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高き館の王の書  作者: 碧美安紗奈
第一部
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第五章

 エリファス――アルフォンスは、対立する教会の信徒に弱みを見せたくないがために隠していた、過去の記憶の大部分を失っていた事実と、今しがた回想したものを話した。

 自分でも信じがたかったが、そいつはもはや鮮明な映像となって、彼の脳裏に焼きついていたのである。


 暴かれた真実に対する驚愕の間をおいて、リフカはようやく声を発した。

「タリタ、クミ。イエスが、亡くなった少女を生き返らせるときに唱えた言霊ね」


「ああ、まずはあの子、ラナを蘇生させて、それから妻とオードネルを……」


「思い出されましたか」

 アルフォンスの背後で、いつからかそこに立っていたオードネルが囁いた。


「……なぜ、教えてくれなかったんだ」

 振り返りつつ問うた本当の主人に、オードネルは神父に懺悔するかのようにして、俯きながら告白した。

「……あの夜、家に忍び込んだ盗賊に襲われたわしたちは、死線を彷徨っていました。ところがいきなりにして、無傷で覚醒したのです。そのときにはもう、ここにはわしたちしかいませんでした。

 そして後にあなた様の書斎から、わしたちを蘇生させるためにある業を完成させたという記述を見出したのです。それによれば、魔術書を用いれば目的は達成できるものの、引き換えに記憶を失われるとのことでした」

 懐から一冊の本を取り出したオードネルは、大切そうに両手で持って差し出してきた。


「これが、『高き館の王の書』です」


 そいつは銀の刺繍で〝|Sefer Baal-Zebul《セファー・バアル=ゼブル》〟と表紙に題され、煌びやかな装飾が鏤められた蔵書だった。


 中央にはコイン大の三日月の紋章がある。浮き彫りの裏に仕込まれた銀製の物体が、月の満ち欠けに応じて表面に透かす面積を変化させることで移ろう、魔術的な施しだ。

 満月から新月へ、新月から満月へ、反復する永遠のサイクル。月に象徴される再生力や女神たちの産む性としての女性的な影響力を受けて、傷ついた生命を完治させる魔術書。


「高き館の王を発明する方法が閃いたとは以前耳にしていました。しかし、あなた様は実際に著することは恐れておられた。日記の文字も乱れていましたし、よほどの覚悟をなさったのだろうと想像しました。

 そんなものを創ってしまったことをいきなり思い出せば、心の負担になるかもしれないとも考えたのです。ですから、もしあなた様を発見できたなら、急激に記憶を取り戻すことのないよう、配慮するつもりでした」


 そうだったのだ。『高き館の王の書』の作製法を編み出したとき、アルフォンスは自らに禁忌を課したのである。

 理論上はベルゼブブから魔力を借用するだけの需品だが、何事にも不確定要素はある。ともすれば悪魔を解き放ち、自然界の法則を覆しかねない書物に物怖じし、それを創らないことを決めていたのだった。


「何度か探しにも出ましたが手掛かりはなく、やがて捜索の手段も尽きると、ご主人様が自然と帰ってきてくださることに望みを託すようになったのです。

 できれば書の詳細を抜きにして、わしたちのことだけでも思い起こして頂ければと願っていたのですが。もし何も憶えていなかったとしても、なるべく長くあなた様をお引き止めして、僅かずつでも記憶が戻るようお手伝いをさせて頂くつもりでした。今回のような事態も想定はして対処するために合図を考案しておりましたが、まさかこの本を求めておいでになるとは……」


 合図とはおそらく、ロレインたちがいた部屋に入るときに彼が施行した、特徴的なノックだろう。


「そうだったのか」

 全ての事情が白日の下に晒されると、アルフォンスは感謝を込めて、召使の肩に手を置いた。

「おれなら平気だよ。長い間、待たせてすまなかったな」


「アルフォンス様……」

 濁った声を発して、オードネルは泣き崩れた。

 その後ろではリフカが、なぜだか不満そうに再会を見守っていた。


 居間ではロレインとラナが、最初に客人が訪れたときと同じように腰掛けていたが、男たちが帰還すると、彼らの晴れやかな面持ちから状況を察したらしかった。


「今、帰ったぞ」

 アルフォンスが言明するや、ラナは満面の笑みを咲かせた。椅子を飛び降り、嬉々として父親に駆け寄る。

「あぁ、お父さん! ラナよ、憶えてるよね」

「忘れるもんか、懐かしむのに手間取っただけさ。大きくなったなあ、ラナ」

 父親は愛娘を抱き上げて、耳元でそっと囁いた。そのまま華奢な肩越しに、妻へと優しく微笑みかける。


 涙ぐみながらロレインも立ち上がり、夫婦は

互いに歩み寄ると、ここに再び一つとなった。

「ロレイン、憶えていたよ。君を愛していることを」

「わたくしもよ、大切なあなた。お帰りなさい」

 娘を挟んで父と母は抱擁を交わし、どちらともなく口付けた。家族という肖像は三人の輪となって、幸福の舞踏を表現しているようだった。

 開け放たれたままの扉の前では、オードネルが嬉しそうに親子を祝福していたが、彼の陰で廊下に立つリフカは、未だ複雑そうな心境を顔に表していた。



「おまえ、なにかおかしくないかリフカ」

 玄関で、魔術書と教皇庁へ宛てた書簡をリフカに渡しながら、その手紙をしたためたアルフォンスは指摘した。

 しかしギリシャ正教徒は何食わぬ顔で手紙を懐に入れると、書物を大事そうに抱いて口を開いた。

「そう? 別に変わらないつもりだけど」

「なんだよ、嫉妬かおい」

 からかうようにアルフォンスが修道女を肘で小突くと、リフカは引き攣った笑顔ながら額に青筋を立てた。

「そういうバカなことをするなら怒るわよ。……強いて言うなら」

 そこでひとつ咳払いをして、ユダヤ人は真顔になり、本を掲げて提言する。

「これはいいの? しかるべき場所で活用すれば、富も名声も得られるでしょうに」


 魔女も真剣な顔付きとなり、頭を振って拒んだ。

「……遠慮しておくよ、『高き館の王の書』には蠅の王の威を借りてる。自分の過ちだが、それはまた事実でもある。証拠を隠滅するような焼却はやめて、東方と西方の共同の下で教訓として保管したほうがいい。

 本来ならベルゼブブは、呼び出すことすら常人には不可能なんだ。そいつをもってしても使役できるわけではなく、冥府を短時間だけ欺き、反動で溢れた魔力を流用するに過ぎないはずだった。なぜ蠅の王が復活したかは不明だが、本を適切に封印すれば充分だ。奴は再び冥府に捕縛される。我々が真に対峙すべき相手も明白となるだろうさ」


 異端の魔術師として矢面に立たされただけに、もはやアルフォンスが戻るわけにはいかなかった。

 彼の決意を静聴し、その炯眼を認めるや、リフカは力強く頷いた。

「そう。わかったわ、任せて」


 それからひと時に育まれた篤い友情の証として、彼らは最後の握手を交わし、別れたのだった。

 リフカの雄途をアルフォンスは静かに見送った。

 夕日に染まる大地に長い影を靡かせながら、孤高のギリシャ正教徒が丘陵の反対側に沈んでいく。


 送迎を済ませ、ようやく魔女が踵を返したときだった。戸口の脇の銘文が視界にちらついたのだ。


 ケルト人のオガム文字。


 まだ忘失したものが完全に戻ったわけではないが、そこに一抹の不安がよぎったのである。

 現今の彼にはわかった、それはゲッシュという誓いなのだ。ある禁忌を課し、誓約を順守する限り特定の加護を得られるまじない。

 たとえばアイルランドの英雄クー・フーリンは、〝樫の枝の輪を片手と片足と片目だけで作れない者は、この先に進めない〟なるゲッシュをオガム文字によって表記することで、敵を足止めしている。


 衝動に押されてアルフォンスは家に引き返し、書斎に入った。真っ先に、『高き館の王の書』にまつわる研究日誌を読んでみる。

 するとオードネルが言及していた、〝蘇生の術の代償として記憶を失う〟という記述は、よく観察すれば自身の筆跡ではなかった。

 彼がある確信をもってドルイドの秘法についての書籍も漁ると、戸口の文章の内容は即座に判明したのである。


 〝我が許可しない者、これより先に進めず〟

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