第十章
まもなくしてアルフォンスも苦しげに唸ると、剣を携えた天使像の立つ橋の欄干にもたれ掛かった。人々が驚いて歩み寄り、彼の身体を支える。
術者の死去によって栄光の手の効能がなくなり、身動きができるようになった裁判官たちも駆けつけてきた。
「……すまなかったな、魔女のメルリン。おまえが正しかったようだ」
乱れた呼吸の合間を縫って、裁判官が謝罪した。
「魔女狩りの廃止について検討を」アルフォンスが朦朧としながらも懇願する。「もう一度、考慮してみてください。……詳しい説明をする余裕はありませんが、おれの寿命は枢機卿の魔術で維持されていました。彼が死んだことで、命が尽きようとしているのです」
集結していた人々が、はっと息を呑んだ。
崖から転落した日、アルフォンスは落命していたのだった。
アルラウネの魔法で『高き館の王の書』がブラウン家に戻されそうになり、ゲッシュで封鎖された屋敷に入れなくなることを恐れたメルリンは、書が手元を離れる寸前にそれを使用し、アルフォンスを亡骸に反魂させたのである。
製作者の意図を超越してベルゼブブさえ復活させた魔術書は、やはりアルフォンスが予期していなかった死者をも蘇らせる効力まで発揮したのだった。彼の老化が止まっていたのも、そのためだったのだ。
裁判官は、慣れない冗談を交えてアルフォンスを元気づけた。
「枢機卿は魔女狩り推進派の筆頭だった。あの裁判所の建設も中止されるだろう。わたしは暇になってしまうがな」
「……塗油を持ってきてくれ」
身近にいた聖職者へと、大司教が命じた。小さく笑った魔女の様相に臨終が近いことを察知し、せめて終油の秘跡を授けようというのだ。
「まさか、あのとき東西統一の壮図を発案したメルリン枢機卿が魔女とは。いつまでも老いを感じない人ではあったが、リフカとエリファスが帰還しなかったわけだ」
哀れみ深い眼差しをアルフォンスに注ぎながら、大司教は嘆いていた。よもや、アルフォンスこそがエリファスであったとは思うまい。当時、東方教会に属していた彼は、西方教会のエリファスとは面識がなかったのだから。
みなに見守られながらも、アルフォンスは薄れゆく意識の片隅で、望郷の地に想いを馳せていた。
すでに、あの事変からだいぶ時が流れた。娘は成長して遠方に嫁ぎ、召使も自身の故郷で隠居している。妻は病死したが、眠るように安らかに逝った。
たとえ術が解けようとも、彼らは健康な状態に癒されただけであって、現在では影響下にないだろう。完全なるこの世ならざる所業によって命脈を保ってきた己だけが、魔力の消失に呼応して人生の幕を閉じるのだ。
ふと、雲を掻き分けて舞い降りる陽光に、暗い街角が美麗に染めだされた。
幻惑か神威のなせる光景か、天堂の園で、殉教者の魂と契合せんとする天使の一団が迎えている。
列の先頭で穏やかな面差しで待っているのは、悠久の愛妻ロレインだった。
アルフォンスは願っていた。
いつか祝福されるであろうと信じたい現し世の、未来に伸びる明るき軌跡になりたいものだ、と。
そして約束の日への追懐を胸に抱きながら、彼は満足げな顔付きで、眠りについたのである。