第4話 身支度
物置部屋の掃除を済ませた翌朝、サンドラは窓から差し込む光で目を覚ました。
上半身を起こしたまま、しばらくぼーっと部屋を見回す。
質素だけれど清潔な部屋。長年、寝るだけに使っていた部屋とは違う。
「……あー、ここ宿か」
頭が回り始めて、ようやく理解する。
酔っ払いの面倒を見なくていい朝というのは快適だ。大きく伸びをして、ゆっくりと着替える。
素泊まりなので、食事は自分で調達する必要があった。出発前にもらった大量の餞別のおかげで、お金は思った以上に確保できている。
「朝ご飯はどこがいいだろう」
できるだけ安くて美味しいところがいい。解呪の仕事は一度取り掛かるとなかなか休憩が取り辛い。腹持ちの良いものをいくつか買っておく必要もあった。
「ベーグルってこっちにもあるかしら」
ひとりごちる。仕事中はベーグル一つで持ちこたえられた。今回は少なくとも三つ欲しい。
受付に聞けばわかるだろう。サンドラは鞄の奥に隠しておいた金庫を手に取った。
市販の金庫だけど、彫金師の腕を利用して複雑なパズルの錠前を取り付けてある。自分で作った錠前だから、開錠も簡単だ。売り上げの一部をここに隠しておいたから、サンドラは簡単に国外に脱出できた。
金庫から財布にお金を移し、それを持ってフロントに向かう。
「すみません、今の時間からやっているパン屋はありますか」
フロントにいた老婆が、宿の入り口を指さした。
「向かいに一軒、通りの左右にも一軒ずつあるよ」
「ありがとうございます。今日はもしかしたら帰れないかもしれないので、部屋の掃除等はいりません」
「あっそう。気を付けてね」
ぶっきらぼうな老婆に一礼して、サンドラは宿を出た。
町も目を覚ましたばかりだろうか。人通りは少ない。けれど、軒先を出している店は何軒かあった。そのうちの一軒、宿の斜め右側から、小麦の焼けるいい匂いが漂ってくる。
匂いにつられるように歩いていけば、パン屋に辿り着いた。すでにお客が何人か入っている。
「いらっしゃいませ」
サンドラが中に入れば、店員が挨拶してくれた。
焼きたてのパンが並ぶ中、ベーグルを見つける。
「すみません、ベーグルを三つ、いえ四つください」
「はい、銅貨二十枚ね」
紙袋にベーグルを入れてもらい、銅貨と交換する。
「あんた、見ない顔だね。ここに来たのは初めて?」
「はい。昨日こちらに入国しました」
「へえ。住処は?」
「探しているところです。今日の仕事はあるので、それ次第では住居を斡旋してもらえます」
「いいじゃん。どんな仕事をしてるの?」
「彫金です。アクセサリーの修理から制作まで、なんでも承ります」
「本当? 住むところが決まったら教えてよ。うちの旦那が指輪を壊しちゃってさ」
指輪、と聞いてサンドラはドキッとする。だが店員はそれに構わず続けた。
「新しく指輪を作ってもらいたいんだよ。いや、いっそ腕輪の方がいいかな?」
「それは、旦那さんとご相談ください。指輪も腕輪も、どちらも承りますので」
「助かるよ。住むところが決まったらまた来てね。ていうか、パンがなくなったらいつでも来てよ」
「ありがとうございます」
サンドラは礼をして店を後にした。
まだ心臓がうるさい。離婚を言い渡された時は清々しい気分だったのに、今になって動揺が襲ってくる。
紙袋の中のベーグルはまだ温かい。焼きたてを入れてくれたのだろう。
それがありがたくて、すこし惨めだった。
「……大丈夫」
サンドラは自分に言い聞かせる。ここはエラティカではない。イネトニシュ王国のオーカイムだ。あの甲斐性なしにここまで追ってこられるだけのお金はない。度胸もない。
だから、大丈夫。
「あの、大丈夫ですか?」
不意に男の声が降ってきて、サンドラは飛び上がった。
「す、すみません」
そう謝ってきたのは、いつのまにか目の前に立っていた若い男だった。青年と呼んでも差し支えないだろう。身なりがいい。高い役職に就いているように見えた。
「その、泣きそうな顔をしているように見えたので」
「……そうでしたか?」
サンドラは呆然とする。
生まれてこの方、鉄面皮と言われるほど顔の筋肉が動いたことがない。表情筋が動くだけで周りが珍しがるくらいだ。
だから、他人にわかりやすいと言われたのは、これが初めてだった。
「はい。……あの、なにか悩みごとですか? お話くらい聞きますよ?」
丁寧な物腰だが、言っていることはナンパそのもの。一瞬でサンドラに警戒心が戻った。
「いいえ、ありがとう。これから仕事だから、失礼します」
「あっ……」
男がなにか言う前に、サンドラは足早にその場を立ち去った。
(危ない、危ない)
ああいう手合いは、一度絆されるとなかなか縁が切れない。そういうのはしばらく遠慮させてもらいたい。
(というか、年齢的にもう結婚は無理ね)
なにせサンドラは今年で二十九歳。行き遅れ――とは微妙に違うが、よほどのもの好きでなければ再婚なんて申し込めない。
(格好いいと思ったのは否定しないけど)
心の中で負け惜しみを呟く。
一目見て、爽やかな好青年だと思った。
だからこそ、こんな年増よりも、もっと似合う子がいるはずだ。
(さあ、仕事の準備よ)
彫金師ギルドの隣にある工房へ入る。
「おはようございます」
「おはよう、サンドラさん!」
工房にはエリカがすでに待機していた。
「早いね~」
「時間がかかると思ったので」
「そっか。あ、通りのベーグル? あれ美味しいんだよね」
「そうなんですか? まだ食べていないので楽しみです」
「飲み物はいる?」
「はい。……あの、厚かましいお願いなんですが」
「うん、なに?」
サンドラは勇気を振り絞って言った。
「牛乳をピッチャーでお願いできますか? 仕事が始まったら、誰も入れたくないんです」
エリカの顔が強張った。
「……話は聞いていたけど、そんなにヤバいやつなの?」
「はい」
「わかった。念のためピッチャーを二つ用意しとく。ご飯は?」
「ベーグルを四つ買いました」
「それだけで大丈夫? お肉は?」
「ごめんなさい、シンプルな味の方が集中力が切れなくていいんです」
「……そっか。うん、わかった」
エリカが何度も頷く。
「牛乳は用意しとくよ。仕事が始まったら、立ち入り禁止の張り紙、出しとくね」
「ありがとうございます」
準備は整った。
エリカが居住スペースで牛乳を用意している間、サンドラは朝食としてベーグルを一つ頬張る。
もっちりした生地の中に小麦の味がしっかりと広がる。たしかに美味しい。あの店は今後も贔屓にしよう。
「さあ、みんな」
昨日のうちに運び込んでいた仕事道具たちをテーブルに広げる。
「仕事の時間よ」




