ルア・アストレイ Ⅱ
【回想:研究所の日々】
―—年次不明。どこかの研究所。
「また逃げたぞ!!Lだ!」
「四棟へ急げ!」
「……はぁっ、はぁっ……」
(ふざけるな……! ワタシは……、
お前らの道具じゃない!!)
幼き日のルアは、暗く狭い通路を、全力で駆け抜けていた。
「チッ……、相変わらず、すばしっこいな……!」
「製造番号不明……コアも型落ち。問題行動だけは一人前。
……なんで所長は、スクラップにしちまわねぇんだか……」
「さあな。変な趣味でもあるんじゃねーの?」
職員たちの嘲笑——それが、最後だった。
「――ッ⁉」
パンッ、と乾いた音。
肩に熱が走り、ルアの視界が白く弾けた。
気づいたときには、
床がゆっくりと傾いていた。
(……く、そ……っ、また、私は……)
世界が、ブラックアウトする。
ルアが目を覚ます。そこは鉄格子の奥。
無機質な壁に囲まれた、狭い独房だった。おでこには、ビームライフルを掠めた傷が、微かに疼いていた。
「もう脱走したりするんじゃねえぞ。次は、禁固刑じゃ済まねえぞ?」
「いやぁ~。俺の射撃、見事だったろ?」
「ばーか。ガキ相手に、威張ってんじゃねえよ」
「……」
彼らの笑い声が、遠くなっていく。
その姿が消えた途端。緊張がほどけ、
グゥゥゥ……。
空腹警告のような音が鳴った。
(……おなか、すいた)
だが、食べ物は一切ない。
彼らが支給したのは、水とパンのみだった。
ジェムットの身体は、どれも完全な機械ではない。
生体ユニットを維持するため、最低限、特定のエネルギー摂取が必要だった。
ルアは空腹を我慢して、眠るしかなかった。
そして、
また目を覚ましたとき。
香ばしい、甘い匂いが——牢の中に漂っていた。
「……!」
そこにあったのは、小さな茶色い袋。
ルアはそれを急いで、開ける。
すると、中には……アップルパイが入っていた。
ルアの大好物。林檎パイ。
しかも、世界でも最高品質とされる、TA限定パイ。しかも、四つもだ。
「……だ、だれ、が……どうして……?」
思考がショートしそうになる。
思わず問いかけるが、答えは返ってこない。
ここでは、ジェムットを尊重する人間など存在しない。
(そうだ。……今日は、ルア"誕生日"——)
本当の生年月日なんて、誰も知らない。
ルアに関するデータは、最初から存在しなかった。
それでも、ひとりの研究員がくれた、
偽りのバースデーを——ルアはずっと心の奥に、大切にしまっていた。
(……もし、かして……)
ルアにとって、たったひとつの心の拠り所。
稀にルアのところにきて、なんでもない話をしていく。
それだけの男。
研究所では、変人とも囁かれていた人物。
それでも――
ルアを一人の少女として相手してくれた人間は、彼だけだった。
(……ルアがルアなのも……)
ふと、何かがにじんだ。
家族はいない。ジェムットとしても、普通じゃない。
マスターとも契約できない。
生を受けてこの方、ルアはそんな男の愛情しか知らなかった。
いや。愛情ですら、なかったのかもしれない。
ルアは、パイをそっと手に取ると、勢いよくかじった。
「……おい、しい……」
彼はもういない。
でも。
檻の中に置かれたアップルパイの横で、アビスの深い青の紅茶が湯気を立てていた。
水面に、薄い皮が、いくつも浮いている。
当時のルアの、小さくて、大切なこだわり。
アップルパイと、皮入り果実紅茶。
この閉じた場所で、そんな通な楽しみ方を教えたのは、誰だったか。
少女には、その体には、抗えぬ赤と青の香りがふわりと広がっていた。
「……なんでこんなに……甘くて……幸せの味がする……」
その頬に流れたのは、
作られたはずの体からこぼれた、偽りのない温度だった。
【 ワン! 】
そのときだった。
なにかの気配で、ルアは意識を引き戻された。野犬が、ルアに向かってしっぽを振っていた。
ルアは小さく息を吐いた。
「またお前か、ケルベロス」
薄汚い身なり。茶色い毛並み。
ただの犬だった。
登録も、管理もされていないが、ここでは珍しくもない。
「……これはルアのものだ。お前は、ちゃんとご飯をもらっているだろう」
「犬は気楽なものだ」
「……くぅ~ん」
「そんな顔をしてもダメだ」
野犬は、しばらくパイを見つめていた。
「……」
(ちっ……仕方のないやつめ)
ルアは少しだけパイを千切ると、野犬の前に置いた。
「それだけだぞ」
犬は尻尾をブンブンと振りながら、それを口にした。
(——あれからワタシも、随分と大人になった)
正確な年齢は、自分でもわからなかった。
でも、少なくとも……
もう、泣き虫じゃなくなった。
ワタシはもう、Lなんかじゃない。
一人でも、立派に戦えるようにもなった。
幾多の夜が、幼い少女を、戦士に変えた。
(それでも……)
ワタシはまだ、夢見てる。
"あのひと"が、言ってくれたように。
いつかワタシの、"本当の名"を、一緒に探してくれる――
マスターに出会える日を。
そのときこそ、ワタシは本当に――
この剣を、
未来へと向けられるだろう。
林檎の月に照らされて。
夜の公園は、都市の影で、淡く輝いていた。
少女と犬は、
たしかに今を生きていた。




