第1話 離婚
「おーぅい、旦那様のご帰宅だぞ!」
酒焼けしたがなり声に、サンドラは研磨の手を止めた。
「玄関はあちらですよ、旦那様」
頭に巻いていたバンダナを取り、冷めきった声で男に告げる。と同時に、彼の腕にしなだれかかるようにしがみついている女に気付いた。
「いんや、間違ってねえよ」
男――サンドラの夫オリンドは、酔っている割に冴え冴えとした目で妻を見た。
「お前、離婚して俺とこいつの結婚指輪を作れ」
「……は?」
聞き間違いかと思った。
「もう一度お伺いしても?」
「だーかーら! 離婚して結婚指輪を作れっつってんだよ能無しが!!」
オリンドの拳がカウンターテーブルを叩いた。
「てめえみてえな愛想も能力もねえ奴を養ってやるよりも、こっちの可愛げのある女を養うことに決めたんだよ!」
そう言ってオリンドは、今まで腕にしがみついていた女を抱き寄せる。若い女は酒臭そうなキスを喜んで受け、サンドラに勝ち誇ったような笑みを見せつける。
「左様ですか」
だがサンドラは、表情一つ変えずに頷いた。
「では、一週間頂戴いたします」
「あ?」
「指輪を二つ作成する、そして引き受けている仕事を片付けるのに一週間頂戴いたします。それが終わりましたら、ここから出て行きますので」
「ああ、そういうことか」
「ちなみに、結婚指輪の相場は一組で金貨一枚、あるいは銀貨五十枚となりますが」
「ああん?」
オリンドが凄んだ。
「てめえ、亭主から金をふんだくろうっていうのか?」
「ひどいわ、さすが旦那のお金で豪遊していただけのことはあるわね」
女も追随する。
使い古したシャツに、丈夫さが取り柄のエプロンとズボン。そして作業の邪魔にならないようポニーテールにしたぼさぼさの髪を見てそう言えるのだから、二人の目は節穴と言えよう。
「わかりました」
サンドラは淡々と答えた。
「お代は頂戴いたしません。ただし、一週間の準備は必ずいただきます」
オリンドが舌打ちする。
「チッ。さっさとやれよ、グズが」
それだけ言って踵を返そうとした彼に、
「指のサイズを図らせてはいただけないのですか?」
サンドラが言うと、オリンドは乱暴にカウンターテーブルへ自分の左手を叩きつけた。
「さっさとやれ!」
サンドラは刺繍糸をオリンドの左手薬指に巻き付ける。
それを外し、女にも促した。
「お嬢さんも」
「あら」
お嬢さんと呼ばれて気を良くしたのか、彼女は優雅そうな仕草で左手を差し出した。
「どうぞ」
オリンドと同じように指に糸を巻き付け、外す。
「ありがとうございます。指輪と住居の受け渡しは同日でよろしいですか?」
「それで結構よ。じゃ、とびきりのをよろしくねえ」
不機嫌なオリンドを連れ、女は上機嫌で家を後にした。
ドアが閉まり、たっぷり十秒待ってから、サンドラは息を吐き出した。
「……ふぅ」
それから、ふと気づく。
「……体が軽い」
心に乗っていた重しが取れたかのように、体が軽かった。それだけしんどかったのかと自嘲する。
元々、オリンドにあの手この手で結婚を迫られた末の生活だった。ろくに働かずサンドラの稼ぎで酒を飲む彼を叩き出すだけの余裕も解消もなかったから、名前も知らない女には感謝しかない。
「さて、看板を書き直さないと」
店の外には木の板で簡単に『彫金、修繕、承ります』と書かれた看板を立てかけている。
すぐにそれを回収し、何も書かれていない裏に『閉店のため、依頼をお断りいたします』と簡単に書いて再び外に出した。
それを終えたら、彫金仕事の再開だ。依頼品はぜんぶで三つ。指輪の制作に二日かかるし、荷造りもしなければならない。時間はそれほどなかった。
幸い、どれも難しい仕事ではない。
サンドラは再びバンダナで髪を覆った。




