9.
下校の時間、紗良は人の流れが少し落ち着くのを待ってから教室を出た。廊下は部活へ向かう生徒たちの声で満ちていた。誰かが笑いながら階段を駆け下り、誰かが忘れ物に気づいて教室へ戻っていく。その中を、紗良はいつもよりゆっくり歩いた。
右足が重かった。朝の雨のせいだけではない。一日中、姿勢を崩さず、声を震わせず、彼の名前に反応しないようにしていた。その疲れが、身体の弱いところへ集まっているのだと思った。階段を下りるとき、紗良は手すりに指を添えた。掴むほどではない。けれど、添えておくだけで少し安心できる。
校門を出ると、雨は完全に上がっていた。湿った空気の中に、夕方の匂いが混じっている。紗良は傘を開かず、鞄の横に差したまま駅へ向かった。足元の水たまりを避けるたびに、右足の内側が鈍く引きつった。
家に着いたとき、祖母は台所で夕食の支度をしていた。玄関の引き戸を開ける音に気づき、「おかえり」と声をかけてくる。その声はいつもと同じだった。いつもと同じでいてくれることが、紗良にはありがたかった。
「ただいま」
靴を脱ぐとき、右足に体重が残りすぎて、紗良は一瞬だけ壁に手をついた。祖母には見えなかったはずだ。見えていたとしても、祖母はすぐには何も言わない。
「雨、帰りは大丈夫だった?」
「うん。止んでた」
「よかった。足、冷えてない?」
その問いは、朝にはなかったものだった。紗良は少しだけ間を置いた。祖母は振り返らず、味噌汁の鍋をかき混ぜている。聞き方が上手いと思った。痛むのかとは聞かない。大丈夫かとも言わない。ただ、冷えていないかと尋ねる。
「少しだけ。あとで温める」
紗良は鞄を持って二階の自室へ上がった。階段を一段上るたびに、右足の奥で鈍い重さが揺れる。学校では気づかないふりをしていたものが、家に帰って気が緩んだ途端、遠慮をやめたように存在を主張し始めていた。
部屋に入ると、紗良はドアを閉め、鞄を机の横に置いた。窓の外は、雨上がりの夕方の光で薄く青かった。制服のリボンを外し、ブレザーをハンガーにかける。いつもの順番。いつもの動作。そうしていれば、一日が普通に終わったような気がする。
けれど、椅子に座ってタイツに手をかけた瞬間、その普通はそこで途切れた。黒い布を膝下まで下ろす。傷跡に触れないよう、急がず、指の腹で布を逃がす。布の圧迫から解かれた右足は、空気に触れた瞬間、ひどく無防備に見えた。
膝下から足首にかけて、皮膚の色は均一ではない。薄く白いところ、赤みを残したところ、移植した皮膚の境目が波のように続くところ。古い傷はもう血を流さない。けれど、光の下では今もそこにあることをはっきり示す。
紗良はしばらく、その足を見ていた。見慣れている。毎日見ている。風呂に入るときも、着替えるときも、病院で医師に診せるときも、ずっと見てきた。けれど、その日だけは、そこに篠原という名字が重なっていた。
篠原悠真。
黒板に書かれた白い文字。教卓の横に立つ声。消しゴムを机の端に置いた手。どれも今日の教室にあったものなのに、紗良の中では十年前の景色と同じ場所に沈んでいく。
燃えた匂いを思い出す前に、足が痛んだ。痛みが先だった。膝の裏からふくらはぎの奥へ、固く縮むような感覚が広がる。紗良は反射的に右足を両手で包んだ。温めるためではない。そこにあることを確かめるためだった。
生きている。ここにある。今は自分の部屋にいる。あの車の中ではない。
そう言い聞かせても、記憶は言葉より早く戻ってくる。熱。煙。息を吸うたびに喉が焼けるような感覚。誰かが外から叫んでいた声。自分の名前だったのか、母の名前だったのか、今ではもう分からない。ただ、叫び声の中に、自分が取り残されているという恐怖だけが残っている。




