6.
最後の文を読み終えたとき、紗良はすぐに座りたい衝動を抑えた。急に動くと足がついてこない。教科書を少し下げ、教師の方を見る。自分の声が震えていなかったか、途中で不自然に詰まらなかったか、それだけを確認するように。
教師は何事もなかったように頷いた。その何事もなさが、紗良にはありがたかった。うまく読めたからではなく、読めなかったことにされなかったから。自分の内側でどれほど記憶が揺れていても、教室の中では、ただ指定された範囲を読んだ生徒でいられたから。
「今の段落で、筆者が対比しているものは何だと思う」
教師の問いは、いつもの授業の問いだった。答えは本文の中にある。探せば見つかる。そう思おうとした。けれど、紗良の中では、さっき読んだ一節がまだページの上に戻りきっていなかった。
経験した者と、あとから聞いた者。
その言葉は、本文の中にあった。けれど、紗良の身体の中にもあった。新聞記事を読む人と、車内にいた自分。ニュース映像を眺める人と、煙を吸い込んだ喉。日付と場所と死者数を覚えている人と、その日の熱さを今も雨の日に思い出す身体。同じ事故という言葉で括られても、その中身は決して同じではない。
紗良は教科書に一度視線を落とした。答えを探すためではなく、顔を上げる前に呼吸を整えるためだった。ここで躊躇すれば、何かが滲む。授業の答えに、自分の過去が混じってしまう。そうならないように、彼女は文章の言葉だけを拾い上げるふりをした。
「目に見える出来事と、それを受け取る側の記憶の違いだと思います」
声は震えなかった。少なくとも、自分ではそう思えた。紗良は続けた。
「出来事そのものは同じでも、経験した人と、あとから聞いた人では、重さが変わるということを書いているんだと思います」
言い終えた瞬間、教室の空気がほんの少しだけ止まったように感じた。実際には、誰かが二度咳をし、窓の外では車の音が通り過ぎ、教師は手元の教科書へ目を落としていた。何も止まってはいない。ただ、紗良の中でだけ、言葉の重さが一拍遅れて落ちてきた。
後ろの席にいる篠原悠真が、今の答えをどう聞いたのかは分からなかった。分かりたくもなかった。自分から関わりたいとも思わない。彼に向けて言ったわけではない。言ってしまえば、そういうことになる。だから紗良は、これは授業の答えだと自分に言い聞かせた。教科書に書いてあることを、教師に聞かれて答えただけだと。
「いい答えだ」
教師がそう言ったので、紗良は小さく頭を下げた。褒められたという実感はなかった。ただ、これで座れると思った。座って、机の下に足を戻して、視線を前から外しても不自然ではなくなる。
けれど身体を下ろすとき、右足が一瞬遅れた。机の端に置いた手に力を込め、体重を左側へ逃がす。痛みは表に出さない。出さないことが、紗良にとっては授業を受けることの一部だった。




