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高き館の王の書  作者: 碧美安紗奈
第一部
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第二章

 招かれるままに門戸を潜ったエリファスとリフカを出迎えた広間は、軽く踊れそうなくらいのスペースがあった。

 天窓から傾けられた斜陽、天井のシャンデリア、吹き抜けの二階より渦巻く螺旋階段、来訪者を導く色鮮やかな床の絨毯。内装も豪勢な屋敷である。

 二人は物珍しげに玄関付近を見回し、エリファスはふと、敷物の端に赤黒い染みを見出したが、扉が閉ざされると、そこは影に没してしまった。

 訪れた薄暗がりのなかを、老人が二人の前に歩み出て胸元に手を添える。


「紹介が遅れましたが、わしは奥様にお仕えしております。オードネルと申します。さあ、こちらへ」


 自称して廊下の奥底へと誘導するように腕を扇いだオードネルは、やおら二人を伴って歩きだした。


「失礼ですが、珍しいお名前ですね」

 後を追うエリファスの感想に、リフカは自慢げな異論を挟む。

「無知ね。あたしはアイルランドで聞いたことがあるわ。そういえばあそこ、またこの国と揉めて大変ですね」


「出身はそうですが長年帰郷しておりませんので、あまり現在の国情には詳しくありません」

 そう断ったオードネルは、ちょうど辿り着いた扉の横で足を止めた。微かに躊躇するような仕草ののち、ノックをする。リズムを刻むような、違和感のある叩き方だった。

「ロレイン様、ただいま戻りました」


 するとしばしの沈黙のあと、麗しい女性の声が奏でられた。

「……外の喧騒はなんでしたか?」


 ばつが悪くて恥じ入る客人をよそに、召使は返答する。

「教会から参ったという使者のお二人でした。ここにお連れしています」


「お通しして」


 返事を受けて、オードネルが間延びした軋みを立てながらドアを開くと、室内には、簡単なお菓子や飲料を満たした食器が並んだテーブルを挟み、二人の女性が席に着いていた。

 奥でこちらを向いている豊満な身体付きの美女は、エリファスとリフカの間くらいの年頃で、控えめなドレスを着用している。彼女は来客を歓迎するように起立して、後ろで束ねた長い赤毛を、炎の如く揺らめかせた。


「よくお越しくださいました。わたくしがロレインです」


「……お客様? あー、本当にお客様だ!」

 次いではしゃぎだしたのは、美女の傍らにいた地味なワンピース姿の十歳前後の少女だった。

 背を向けて座っていた彼女は、来訪者を振り返るなり腰掛けに足を曲げて乗せ、忙しなく女主人と客を見比べだした。赤茶色の長髪が弾み、丸く愛らしい瞳が輝きを増していく。


 ロレインは女の子を一瞥した。「ラナ」そのたった一言で、娘は火が消えるようにおとなしくなった。


「ご用件はなんでしょう?」

 客たちに着目し直して威儀を正すと、ロレインは穏当に応対した。


「『高き館の王の書』についてです」

 切り出したのはエリファスだ。


 ロレインは一瞬だけ薄い眉の傾斜を険しくしたが、すぐに子供のものにも似た安心感を誘う笑顔を湛えた。

「ああ、あれならば書庫にしまってあります」


「じゃあ、ベルゼブブを地獄から解き放ち、助力を得て著したというのは事実だったのですね」

 すかさず強い語勢で追及したのはリフカだ。

「そのせいでフランス王国に出た悪魔憑きの犠牲者から、あいつを追い出す際に尋問して聞いています。あたしも憑依されかけたんですよ!」


「約束が違います。魔女狩りではないと!」

 初めて聞くリフカの過去に驚愕するエリファスの隣で、オードネルが修道女へ食って掛かる。


 ロレインは手を指揮者のように操って下男を制し、客たちに目線をやって試問した。

「モミの木の悪魔の話はご存知ですか?」


「……パラケルススにまつわる神話ですかね」答えたのはエリファスだ。「似たものはいくつかありますが」


 ロレインは軽く頷き、ひとつの逸話を物語った。


 パラケルススは高名な錬金術師で、秀でた医師でもある。

 インスブルックに滞在中、彼は何者かに助けを求められたという。そいつは聖職者によって蜘蛛に変えられ、モミの幹の割れ目に封印された悪魔だった。

 パラケルススは悪魔を解放するのと引き換えに、万病を治療する霊薬と黄金を生成する秘薬を要求した。救い出された悪魔は求めに応じたが、次いで自らを封じた聖職者へ復讐をするよう協力を要請したという。

 パラケルススは、悪魔にそれを可能とするほどの力があるのか試すふりをして、実力を示すべく封じられていたときの形態への変身能力を披露したそいつを、もとのように閉じ込めてしまったそうだ。


「どういう関係があるの?」

 語りが終わると、苛立たしげに爪先を踏み鳴らしながらリフカが尋ねた。


「ベルゼブブを利用はしましたが、解き放ってはいないということです」魔女は明答した。「彼が自由の身になっているとしても、わたくしは関知していません。そもそも、ベルゼブブは常人の手には負えませんよ。……騙しただけです。悪魔は人間よりも、妙なところで素直だったりしますからね。たとえば小瓶の悪魔という呪術においては――」


「もう結構」

 エリファスが確言した。

「どうやら、おれたちが参上したわけを見抜いておられるようだ」


 悪魔と契約して絶大な異能を授かるには、代償が必要になるとされる。なんらかの条件に基づく魂の提出や、正当な信仰の否定などだ。それらを犯してはいない、というのだろう。

 彼はそう理解し、その正しさを証明するように柔和な物腰で魔女は告げた。


「ええ、要するに取り引きがお望みでしょう? 狩りからは見逃す代わりにあれを渡せと。どこにしまったのか正確な場所は忘れてしまいましたが、『高き館の王の書』は新しいものですから、ある程度は的を絞れるはずです」


 リフカが眉を顰める。

「ある程度って?」


「ご覧になればわかります。どうぞ、好きなだけお探しになってください」


 それから召使の名前を女主人が呼ぶと、オードネルは役割を了解したようだった。彼は客人たちに付いてくるよう告げて、再び廊下を進みだしたのだ。


 だがエリファスはロレインがどうにも気になって、彼女の嬌姿を黙視したまま棒立ちになっていた。

 家主も着席しつつ、彼を眺める。

 紺碧の魔女の瞳に魅入られたかのように、エリファスはロレインに途方もない無窮の魅惑を捉えていたのだった。


「お母さん、ラナも案内しようかな」

 発声したのは少女だ。魔女にねだるように卓上へ身を乗り出し、無防備にもエリファスのほうからはペティコートの内側が覗けた。

「オードネルを手伝いたいわ。ね、いいでしょ、お客様を困らせるようなことはしないから」


 可愛らしい声色に、エリファスはラナのほうにも注目した。ロレインの子供のようだが寡婦なのだろうか、と思うと同時に、少女にも奇妙な情感を揺さぶられる感じがしたのだった。


「じゃあお願い、ラナ。わたくしも困らせないで」

 抑制した声でロレインは娘を咎め、しゅんとする少女をよそにエリファスへと居直った。

「さあ、行ってください」


「ちょっと、遅れないでよエリファス!」

 ロレインに促されるのと、リフカに急かされるのは一緒だった。我に返ったエリファスは、慌てて仲間を追いかけた。

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