0日目 パン屋の娘は公爵令嬢になる
これはマーヤがまだ、王都で3番目に人気なパン屋の看板娘だった日の話。
「マーヤ、表で売るパンはそこにあるからね」
「はい、お母さん」
その日は目が痛いほどの秋晴れだったことを除けば、普段通り始まった。少なくともマーヤからすれば、その日がマーヤの日常を大きく変えてしまうなんて前兆は全然なかったと思う。
お腹のところでエプロンのリボンを結ぶ。表通りで売るパンをバッグに詰めて、肩からかける。バッグから漂うパンの香りが鼻をくすぐった。
「ひったくりに遭わないように気をつけなさいね」
「はい、おばさん」
うちの店の管理は母がしているけれど、従業員も雇っている。中でも今会話を交わしたおばさんは祖母の代からの古株で、かつては母に並んでそれはそれは愛くるしい看板娘だったと言う。
窓ガラスの反射で身だしなみを整え、結んだ赤髪に黄色いリボンを結ぶ。これで当代看板娘マーヤの完成だ。開店を知らせる鐘がなり扉が開くと、入ってくる客の間を縫ってマーヤは弾丸のように外に飛び出した。
「よお、マーヤちゃん今日も元気そうだね」
「ありがとうアーノルトさん、毎度あり!」
「おはようマーヤちゃん」
「おはようおじちゃん!」
働いている人の朝は早い。開店前から並んでいた客が、マーヤに次々と声をかける。アーノルトさんは近くの王立劇場の俳優だ。美声と演技力に定評があるらしいが…観に行くお金もないマーヤには関係のない話。
「おはようマーヤ」
「おはようルノー!」
ルノーは婚約者だ。将来一緒にパン屋を継ぐ、背が高くてかっこよくてスマートな人。私の父方の従兄弟でもある。
「今日の夕方空いてる?」
「図書館で調べ物したくて」
「暗くなるまでには帰ってこいよ」
婚約は私の母が取り決めた。母がいとなむカミーユ製パン所は王都でも有数の売り上げを誇るベーカリーだ。他人を経営陣に招き入れることを恐れた母の気持ちもわかるが、ルノーが騎士になりたかったことを知っているマーヤは少し複雑な気分である。
「わかってるって」
ルノーは今日、父の元で簿記を学ぶ。その背中を見送ってから仕事に行くために行き交う人々の間で、私は今日もパンを売る。
「焼きたてだよ!ほらそこのお姉ちゃん、腹が減っては仕事にならないよ!」
「がんばってるね。塩パンサンド2つ」
「毎度あり!」
王都には活気がある。経済活動も活発で、行き交う人の顔も明るい。マーヤはこの仕事が好きだった。
「焼きたて!焼きたてだよ!」
一方でマーヤは知っている。路地に一本入ればお腹を空かせた子供が獣のように目を光らせて、飢えと戦っていることを。社会から亡き者として扱われている貧しい人々が、実は表通りを歩く人よりもずっと多いことを。
マーヤはそれをどうこうしたいと思うほど傲慢ではない。力を持たないマーヤにはどうしようもないことだ。マーヤにできる唯一のことは、このはりぼての均衡を、何食わぬ顔で守り続けることだけ。
しかし。
「今年は不作らしいからなあ…」
今年の冬は厳しくなるぞ。マーヤの直感がそう警鐘を鳴らす。
「もし反乱が起きたらその時は、従業員連れて田舎にずらかるしかないかなっ!?!?」
「きゃっ!」
考え事をしていたせいで、迂闊に後ろに下がって誰かと激しく衝突する。
「すみません、大丈夫ですか?」
その後のことはあまりのショックにほとんど覚えていない。慌てて謝った相手が肩からパン入りバッグを下げた赤髪の「私」だったのだから仕方のないことだろう。確かにぶつかって痛かったが、お互いの魂が浮遊するほどとは思えない。しかしこのアクシデントで、私と衝突相手は確かに入れ替わってしまったのだ。
マーヤは他人の私室で、庶民には手も出ないフカフカな羽布団の中で回想する。
衝突相手は公爵令嬢ベルナデットを名乗った。お忍びで街に降りてきていたらしい。私もマーヤと名乗り、持ってきたパンを全て売ってくれと必死に頼んだ気がする。そして彼女も私に色々と、入れ替わりは聞かれない限り言うなとか、落ち着いたら会って解決策を探そうとか、無断で抜け出したことをこれから怒られるだろうからごめんとか、ちゃちゃっと義姉の婚約者を落としてくれとか言い募った。
そう、あの女どさくさに紛れてメチャクチャなことを頼んできた。
「私、王子と結婚したいの。でも王子は今義姉の婚約者。だからいずれ私たちが元通りになる日までに、二人の仲を切り裂いて、王子と婚約してちょうだい」
マーヤが見るに、(私の顔をした)ベルナデットはバカにも意地悪に見えなかった。それでも、とんでもないことをさらっと言ってのけた彼女は、何がおかしいと言わんばかりに首を傾げた。
そして、驚きと困惑で言葉もない私は、そう時間も経たないうちにベルナデットの侍従を名乗る人物に首根っこを掴まれ、行ったことどころか見たこともない公爵邸に帰宅することとなったのだ。
ご都合主義な世界なのか、入れ替わった瞬間からマーヤはベルナデットが知っていることを知っていた。そのおかげでマーヤは、その日の夜の夜会も、翌日のお茶会も、公爵令嬢ベルナデットとして乗り切ったわけなのだが。
入れ替わり2日目に義姉と王子の仲良し具合を見たマーヤは、知恵熱を出して寝込んでいた。
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