3. 関西ナイツ
関西ナイツの親会社は、京阪神に路線を持つ関西地方では最大の私鉄大手、関西急行鉄道。略して関急である。
関西ナイツは摂津ペガサスと並んで、東京ジェネラルスに次いで職業野球の創成期に誕生した由緒ある球団である。
その本拠地西宮球場は、ニューヨークのヤンキースタジアムをモデルとした風格のある外観を持った球場であった。
球団創成期には、職業野球が実質的に始まる以前は、日本における野球の最高峰であった東京六大学野球のスター。
国内の野球ファンを熱狂させた早慶戦の一方の立役者、
慶應の強打者、宮武三郎、山下実の獲得に成功した。
だがその時点では既に30歳間近であった宮武、山下は、職業野球においてはかつての大スターに相応しい成績を残すことはできなかった。
中等野球で活躍して
東京ジェネラルスに入団した沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、川上哲治、吉原正喜。
摂津ペガサスに入団した景浦將(立教大学中退)、藤村富美男、土井垣武は、
それぞれのチームにおいて主軸選手として活躍した。
戦前、1リーグ時代の職業野球界において、東京ジェネラルスと摂津ペガサスは毎年のように優勝を争った。
ジェネラルスとペガサスは、戦前の職業野球において二大強豪チームとなり、その対戦は職業野球を代表する看板カードとなった。
戦後、昭和25年にプロ野球と称されるようになった職業野球が二リーグに分裂した際、摂津ペガサスはその看板カードの継続を最大の理由として、東京ジェネラルスが中心となって結成したナショナルリーグに加盟したのであった。
東京ジェネラルス、摂津ペガサスと同様、創成期からの伝統ある球団、関西ナイツは人気球団とはなれなかった。
戦前も、そして戦後、二リーグとなった際に関西ナイツが加盟したジャパンリーグは、リーグ自体に人気がなかった。
が、そのジャパンリーグの中でも、大阪ファルコンズ、福岡ソルジャースは強豪チームとなり、優勝を争うその両チームの対戦は満員の観衆を集めるというようなこともあった。
しかし関西ナイツは、万年Bクラス。優勝争いにも人気にも縁がなく、灰色の球団などとも揶揄された。
昭和40年代になってようやく、名将岸本監督の熱血的な指揮のもと、5度のリーグ優勝を果たした。東京ジェネラルスが9年連続日本一になった時代である。
関西ナイツは日本シリーズで五たび、ことごとく東京ジェネラルスに敗れた。
昭和50年代の初頭、関西ナイツは3年連続日本一となった。
2連覇目、3連覇目の日本シリーズでの対戦相手は東京ジェネラルスだった。
そのとき、関西ナイツはついに日本一の実力チームとなったのであった。
強豪チームとなった関西ナイツ。
しかし、それでも人気球団とはなれなかった。
もう長きにわたって優勝とはまったく縁がなかった摂津ペガサスは、概ねこの時期にどんどん観衆を集めるようになり、さらなる人気球団となっていったのであった。
昭和が終わろうとする頃、関西ナイツの親会社、関急グループは業績面で悪化しており、赤字球団である関西ナイツの存在は経営面で大きな負担となり、経営陣の中で関西ナイツの身売りを画策する大きな動きがあった。
だが関急にはその創業者小泉一蔵の
「経営がどんなに苦しくなっても宝塚歌劇団と関西ナイツだけは手放すな」
という遺訓があった。
結局この遺訓は守られた。
関急グループ経営陣は長い議論の末、グループのシンボルとして関西ナイツを維持し続けたのである。
経済の論理、採算性を重視し、グループ全体のために関西ナイツを手放すべきと主張する経営層の総意に対して、その時のグループのトップ、最高経営責任者は、
「経済性の論理に抗ってでも関急には守らなければならない文化がある。それが関急の一員であることの誇りだ」
と、関西ナイツの維持を決断したのであった。
今、ジャパンリーグもかつてとは異なり多くのファンを集めるようになった。
関西ナイツも摂津ペガサスには及ばないとはいえ、かつてとは比べものにならないほどのあらゆる年代に、男女を問わずチームを愛する多くのファンがいる。
苦しくてもあのとき球団を手放さなくて良かった。
それは今、関急グループに関係する誰もが感慨深く思うことであった。
人気球団ではなくても、関西ナイツは積み重ねてきた球団の歴史を大切にした。
1番 宮武三郎
2番 山下実
3番 広池
7番 徳本
10番 武藤
11番 伊藤
16番 安宅、滝
17番 松田
18番 米山
25番 スペンス
30番 浜口
33番 梶原
50番 岸本
殿堂入りした、あるいは殿堂入りには至らなくとも昭和40年代から50年代にかけて、関西ナイツが強豪チームであったときの主力選手の背番号を永久欠番にした。
3年前から昨シーズンにかけて関西ナイツは3年連続リーグ優勝を果たし、その2連覇目には日本一になった。