1.
転校して来てから一週間が過ぎると、篠原悠真の席のまわりには、少しずつ当たり前の空気ができ始めていた。朝倉は毎朝のように彼の机へ来て、サッカー部の練習がどれだけきついかを大げさに話した。森は相変わらず眠そうな顔で問題集を開きながら、時々だけ会話に混ざった。仁科は移動教室の場所や提出物の期限を、必要な分だけ丁寧に教えてくれた。
最初の一日は、教室に入るたびに胸が固くなった。二日目も、黒板に自分の名前が書かれていないことを確認してからでないと落ち着かなかった。けれど三日目になると、人は案外、慣れてしまうものだと知った。チャイムの音にも、購買の混み方にも、階段の多さにも、後ろから二番目の自分の席にも。
そして、水瀬紗良が同じ教室にいることにも、悠真は慣れ始めていた。慣れてはいけないことのはずだった。自分の立場を忘れてはいけないことのはずだった。自分の立ち位置を忘れてはいけないことのはずだった。
それでも、毎日同じ場所に座り、同じように授業を受け、同じ教室で休み時間を過ごしていると、特別だったはずの存在が少しずつ日常の輪郭を帯びていく。
紗良は相変わらず静かだった。必要なことを聞かれれば答え、授業では指名されれば立ち、提出物はいつも早かった。休み時間に大きな声で笑うことはなかったが、誰かの冗談に口元を緩めることはあった。悠真はその小さな変化を見つけるたびに、胸の奥で勝手に安心を積み重ねていった。
朝倉たちと話している時間も増えた。前の学校のこと、好きな漫画やアニメのこと、昼休みにどのパンが一番早く売り切れるかというどうでもいい話。悠真は笑い、相槌を打ち、ときどき自分からも話題を出した。そうしている間だけは、篠原という名字がただの名字に戻る気がした。
その日の昼休み、教室には雨上がりの湿った日差しが差し込んでいた。購買で買った惣菜パンの袋を開けながら、朝倉がふと思い出したように言った。
「そういや篠原って、なんで急にこっち来たんだっけ。家の都合って言ってたけど、引っ越し?」
悠真は二つめのパンを開こうとした手を止めた。前にも似たようなことを聞かれた。そのときは「家の都合」で済んだ。けれど、この数日で朝倉との距離は少し縮まっていた。森も仁科も近くにいる。隠すほどのことではない、という気持ちが、どこからか浮かんできた。
隠すほどのことではない。そう思った時点で、悠真はすでに間違えていた。けれど、その間違いはまだ彼自身には見えていなかった。彼の中では、事故は十年前のことだった。父が起こしたことで、自分が直接何かをしたわけではなく、そして相手の女の子は今、同じ教室で普通に生活している。
「まあ、引っ越しっていうか」
悠真はパンの空き袋を指で丸めながら、声の調子をできるだけ軽くした。重い話にしたくなかった。重い話にしてしまえば、朝倉たちがどんな顔をするのか想像できなかったからだ。
「うちの父親がさ、昔ちょっとした事故を起こしてて。それで、まあ、いろいろあって」
言った瞬間、森が問題集から顔を上げた。朝倉は惣菜パンを口に運ぶ途中で止まり、仁科はペットボトルの蓋を閉める手を少しだけ止めた。ほんの短い沈黙だった。けれど悠真は、その沈黙を自分の話し方が足りなかったせいだと受け取った。
「いや、別に俺が何かしたってわけじゃないんだけど。十年前くらいかな。父親がトラック運転してて、乗用車と事故って。ニュースにもなったらしいけど、俺そのとき小さかったから、あんまり覚えてなくて」
朝倉の表情から、さっきまでの軽さが少し消えた。
「それ、そんなに軽く扱っても大丈夫なやつなの?」
「大丈夫っていうか……たぶん、今はもう大丈夫なんじゃないかな」
自分で言いながら、悠真はその曖昧さを補うように言葉を足した。ここで黙れば、かえって重くなる。そう思った。重くならないように。「大したことではない」ように。自分がそう扱えば、周りもそう受け取ってくれるのではないかと考えていた。
「亡くなった人もいたらしいけど、女の子がひとり助かってさ。いや、もちろん事故だから大変だったんだろうけど。でも、今は普通に学校来てるし、問題なく生活してるみたいだから」
言い終えた直後、教室の音が少しだけ薄くなった気がした。悠真は朝倉の顔を見た。朝倉は何かを言おうとして、言葉を選んでいるようだった。森は問題集を完全に閉じていた。仁科の表情からは、さっきまでの明るさが消えていた。




