第八章
すると枢機卿は青ざめて、隣席の二人に断った。
「わ、我は遠慮しておく。後はお二方に裁判の続行をお任せしたい」
「あれ? なぜ仰らないのですか」
メルリンがふざけた調子で訝しがる。
「なぜあなた方が、いちいち〝魔女のメルリン〟と回りくどい呼称をするのか。理由は簡単です。そちらの枢機卿の姓もメルリンだからですよ。彼が、おれを魔女として名指しできないわけをお教えしましょう。――怖いのです。一言一句同じでなくとも、類似した台詞を吐くのが」
屋内の空気が張り詰めていくのは、聴衆も肌でわかるほどだった。
「悪魔との契約においては、たとえば特定の文言を発声するまでを期限として、魂と引き換えに異能を会得したりもします。おれは絶壁から転落した際に頭を打って記憶を失っていましたが、十数年前の事件の折、思い出すことができたのです。彼らが締結した言霊を」
「ほう、なんと?」
「普段ならば絶対に口外することのないものです。〝この我、メルリンこそが魔女である〟と」
裁判官に訊かれて回答したメルリンに、観客はどっと笑声を浴びせかけた。
「わははははっ。まさかそれを自白だとして、枢機卿を魔女呼ばわりするわけではあるまいな」
裁判官が嘲笑うと、大司教も苦笑いで同調した。
「ふむ、仰ってみてくれませんかなメルリン枢機卿。もちろん魔女扱いなどしませんから」
挑むような態度で、裁判官は付け加える。
「それで何事もなければ貴様の妄想も終演だな」
「如何いたしますかな、メルリン枢機卿」
半笑いのまま大司教が上半身を傾けて、枢機卿の顔を覗く。
魔女のメルリンはそこで異変に気付いた。メルリン枢機卿の唇が、微かに動いていたのである。
「……〝九つの天に帰れ〟……〝偉大なるアルファの命により〟……」
「なんと仰いました?」
不吉な囁きは大司教の耳にも届き、彼は思わず問い直した。
「……〝退去せよ〟……〝退去せよ〟」
その場にさほど不自然ではない文句に、メルリン枢機卿が声量を大きくする。それが耳に届いた大司教が、釈然としない様子ながらも魔女メルリンに言い渡した。
「聞いたか、枢機卿は下がれと――」
「みんな伏せろ!」
魔女が警告した刹那だった。
「イョ ザティ ザティ アバティ!」
宣告しながら悠然と直立したメルリン枢機卿は、袖口から小瓶を取り出し、足元に叩きつけたのだ。
ガラスの割れる音。
突風のようなものが、魔女メルリンを襲った。身体が軽々と持ち上げられ、数歩ぶんも後方に吹き飛ばされる。
〝小瓶の悪魔〟だ。契約によらず悪魔を瓶に捕獲して、解放を条件に使役するという。
何者かが魔女メルリンの脇を掠め、遠ざかっていく。
なんとか上体を起こした魔女は、フードが脱げていた。彼は、額に傷のある青年だった。不幸中の幸いか、さっきの衝撃で腕の縛めも解けている。
魔女メルリンが審問所内を見回すと、彼以外の全員が、血の気の失せた顔で痙攣していた。
「栄光の手か!」
通常ならば、日没以降でなくては行使できない魔術である。魔女のメルリンは、枢機卿が未だに蠅の王の威を借りていると直感した。
「心配は要りません、じきに解けます」
被害者たちを励まし、彼は枢機卿を追った。