ち上がり、通路に落ちた消しゴムを拾った。


紗良はその場で動きを止めた。無理に取り返そうとはせず、ただ悠真の手元を見ている。表情に大きな変化はなかった。驚いたようにも、嫌がっているようにも見えない。ただ、ひとつ呼吸を置いてから、彼女は小さく言った。


「ありがとう」


初めて聞く、紗良の授業以外の声だった。現代文の答えを読むときよりも少し低く、近くで聞くと柔らかい。悠真は手の中の消しゴムを机の端に置いた。直接手渡す勇気はなかった。


「どういたしまして」


それだけで終わるはずだった。終わったほうがよかった。仁科が言っていた通り、用事があるときに普通に話すくらいがちょうどいい。悠真もそう分かっていた。分かっていたのに、口が勝手にもう一言を探していた。


「さっきの答え、すごかったね」


紗良の視線が、ほんの少しだけ悠真の顔へ上がった。目が合ったのは一秒にも満たなかった。けれど、その一秒の中に、悠真は自分の名字を見つけられたような気がした。彼女が覚えているのか、知らないのか、判断できない。判断できないことが、逆に彼を落ち着かなくさせた。


「普通だよ。教科書に書いてあったことだから」


紗良はそう答え、消しゴムを筆箱に戻した。その指先は細く、爪は短く整えられていた。落ち着いた動作だったが、悠真には、その落ち着きが距離そのもののようにも見えた。


「でも、俺はすぐには出てこなかったと思う」


言ってから、悠真は自分が何を期待しているのか分からなくなった。会話が続くことか。彼女が少し笑うことか。それとも、普通の同級生として扱われることか。どれも違うようで、どれも少しずつ当たっている気がした。


紗良はしばらく黙っていた。沈黙は長くなかったが、悠真には十分に長く感じられた。やがて彼女は、窓の外へ一度だけ視線を向けてから言った。


「慣れてるだけ」


何に、と聞き返しそうになって、悠真は言葉を飲み込んだ。授業に慣れている、という意味かもしれない。教科担当がどの部分を指摘するか、という意味かもしれない。文章を読むことに慣れている、という意味かもしれない。それ以上の意味を勝手に読み取るのは失礼だと思った。けれど、勝手に読み取らないための努力も、彼にはまだ足りなかった。


「そっか」


会話はそこで終わった。紗良は教科書を抱え直し、ゆっくりと通路へ出た。歩き出すまでに、やはり一拍だけ間があった。右足を先に出すのではなく、左足で床を確かめるようにしてから、身体(からだ)を前へ進める。


悠真はその背中を目で追った。廊下へ出る直前、紗良は近くにいた女子に何かを尋ねられ、短く答えた。相手の女子が笑い、紗良も口元だけで少し笑った。ほんの小さな表情だったが、悠真の胸には不自然なくらい大きく残った。


話せた。


その事実が、悠真の中で必要以上に温かく広がった。彼女は自分に礼を言った。普通に返事をした。嫌そうな顔はしなかった。避けることもしなかった。


それだけで、彼はまた少し安心してしまった。


自分が何者なのかを、彼女がまだ知らないのなら。あるいは、知っていても何も言わないのなら。もしかしたら、この先、普通に話せるのかもしれない。普通の同級生として、少しずつ距離を縮められるのかもしれない。


その考えの中に、謝罪はまだなかった。あるのは、許される前から許された気になろうとする、幼い期待だけだった。


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