3.白墨(チョーク)の絵
3.白墨の絵
探偵の助手に茶泉珠子博士が、横溝ゼミの志村豊と谷山緑郎を推薦した。
「SLで歴史を教えておられたと聞きましたが、教官の専門はなんですか?」
挨拶もそこそこに志村がアンダーリムの眼鏡を正しながら長藻に問いかけた。研究室に向かうポニーテール美女の黒髪が揺れる。
SLは米国マサチューセッツ州ボストン市近郊にあるセントルーシー大学の略称で、横溝博士が所属する聖ルチア大学の姉妹校だ。同じ聖公会である両校の名称は、聖人シラクサのルチアに由来する。
「東アジアの思想だよ。けれど教官はやめてくれ。教えていたのは三月にも満たないし、そもそもわたしは大学を出ていない。――珠子さんに頼まれて臨時で教えただけだよ」
「理事長に……。それでも単位を与えるほどの学識があるのでしょう? 尊敬に値します」
「志村さんは博士課程だっけ?」
「はい。D2(博士課程二年生)です。――豊とお呼びください。十八歳独身です」
ふつうD2なら、二十五歳になっている計算だ。
(どこにでも天才はいる……にしても、どうして胸を強調する?)
幼女のような茶泉珠子と違って、志村豊は見事なプロポーションだった。もっとも研究者らしく口紅さえしていない。
「ということは高卒ですか?」
「ちゃちゃいれない。この未熟者が」
緑髪の谷山のつっこみに、志村が言い返した。とはいえ一つ下の谷山もM1(修士課程一年生)なので三年ぶん差があるが、志村が言うほど未熟者ではない。
「そうなる。……茶泉学院を中退したから関係者には違いないけれど」
関係者だからこそ公表できないことを長藻秋詠が処理していた。そもそも接触型高次元通信機構なるものを理解できる人物は多くない。ましてや生き返ったなどという話を公表できる訳がない。
「じゃあいちおう母校ですね」
谷山が安易に共感を求めた。
聖ルチア大学と茶泉学院大学は同じ学校法人が運営している。
「卒業していないから母校ではないよ」
「あなた、すべてにおいて扱いが雑。それだから芳しくない(進捗になる)のよ」
同じ天才といっても越えられない壁があるのだろう。
「園司書も言っておられたわ。『一冊でも本を書いたなら、司書はその人を先生と呼ぶ』と。それが学術の矜持よ」
志村の長藻について評価が高いのは、卒業単位にならないのに横溝博士の科目を履修していたことを聞いたからだろう。また敬愛する茶泉博士の推薦ともなれば好意的にもなる。
横溝博士の研究室のセキュリティに、志村が学生証をかざした。
電磁ロックを解除して中に入る。
センサーが反応して、室内が照らされた。
雑多な資料と機材が並んでいた――が、一瞬まぶしく光ると照明すべてが切れてしまった。
「パウリ効果だ……」
暗闇のなか長藻秋詠が呟いた。
「クッ!」
これには志村も失笑してしまった。
「見てきて」
ゼミでは先輩にあたる志村が、入口に近い谷山に命じた。
パウリ効果は物理学の古典ジョークだ。理論物理学者ヴォルフガング・パウリは実験ミスが多く、機械をすぐに壊していた。そのうち触れただけでも壊れるようになり、果ては近くにいたら壊れるとまで言われるようになってしまった。
なお、カール・グスタフ・ユングの共時性という意味のある偶然の一致を指す概念と親和性がある。因果関係のない事象が、心理的・象徴的に関連するとされる。たとえば、夢に見たことが現実で起こる、虫の知らせといった良くない予感が実現してしまうなど、個人が世界と、内面が外界と共鳴する現象だ。
長藻秋詠はパウリ効果とユングの集合的無意識は、共時性だけでなく、因果律にも影響されているとした書籍を執筆している。
「完全に短絡していますね。ブレーカを立ち上げてもダメです」
懐中電灯を手にした谷山が帰ってきた。
「まあ、因果律共時性だから〝そうならないほうが不思議〟なんだけれど」
因果律共時性は因果律共時性を組み合わせた単語だ。
「はい、どうぞ」
点灯させて、二人に渡した。
「マッチ箱ならあるかもしれませんね」
「絶望的……」
楽観的な谷山に対して、現実的な志村が反論した。
「……あなたもしかして」
「そういうことか……」
志村の疑問に、長藻が答えを出した。
「えっ? なんですか?」
「あなた徳用マッチを探しているんじゃあないでしょうね?」
「徳用マッチ?」
「大きなほうのマッチ箱」
「えっ? マッチ箱って手のひらサイズでしょう? あれより大きなものなんですか? ヒトの頭くらいですか?」
「せめてバケツ大とか言いなさいよ。指二本分くらいの箱よ。映画で観たことあるでしょうに」
「僕、アニメしか観ないんで」
「昔のアニメにもあったわよ。――『カウボーイビバップ』って知らない?」
志村が小さな物を投げていった。
「さあ……。コレ? かなあ……」
ロゴに「R」の文字をあしらったマッチを谷山が見せた。
「それ紙マッチ。ホンモノのマッチ」
志村が見たが否定した。
「ふーん」
谷山が紙マッチをめくった。
「うわっ!」
「何!」
「いやあの……この絵」
「ああ、魔除けだよ。〈Relaxin'(リラクシン)神戸〉の」
裏には恐ろしい顔が描かれていた。長藻によると、広東料理とライヴジャズの店〈Relaxin'(リラクシン)神戸〉のマッチで、常連の神戸中央美術博物館の平橋之尚館長による意匠とのこと。魔除けの絵は、どこかの神らしい。
「平橋さんも忘れたと言っていたから、もう誰も知らない」
「(画像)検索をかければいいだけでしょう?」
「止めておきなさい。後悔するわよ」
「どうして?」
「ある線を越えない限り、知る必要がないから。知った時には砂の線になる」
谷山の質問に志村が返した。
火の神か道祖神だろうとは予測した志村だったが、何か良くない予感がしたのだ。
「砂の線とはまた言い得て妙だな」
「……あった」
谷山がライトを近づけた。
それは本当にマッチ箱で、サンセリフ書体Futuraで「Digital Drive」と書かれていた。
志村が箱を振ると、カラカラ鳴った。中に何か入っているらしい。
それは一片のヒトの手の末節骨だった。
次の瞬間、照明が点灯した。
黒板には白墨で魔除けの絵が描かれていた。
〈参考文献/その他〉
○『カウボーイビバップ』(一九九八年)
○神林長平『戦闘妖精・雪風(改)』(早川書房、二〇一三年)
〝「人間の直観は」(中略)「精密ではないが正確だよ。めったに故障しない」〟(pp.41−42)