2. 摂津ペガサス
監督か。
深澤は心の中で、その言葉を噛み締めた。
俺が監督になるのか。それも名門、摂津ペガサスの監督に。
決して順風満帆の野球人生ではなかった。
高校時代、甲子園に出場したことはある。
がそれは下級生で控え投手だったとき。
最上級生、エースとなった年は甲子園出場を叶えることはできなかった。
その俺が摂津ペガサスにドラフト1位で指名されたときは驚いた。
だが大きな希望を抱いて入団しても何年も目が出なかった。
ドラフト1位での入団だっただけに期待外れと、失望され揶揄された。
ようやく一軍のマウンドで登板する機会を得たが、先発しても早いイニングでノックアウトされることを繰り返した。
イニングを重ねるにつれて球威が目に見えて落ちていく。
どうやら俺は本質的な部分で、スタミナに問題があるらしい。どんなにトレーニングに励んでもそのことを改善することはできなかった。
転機は入団して6年目、当時の投手コーチの進言もあって中継ぎに専念してから。
1イニング限定、そのイニングのみにおのれの力の全てを解放する。
西暦2000年代に摂津ペガサスがリーグ優勝を果たした年、当時の監督尾形は勝ち試合については、最終盤の7回を深澤、8回をジェニングス、9回を久保に、1イニングずつ任せた。このトリオはケネディ大統領の頭文字をもじってJFKと呼ばれた。
JFKの活躍はその年のリーグ優勝の大きな要因となったのであった。
そして深澤は翌年以降、中継ぎではなくクローザーを任せられることになる。
以降、深澤は全盛期となる。
そのストレートは浮き上がっているのではないかと言われるほどに伸びがあり、
深澤と対戦経験のある多くのバッターが、
自身が対戦した中でそのストレートが最も凄かったのは深澤と証言していた。
その奪三振率が13.5を超える。すなわち三振がアウトの半分を超えたシーズンもあったし、連続セーブ試合等多くの記録を残した。
全盛期、深澤はメジャーに行くことを熱望しシーズンが終了するたびに、球団にその希望を伝えた。だが摂津ペガサスは、それを認めなかった。
深澤の希望がようやく叶ってメジャーに移籍したとき、深澤は30歳を超えておりその全盛期を過ぎていた。
深澤はメジャーでは自身が願っていたほどの活躍はできず、数年後日本に戻った。
戻った年は故郷の独立リーグのチームに入団し、無報酬で登板した。
その翌年、深澤は摂津ペガサスに再入国し、主に中継ぎ投手を務めて数年後に引退した。
摂津ペガサスは、昨シーズン38年ぶりに日本一になった。
が、球団創設以来、厳密に言えば二リーグ分裂以降初の連覇を目指した今シーズンは2位に終わった。
摂津ペガサスという球団に対するファンの愛着、熱狂度は凄まじい。
摂津ペガサスの球団史は、幾度かの黄金時代を持ち、昭和40年代には9年連続日本一という信じられないような記録を残している東京ジェネラルスとはかなり異なる。東京ジェネラルス同様、職業野球の創成期から存在した伝統ある球団であるが、昭和25年の2リーグ分裂後、間もなく80年の時が経過しようとしているが、リーグ優勝は6回、日本一になったのは2回だけである。
そのレベルの実績でありながら、摂津ペガサスは球界屈指の人気球団なのであった。
昭和40年代あたりまでは、甲子園球場が満員になるのは対東京ジェネラルス戦のみ。他のチームとの試合であれば空席は多かった。
近隣の小学生は、ペガサス子どもの会に入れば、ジェネラルズ戦以外は外野席に無料で入れたのである。
その頃は巨大メディアを親会社に持ち、全試合がテレビで全国放送されていた東京ジェネラルスとは人気の面で大きな差があった。
がいかなるメカニズムが働いたのか、それ以降の時代の中で、摂津ペガサスはどんなに負けてもファンからは愛され続ける。関西人特有のセンスに合うのか、決して常勝球団ではないことによって、出来の悪い息子が「しゃあないやいっちゃなあ」
と言われながらも愛されるような感覚で、愛され続けてきたのであった。
今では、東京ジェネラルスを凌ぐ、観客動員数日本一の球団なのでありほぼ毎試合、満員の観客を集めていた。
深澤は、おのれの人生の来し方をあらためて思った。
幼少期に父がいなくなり、母を楽にさせたい、そんな気持ちが大きくて頑張ってきた。
引退後は現場を離れ解説の仕事に励んできた。
ユーチューブもやったし、ピッチングの技術書など著作も出版した。
いずれの仕事も、丁寧で分かりやすいと高く評価してもらえている。
そして、ついに自分が育った球団、摂津ペガサスの監督になった。
今の摂津ペガサスに、球界を代表するような実績を持つスーパースターはいない。もっともそのようやスーパースターが出現したら、その選手はほぼ例外なくメジャーを志向するのが今の時代だから、スーパースター不在というのは、 摂津ペガサスに限らず、他の球団もほぼ同様。
その中で、摂津ペガサスの主力選手たちの平均年齢は若い。そのまだまだ伸びしろのある選手たちが昨年、38年ぶりの日本一になった。
しかし、今シーズンは2位。
宿敵東京ペガサスの後塵を拝し、クライマックスシリーズでは横浜クルーザースに敗れた。
摂津ペガサスの強さはまだまだ定着してはいなかったということだ。
監督として自分は何をなすべきか。どんな夢を描いてみようか。
今や日本一とも言い得る人気球団である摂津ペガサス。
が親会社である摂津電鉄は大阪と神戸、阪神間のみを走る私鉄。人口稠密な地域ではあっても、その総路線距離は短く、決して巨大企業ではない。
資金力には限界がある。
その摂津電鉄グループの中で、超人気球団である摂津ペガサスはグループ内の超優良部門。
かつて親会社の摂津電鉄で、
「優勝なんかしなくてもいい。ペガサスが勝とうが負けようが、甲子園は満員になるのだから。
優勝なんかしたら給料を上げないといけないからな」
トップに近い経営人の中にそんな発言をした人物がいたらしい。
が優良部門であるだけに、摂津電鉄グループ内で摂津ペガサスの発言力は高まり、摂津ペガサスの球団代表は、昔とは異なり、グループ内においても将来のトップ候補で、野球に関しても見識を持つ人物が務めるようになった。
そして今の主力選手たちは、昨シーズン日本一を達成したという貴重な成功体験がある。
俺が描く夢はこの伝統ある人気球団が積み上げてきたその長い歴史の中で一度も経験のないこと。
長期にわたって勝ち続けること。覇権を掴み続けること。
真の黄金時代をこの球団にもたらすこと。
摂津ペガサスダイナスティ(王朝)。