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高き館の王の書  作者: 碧美安紗奈
第二部
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終章

 ――十数年前。アルフォンスの家をあとにしたリフカは、無人の丘陵の只中で立ち止まった。


 一切の生命が押し黙り、夕焼けの天上は俄に掻き曇って、真夜中の色へと変貌していく。

 魔術書を見詰めていた目が切れ長に吊り上がると、リフカは口が裂けるような笑みで書巻の表面に指を這わせた。

 月の刻印は破れ、ターレル銀貨が拳に握り締められる。間髪を容れずにそれは塵へと変じ、さらさらと零れて大地へ還った。

 そこで彼女は満足げに、大気を震撼させるような声で言ったのだ。


「『高き館の王の書』、このベルゼブブが確かに貰い受けた」


 もはやリフカの瞳は、人ならざる色に輝いていた。


 そこにあった銀貨こそが、書の効力を増大させて死人をも生き返らせ、彼を解放し、且つ、縛めてきた要因でもあったのだ。


 イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダが、報酬として祭司長から受け取った対価である。

 後にユダはこれを悔い、銀貨を神殿に投げ捨て、首を吊って自殺したとされる。もう誰も知らない言い伝えによれば、イエスはこの弟子をも深い慈悲で憐れみ、捨てられた硬貨は聖遺物〝ユダの銀貨〟になったという。

 そうして長い年月のうちに人の手から手に渡り、実態が忘れられ、錬金術師が変成させ、単なる呪物とされた頃に、それとはわからずにアルフォンスが入手したのだった。


 これが偶然にも、魔術書を完全なものとする効果をもたらしたのである。

 イエスに命令されてベルゼブブを捕縛している冥府は、銀貨を通じて流れ込むキリストの威光から、彼に悪魔の解放を要求されたと錯覚するのだった。


 リフカ、否、ベルゼブブは、ゆったりと歩きだした。絶望は彼に付き従い、闇のなかにあってもいっそう濃い巨大な影を、あらゆる災いのように引きずって。

 悪魔の大公の表皮に触れるおよそ一気圧の膜は、不気味な歪曲を具現させた。異質な才能によって、どこか遠いところに飛翔しようとしているのだ。


 そこで唐突に、ベルゼブブは静止した。周辺の不穏な空気も和らいでいく。

 足元に視線を落とした彼は、土を掻き分ける線を跨いだのを察知した。注視すれば、そいつはベルゼブブを覆わんとばかりに半円を描いている。


 悪魔が意味を解するよりも早く、路肩の茂みから女が飛び出した。手刀で残りの半円を描きベルゼブブを囲むと、勢い余って土煙を上げながら転倒する。

 構成されたのは簡易な魔法円だった。魔術的に、外界と内陣を分かつ境界としての意味がある。


「貴様、生きていたのか」


 忌々しげにベルゼブブが言い放った相手は、彼そっくりな容貌の女性。


 ――即ち本物のリフカだった。


 ただ、人間のほうのカソックやヴェールの脱げた黒髪は血に染まっていた。修道女に成り代わろうとしたベルゼブブに襲撃され、瀕死の重傷を負いながらも辛うじて立っている状態だ。


「ふ、ふふ。してやったりよ、退けサタン!」

 叫んだリフカは、ボトルに満たされた聖水をベルゼブブにぶちまけて、十字架を突きつけた。怪我の痛みに崩れそうになりながらも膝を立ててなんとか体勢を整え、聖母の祈りを唱えだす。


「憑けぬのならばと殺したつもりだったが。そのふざけた性格を真似るのに苦労したというのに、まだ面倒をかけるか。慣れないことを軽々しくすべきではないぞ、尼僧よ」

 ベルゼブブが警告した直後、リフカは砂塵を伴って弾き飛ばされた。

「相手の技量を見誤った策は、あらゆるものの浪費に終わるだけだ。こんなもので我を拘束できるはずがなかろう」


 嘲りながら、ベルゼブブが優雅に両腕を広げた。

 彼を包囲する魔法円から、円柱状の陽炎が立ち上る。寸分の間も置かず、稲光のようなものを渦巻かせながら、それらは粉々に飛散した。

 一歩、悪魔が踏みだす。さらなる一歩で、境界を越えようとする。


「この者の四肢と、首と口を青銅で縛りあげるがよい」

 やにわに投げ掛けられた声が、蠅の王を束縛した。魔法円が、たちまち絶大な効力を取り戻していく。


「……おのれ、勘付いたか!」

 憎悪の形相でベルゼブブが見返った先には、アルフォンスがいた。司祭であった頃に授与された十字架を翳しながら、彼はゆっくりと接近してくる。


「一緒に過ごした時間はそれなりに楽しかったのにな、残念だ。おまえも、怒りや憎しみを撒き散らさずに済む静かな住処に、帰ったほうがいい」

 魔術師は、詠唱を進行させた。

「……冥府よ、主の御言葉を忘れたか。あの方は言われた。〝我が第二の来臨の時まで、その者をしっかりとらえておくがよい〟と」


 魔法円で復活した光線が昇天し、天空の遥か彼方まで貫いた。

 憤怒を滾らせた眼光にアルフォンスを捕捉して、ベルゼブブは『高き館の王の書』をつかんだまま、自らを溶かす光彩にもがいている。


「これで終いではないぞ!」

 蠅の本性が、陰影の移ろう狭間に覗いていた。

「『高き館の王の書』は頂戴しておこう。忘却する人間がいかに愚行を繰り返すか、身をもって学ぶがいい。また、悟るがいい。我らなくとも汚れた足跡を晦冥に葬り、自分たちが消し去った悪しき轍を何度も踏むのが、汝ら人類であるということを! 我が名で誤称されるあの神が、人間たちによって貶められたように! おまえたち魔術師が、偽りの罪業を被せられたように!!」

 断末魔の咆哮を轟かせて、ベルゼブブは魔術書ごと粉砕した。


 ごく短い沈黙のあと、そよ風が吹き、天が晴れ渡ると、平穏な夕暮れが戻りだす。

「歩んでいる限りは進んでいるさ。おれは明るき方角への道筋となってみせるよ、リフカ。いや、ベルゼブブ」

 日常の景観から隔絶された、超自然の片鱗である魔法円を墓標に見立てて、アルフォンスは複雑な心情で、そっと語りかけていた。


「……あなたが、ジェシー・ブラウンかしら」

 息も絶え絶えにリフカが尋ねてきたので、アルフォンスは彼女に駆け寄り、何度も頷いてやった。

「空想と違うわ。どんなおばさんかと思ったら、いい男じゃないの。やっぱり簡単に人は計れないものね。ましてや噂だけじゃ……」

 自嘲にも似た笑みを湛えて、死に際の修道女は瞳を潤ませながら、細腕で縋り付くように頼んだのだった。

「お願い、伝えてほしいの。西方教会のエリファスに。魔女狩りという蛮行に終止符を打ってと」


「ああ、任せてくれ。おれが必ず伝える」

 そうアルフォンスが明言して微笑み掛けると、リフカは安堵に満ちた表情で、息を引き取ったのだった。


 ――魔女狩りがいかにして発生し、いかにして終息に向かったのか。その全容は、未だ判然としていない。

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