第九章
朝霧に噎ぶ路地を疾走する破戒僧と、それを追尾する魔女が、静寂の風景に足音を反響させていく。
壮麗な建築物の羅列を舞台に繰り広げられる、異端者と聖職者の追走劇。天使、聖人、イエス、イエス、マリア……。
サン・ピエトロ寺院で、サンタンジェロ城で、それらの頂、あるいは建物の内陣から、聖像たちが俯瞰している。
「〝ザティ アバティ〟!」
サンタンジェロ橋の袂に差し掛かったとき、メルリン枢機卿のしゃがれ声が聞こえた。
――小瓶の悪魔。
だがもはや、魔女は焦らなかった。命令の詳細は不明でも、あの呪術で捕獲できるのはせいぜい低級悪魔だ。方法が容易であるが故に、相応な効果しか期待できないのである。
すかさず魔女のメルリンは首飾りの紐を千切り、アミュレットを正面に投げた。
瞬時に鉱石は身代わりとなって砕け散り、破片から目を庇うように腕を翳しながら、彼は止まらずに突進する。が、霧散した切片の雨を抜けて顔から腕をどけた途端、目睫に突き出された栄光の手が視野に入った。
たちまち全身をわななかせ、魔女のメルリンが蹲る。
術の成功を確信した枢機卿のメルリンは足を止め、口の端を限界まで吊り上げた狼のような笑顔でにじり寄ってきた。
「どうした。英国屈指の魔術師の名が泣くぞ、メルリン。いや、エリファス・ジェシー・ブラウン」
「……そいつは、おまえから与えられた、……偽りの名だ」
一流の魔術師だけあってか、金縛りに遭いながらも彼は話せるらしかった。
魔女メルリンの正体は、まさしくアルフォンスだった。
故郷での一件のあと、十数年もの歳月をかけた調査で一連の事件の首謀者を突き止め、ようやくここまで漕ぎ着けたのである。それでも当時の姿から老いを感じさせない彼は、不敵に続けた。
「メルリン枢機卿よ、偽教皇カドゥルスの残党らしいな。没収した魔術書を研究するうちに、飽くなき欲望に憑依されたか? 今や己の力量を満すことだけに興味があるようだな」
「力を求めるのは貴様とて同類のはず。でなければ何ゆえ、魔術師などを志す?」
「あらゆる学問と同じこと。おまえが濁った眼差しで魔術を眺めているだけだろう。他者も同様の視点だなどと決め付けるな」
枢機卿の侮蔑に反論しつつアルフォンスは面を上げ、威嚇するような目線で相手を射抜いた。
金縛り状態のはずなのに可能とした動作に、メルリンは油断していたと悟った。
次の瞬間、魔術師は憮然として立ち上がったのだ。
枢機卿が逡巡する暇もなく、アルフォンスが皮袋を放る。
袋が空中で踊り、乳白色の液体が撒き散らされると、栄光の手は光源を失った。おぞましき炎は、ミルクによってのみ消火されるのだ。
震駭して強張るメルリンをアルフォンスが突き飛ばす。枢機卿の身体は反転し、地面に叩きつけられた。
「……おのれ」メルリンは悔しそうに呻いた。「軟膏を塗っていたのか」
枢機卿が指摘したように、栄光の手から身を守る薬をアルフォンスは事前に塗布していたのである。彼の体臭はそのためだった。
「さあ、これまでだ。出頭するがいい」
「ごめんだな。くだらぬ裁判に掛けられるなど……」
凄むアルフォンスに対し、メルリンは拒絶で応じた。
周囲は、騒動に引き寄せられてきた幾人もの教会関係者たちに取り囲まれつつある。もう、逃げ場がないのだ。
「しかと聞くがいい」
暗色の建造群から覗く寒空に、大声が高く轟いた。メルリンは膝立ちとなって上空を仰視し、せめてもの抵抗か、最大限の誇りをもって宣言したのだった。
「この我、メルリンこそが魔女である!」
紅い閃光が瞬いた。
メルリン枢機卿の身体は燃え上がり、寿命もまた、蝋燭のように揺らめきだしたのだ。
枢機卿の証明である緋色の衣はまさに火炎となり、瞬時に巨大な火達磨となった。雄叫びを上げる物体と化したそれが、石畳を転げまわる。
生き物の焼ける臭気を纏い、聖域の一角を照らし尽した頃になって、ようやく火車は停止した。皮肉にも、メルリン枢機卿による裁きで火刑に処せられた、魔女や異端者たちを彷彿とさせる最期だった。