第一章
イングランドの片田舎、コッツウォルズは穏やかな季節を迎えていた。
なだらかな丘陵は豊かな緑に満たされ、虫たちと共生する草花が咲き誇り、鳥たちの合唱が青空を賑わせている。はちみつ色の石による家屋が並ぶこぢんまりとした村では、人々も麗らかな陽気に活気づいていた。
ただ、司祭らしきアルバを着用した男と、修道女らしきカソックを着た女の二人組が通るときだけ、村人たちは緊張した。
空目を使う者や息を潜める者。平静を装いながらも明らかに彼らを警戒している者。動揺のあまり荷車をひっくり返して羊毛と農機具をぶちまけた農夫には、二人のほうが仰天した。
「狂風の到来を予感しているようだな」
二人組のうちの片方がようやく口を開いたのは、点在する羊たちに見送られて、村を出る頃になってからだった。
精悍な顔立ちの、三十代始めくらいの青年。薄茶色の髪で隠された額に、肌の色素をそこだけ薄くしたような斜めに走る傷跡がある彼は、バチカンからカンタベリー大主教区を介して派遣されたカトリック教会の司祭で、エリファスといった。
イングランド国教会はローマ教皇庁から独立したばかりだが、女王エリザベス一世によってカトリックに配慮した情勢が保持されていたのだ。
「魔女をかくまってる村だもの、無理もないわ」
エリファスの隣の女が私見を述べた。
「あたしたちの素性を知れば、東西の人間が共にいることにもっと驚くでしょうしね」
彼女は、コンスタンティノープル総主教区の指令を受けて来たギリシャ正教徒で、修道女のリフカといった。
気の強そうな顔立ちに澄みきった瞳、二十代後半ほどの細身の女性だ。
互いに破門状を突きつけ合って以来、交流が途絶えていった西方教会と東方教会。双方の一部派閥が極秘任務の下に手を結び、それぞれの代表者を遣わしたのだ。
どちらも正当な動向には背くので後ろ盾となる勢力はたいした規模ではなかったが、教皇領の優秀な助祭枢機卿からの援助が強力な後押しとなり、実現した計画だった。
「で、西方教会はどこまで標的の情報を入手してるの?」
対立する教会の使者へと、さりげなくリフカが尋ねた。これまで何度もはぐらかされてきた質問だからだ。
しかし今回は意外にも、あっさりとエリファスは洩らした。
「コッツウォルズの魔女、ジェシー・ブラウン。天地の理に反する魔術書を記した人物だとか」
相手の反応に一驚しつつも、リフカは得意気に補足した。
「『高き館の王の書』ね。ベルゼブブの力添えで死の淵にある者を蘇生させ、健常者には不老長寿をもたらす呪物って話だけど」
「なんだ、知ってるんじゃないか」
とっさに指摘するエリファスに、リフカはしてやったりという顔付きをする。
――Baal-zebul。
本来、〝高き館の王〟を意味するこの悪魔は、かつてカナン人の神だった。神は一柱のみとするキリスト教ら一神教布教の過程で、神は複数とする都合の悪い多神教の神々は影の側面を拡大解釈され多く魔物へと変えられたが、特にバアル・ゼブルは尊大な元の名前がユダヤ人の伝説の王ソロモンを彷彿とさせるため、綴りの似たBaal-zebub。
〝蠅の王〟へと貶められたのだ。
「逆に、こちらが初耳な点もあるな」
ギリシャ正教徒に呆れつつも、カトリック教徒は呟く。
「ベルゼブブが係わっているとは。サタンに次ぐとさえされる魔界の大君主じゃないか、そんなものを制御できる人間がいるのか?」
イエスが病人を奇跡で癒したときは、ベルゼブブの関与を疑う者がいたほどである。
この悪魔が人々を欺き、彼を処刑させたとも伝えられている。
「なんでこれまで黙っていたんだ。サウサンプトンで落ち合ってからどれだけ歩いたか」
「お言葉だけどエリファス、あなたこそまともに口を利いたのは初めてじゃないの」
「そ、それはそうだが。おまえは東方正教会だからな、疑念があった」
「こちらからすれば西方がそうよ、お互い様ってことね。でも――」
リフカの言葉をきっかけに視線を交わして苦笑いすると、彼らは互いの胸中を把握し合った。
振り返れば村の出口の柵のそばで、不安げに神父と修道女を眺めている村人がちらほら窺える。
「ああ、ここまで来て反目し合っていてもしょうがない」
言って、エリファスは正面の丘に対当した。小山の頂に、森の深緑を背景とした古びた屋敷が見えてきたのだ。
聖職者たちはのどかな田園風景に満ちる霊気を感じながら、魔女の根城へと歩んでいった。
魔女ジェシー・ブラウンの邸宅はやはりはちみつ色の石で造られていたが、村の他のものとは違いエジンバラ城を縮めたような優美な佇まいだった。
入り口のノッカーは牙を剥いた獅子の頭部を模り、自らの尾を噛む蛇をくわえている。
それを前に、二人の教会関係者は固まってしまった。
魔女への畏怖のためどちらも自分からは戸を叩けず、かといって対立する教会の相手に頼みたくもなかったのだ。
リフカは着衣の乱れを整えるふりを。エリファスは家の構造を調べるふりをしてごまかし、ふと後者は戸口の脇に奇怪な傷を発見した。
額の古傷を想起させられたエリファスは、自身のそれをいじりながら壁面の文様を観察してみる。
縦の直線に交差する横や斜めの線。もしくは中心軸から左右いずれかに伸びる幾本かの線による記号のようなもの。
彼には読めなかったが、見覚えはあった。ケルト人が使用するオガム文字だ。
後ろから尻を蹴られ、エリファスはそこに顔面をぶつける。
「ねえ、さっさと入りましょうよ!」
顔を押さえながら、エリファスは抗議する。
「ず、ずっと堪えていたが、態度の悪い女だな! それでも尼か? だいたいなんで、見習いなんかをこんな要務に寄こしたんだか」
「見習いじゃないわ、修練女よ!」
「同じだろ」
「そこらの修練女と一緒にしないで。あたしは霊感が強くて、評判だったから選ばれたの!」
腕組みをして、修練女はお返しとばかりに言い放つ。
「そういうあんたこそ頼りない感じだけど、なんで来たのよ」
「話したくてもできない過去もある」
エリファスは、リフカの挑発に対してとは別のような、苦しげな表情で述べた。
「ただ、どういうわけか異端や異教の知識が豊富だったからだ。だから、禁書目録の精査を任されていた。そこでの働きを買われたんだ」
「他人事みたいな物言いね」
隣人の反応に、考え込むようにリフカが洩らす。
「――誰かいらっしゃるのですか?」
そのとき、第三者のしわがれた声と共に扉が開かれた。
「ロ、ローマ教皇の勅命です」
「コ、コンスタンティノープル総主教の勅命です」
焦った聖職者たちはもたつきながら名乗り、それぞれの指導者の署名が入った勅書を出てきた人物へ突きつけた。――どちらも上下逆である。
戸口に現れたのは、短い白髪を生やし皺だらけの顔の、黒服を着て痩せた年寄りだった。戸を開けた格好で固まり、慌てて勅書の向きを直す二人をきょとんと観照している。
ややあってエリファスとリフカの素性を察したのか、彼は驚嘆を顔に表したが、まもなく取り繕って断った。
「お引き取りを。ロレイン様はお会いになりません」
「ははーん」リフカはいやらしく攻めた。「それがここの主人ね。ロレイン・ジェシー、あるいはジェシー・ロレインかしら」
ジェシーとしかわかっていなかった強大な魔女の名だ。館の玄関先に出されるような男が〝様〟と呼ぶからには、主人たる魔女の名の一部と解釈できる。
老人は難しそうな顔で言い訳した。
「……麓の集落を通って来られたのならご存知でしょう。奥さまは白魔術にも精通しております。村民とも親しい。うまくいっているところでは、介入する第三者こそが問題を起こすのですよ」
召使いと思しき彼は、ヨーロッパのあちこちで横行している魔女狩りを警戒しているようだった。
魔女とされた人々への弾圧、魔女狩り。
偏見に基づく他者への迫害、天災や時世の混乱に大衆の苛立ちが欲した生け贄、あるいは異教徒や異端者への攻撃、腐敗した教会権力に起因するものなど。そんなことが続発する理由はいくつも想像できたが、犠牲者は魔女に止まらず、怪しまれた一般人も捕縛され、裁判に掛けられ、拷問され、処刑されていた。
とはいえ、いずれにせよ二人の目的は異なるものだった。エリファスは物柔らかに宥める。
「おれたちは魔女狩りに参ったわけではありません。『高き館の王』について、伺いたいことがあるのです」
老人の顔つきはいっそう厳しくなった。とても納得してもらえそうにない雰囲気である。返答を待つ間に、神父たちは新たな策を練らねばならなかった。
「……どうぞ、お入りください」
ところが、老人の次の一声はそれだった。しかも彼は一歩身を引き、開けたままの扉を支えさえする。
聖職者たちは物分かりがよすぎる相手の態度を訝ったが、願ってもない誘いだった。