三丈の木、五十金の信
三丈の木、五十金の信
秦の都、櫟陽。
その南門の広場は、朝から異様な熱気と、それ以上の「嘲笑」に包まれていた。
「おい見ろよ、あれ」
「またお上が妙なことを始めたぞ」
土埃の舞う広場の中心に、一本の木が突き立てられている。
長さは三丈(約七メートル)。城壁の修理に使うような、太く長い丸太だ。
その傍らに、一枚の布告が掲げられている。
『この木を南門から北門へ移した者には、十金を与える』
十金。
庶民にとっては、家族が数年遊んで暮らせるだけの大金である。
ただ丸太を運ぶだけ。距離にして数里。男の足なら半刻もかからない。それで十金?
あまりにも馬鹿げていた。
「どうせ罠だろ」
人だかりの中で、誰かが唾を吐くように言った。
「十金なんて大嘘だ。運んだ瞬間に『木材泥棒』として捕まえて、兵役の代わりにする気だ」
「あるいは、運ばせた後に『そんな約束は知らん』としらばっくれるさ。いつものことだ」
戦国時代。
民衆は「言葉」を信じていなかった。
昨日の友が今日の敵になり、朝令暮改は当たり前。支配者たちは都合が悪くなれば約束を破り、税を搾り取る。
「信義」などというものは、書物の中だけの綺麗事だった。
そんな民衆の冷ややかな視線を、城門の楼上から見下ろす男がいた。
公孫鞅――後の商鞅である。
彼は無表情のまま、隣に控える部下に短く命じた。
「誰も動かぬか」
「はっ、左庶長(商鞅の役職)。皆、怪しんで遠巻きに見るばかりで……」
「想定通りだ。民は愚かではない。騙され続けてきたからこそ、賢しくなっているのだ」
商鞅の瞳には、冷徹な光が宿っていた。
彼はこれから、秦という国を根底から作り変える「変法(改革)」を行おうとしている。
だが、どれほど立派な法を作っても、民がそれを「どうせまた守られない」と思ってしまえば、ただの紙屑だ。
法を機能させるには、インクよりも先に必要なものがある。
それは「恐怖」に近いほどの「信用」だ。
「賞金を釣り上げろ」
商鞅は言った。
「五倍だ。五十金と書き直せ」
─────
「ご、五十金!?」
広場がどよめいた。
書き直された布告を見て、嘲笑は困惑と恐怖へと変わった。
五十金といえば、一生働いても手に入らない莫大な富だ。家を買い、田畑を買い、それでもお釣りがくる。
「狂ってやがる……」
「やっぱり罠だ。ただの丸太運びに五十金なんて、命の代金じゃなきゃ釣り合わねえ」
誰もが後ずさりする中で、一人の男が進み出た。
襤褸を纏った、痩せこけた男だった。名は、誰も知らない。ただその目は、貧困と絶望で血走っていた。
「……本当に、くれるんだな?」
男の声は震えていた。
役人は無言で頷く。
男は唾を飲み込むと、丸太に手をかけた。
ずしりと重い。だが、持てない重さではない。
「おい、やめとけ!」
「殺されるぞ!」
野次馬の制止を振り切り、男は丸太を肩に担ぎ上げた。
一歩、また一歩。
男が歩き出すと、数百人の群衆がその後をぞろぞろとついていく。
まるで処刑台へ向かう罪人を見送るような、奇妙な行進だった。
櫟陽のメインストリートを、丸太を担いだ男が行く。
汗が目に入る。
足が震える。
だが、男の頭には「五十金」という幻影だけが焼き付いている。
(これが手に入れば、病気の母に薬が買える。借金も返せる。俺の人生が変わる)
北門が見えた。
男は最後の力を振り絞り、丸太を地面に下ろした。
ドスン、という重い音が、乾いた土に響いた。
「はぁ……はぁ……運んだぞ……」
男はその場にへたり込んだ。
周囲を取り囲む群衆が、固唾を飲んで見守る。
すぐに槍を持った兵士たちが駆け寄ってきた。
「ほら見ろ! 捕まるぞ!」
民衆の誰かが叫んだ。やはり罠だったのだ。哀れな男は、見せしめに首を刎ねられるに違いない。
その時、兵士たちの列が割れ、一人の男が静かに歩み出た。
商鞅である。
彼は倒れ込んだ男の前に立つと、従者に合図をした。
従者が盆を持って進み出る。
その上には、夕陽を浴びて黄金色に輝く塊が積まれていた。
「約束の五十金だ。受け取れ」
商鞅の声は、冷たく、しかし明瞭だった。
男は震える手で金を受け取った。
本物の金だ。
ずっしりと重い、現実の富だ。
「え……あ、あ……」
男は言葉にならず、ただ地面に頭を擦り付けて泣いた。
静寂。
圧倒的な静寂が広場を支配した。
民衆たちは口を開けたまま、その光景を見つめていた。
嘘ではなかった。
お上が、約束を守った。
あんな馬鹿げた、子供の遊びのような約束を、本当に守ったのだ。
商鞅は男には目もくれず、呆然とする民衆の方を向いた。
そして、広場全体に響き渡る声で宣言した。
「聞け、秦の民よ!」
その声には、一切の感情がなかった。ただ、鋼鉄のような意志だけがあった。
「今日、私は一本の木を通して、汝らに一つの『理』を示した。私が言ったことは、必ず実行される。十金と言えば十金を与え、五十金と言えば五十金を与える。嘘はつかぬ。欺きはせぬ」
商鞅は一呼吸置き、鋭い視線で群衆を射抜いた。
「なれば、心して聞くがよい。これから私が発布する新しい法もまた、同じである。法を犯した者は、誰であろうと必ず罰する。功績を挙げた者は、誰であろうと必ず賞する。そこに例外はない。貴族だろうと王族だろうと、そして汝ら庶民だろうとだ。この五十金が本物であったように、私の法もまた、絶対の現実となる!」
民衆の背筋に、冷たい戦慄が走った。
彼らは理解したのだ。
目の前の男が与えたのは、単なる五十金という「褒美」ではない。
これから始まる、血も涙もないほどに公平で、冷酷なまでに厳格な「法治国家」の幕開けなのだと。
この日、秦の民衆は知った。
商鞅の言葉は、山よりも重いということを。
もはや、支配者の気まぐれで命運が決まる時代は終わった。
法という名の、冷徹な怪物が支配する時代が始まったのだ。
商鞅は踵を返し、城内へと戻っていく。
その背中は、これから彼自身が法によって裁かれ、身体を引き裂かれる未来が待っていることを知ってなお、微塵も揺らぐことはなかった。
(了)




