4. 九州レインボー
かつて、九州福岡の地には、福岡ソルジャースというチームがあった。
昭和30年代の前半、3年連続で日本シリーズで東京ジェネラルスに勝利して日本一になるという栄光の記録を持つ。
が、昭和40年代.球界を揺るがした、八百長に関連する黒い霧事件の震源元球団となった時期から弱小球団となっていき、経営難による二度の親会社の変遷を経て、昭和54年に福岡ソルジャースは、東京、埼玉県に路線を持つ鉄道を基幹とするグループに買収された。
以後10年間、福岡市を本拠地とするプロ野球球団は存在しなかった。
平成初頭、スーパーマーケットから始まった巨大企業グループがプロ野球の経営を志し、その時プロ野球球団空白地となっていた福岡市を本拠とした新球団、九州レインボーを誕生させ、球団創設に合わせて福岡にドーム球場を建設した。
九州レインボーは、その時点で、福岡ソルジャースを買収することによって10年前に誕生した埼玉レッドアローズの、人事編成権を持つ球団管理部長として辣腕を振るい、同球団をその時点では東京ジェネラルスをも凌ぐ強豪チームに育てあげた根岸を球団代表として招聘した。
編成の全権を委ねられた根岸は、その豊富な資金力をも駆使して、年を経るにつれ新球団に、ネームバリューのある選手を集めていった。
が、埼玉レッドアローズが球団結成4年目で日本一になったのと比較すれば、九州レインボーはその年数を経てもリーグ優勝にも縁遠かった。
根岸は、九州レインボー結成以来、ひとつの念願があった。
それはこの球団に、東京ジェネラルスのYM砲の一方の雄、楊を監督として迎えたいということであった。
楊は40歳代のとき、東京ジェネラルスの監督を5年間務め1度リーグ優勝を果たしたが、それは日本一のホームランバッターが、東京ジェネラルスを指揮したにしては物足りないものであったが、その時期は他ならぬ根岸が作り上げていた埼玉レッドアローズが、時代を担う強豪チームとしての地歩を固めていた時期とも重なっていた。
根岸は、楊についてはその人間としての品格、野球に対する識見を高く評価していた。
そして何よりその記録において、日本のプロ野球が生んだ最高のバッターであるという威風。
九州レインボーを、楊に相応しい戦力を整えたチームに作り上げて、その指揮を委ねる。
それが根岸の念願であった。
栄光の東京ジェネラルス、その黄金時代を担った日本のプロ野球の歴史上最高のスターであるYM砲。
楊は監督としても東京ジェネラルス以外のユニホームを着るなどということは想像外のことであった。
9年連続日本一を成し遂げた翌年に引退して、すぐに監督となった東山が6年間監督を務め、その間2度のリーグ優勝を果たすも日本一にはなれず、当時の東京ジェネラルスにおいては不本意な成績として実質的に解任されたあと、
東京ジェネラルスの監督は、福田(3年間)、楊(5年間)、福田(4年間)を経たあと、再び東山に委ねられた。
選手としての記録では、東山さんにはっきりと差をつけていたのに、YM砲とうたわれても、現役時代、人気の面では東山さんには勝てなかった。
ジェネラルスが監督として再び選んだのは、やっぱり東山さんだったか。
楊はそのことに一抹の寂しさを感じた。
もう私がジェネラルスのユニホームを着ることはない。
楊は50歳代の半ばになっていた。楊はおのれの中にまだ燃えるものがあることを感じた。
楊はついに根岸の要請に応じた。
楊が新監督となった時点では、九州レインボーはまだその戦力は整っていなかった。
楊は自分は指揮者として、奇策や奇襲をかける。そういうタイプではない、ということが分かっていた。
自分は他に圧する戦力を持ち王道の野球を志向する。それこそ自分が指揮するに相応しい球団である。
そのことは根岸も充分に理解していた。
楊を監督に迎えたからには、彼が指揮するに相応しい戦力を揃える。
根岸は、埼玉レッドアローズ時代を担った投打のスター、須藤、秋本をトレードで獲得した。
そしてこの時期、ドラフトに希望枠という制度が実施され、ドラフト1位クラスの選手であれば希望する球団に入団できたことを利用して、
大窪、樋口、城野といった学生野球の大物を入団させることに成功した。
さらには社会人野球経由で、のちに三冠王となる杉永も獲得。
のちに、20勝3敗、10勝7敗、16勝1敗、18勝5
敗と続く4シーズンを記録した、192cmのスーパーエース、皆藤も入団した。
また投手についても、力量を持つ選手を着実に獲得していった。
東京ジェネラルスが9年連続日本一になったときも、そのチームに長距離打者は、楊と東山のみ。
堀口というエースはいたが、皆藤ほどの圧倒的な数シーズンを記録したことはない。
須藤、やや時を経て皆藤を中心に充実した投手陣。
秋本、大窪、樋口、城野、杉永という長距離バッターがずらりと揃った打線。
楊が理想とするチームがついに誕生した。
このメンバーの充実ぶりは、V9の東京ジェネラルスのメンバーを遥かに凌駕する。
その時期と前後して九州レインボーを誕生させた親会社は経営が悪化して、球団を手放した。
が、情報産業において、一代で巨大企業を築きあげた立志伝中の人物が九州レインボーの経営を引き継いだ
「私は、楊さんの大ファンであり、野球少年なのです」
選手獲得のために、前の親会社にも勝る潤沢な資金が用意されていたのである。
楊が理想とするチームの完成。
日本一にもなった。
がそれを継続することはできなかった。
その時期に始まった日本シリーズ出場のためのポストシーズンでの戦いに、何故か九州レインボーは弱かったのである。
そして、理想のメンバーを揃えたはずの九州レインボーの中で、須藤はその時期の前にジェネラルスに移籍し、
秋本は引退した。
皆藤は奇跡的な4シーズンを記録したあと故障により、翌年6勝3敗の成績を残しただけで、その選手生命を終えた。通算79勝23敗。
さらに、樋口、城野はメジャーに移籍し、大窪は、前の親会社が最終年だったときに東京ジェネラルスに無償トレードされた。
楊の理想とするチームは、ごく短期間で崩壊した。
しかし理想ではなくても、その豊富な資金力により、一定レベル以上の戦力は常に整えられた。
楊は九州レインボーの監督を14年務め、68歳で現場を離れ、球団の最高責任者となった。
監督の座は、秋本、須藤と受け継がれ、スターではなかったがコーチ能力を評価された藤井を経て
今シーズンから大窪となった。
21世紀となってからの歳月を総合して見れば、
九州レインボーは最も優勝回数の多い球団である。