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 パチ、とようやく目が覚めた。部屋の中は真っ暗で、窓から差し込んだ月明かりだけが辺りを照らしていた。

 王家から届いた手紙は涙でふやけ、手の中でくしゃくしゃにつぶれている。それでも婚約破棄の事実が消え去る事はない。

 目が腫れぼったくて、痛かった。殿下の呪いが解けたのだから、本当は諸手を挙げて喜ばなければいけないのだが、そんなことをする気は一切起きなかった。


 きっと今頃王宮ではパーティーでも開いているのだろう。なにせヘリオット殿下が王太子として復権したのだから。

 本当に喜ばしいことだ。塔の上で孤独だった王子様が多くの人に囲まれて、煌びやかな衣装や宝石を身に纏い、煌々とした明かりに照らされて、ずらりと並んだ豪勢な料理に手を付けている。

 本当に。月明かりが照らす薄暗い部屋で一人ぼっちの今の私からしてみれば、今の殿下とは天と地ほどの差がある。


 じわ、とまた涙が溢れてきた。あれだけ散々泣いたのに、まだ涙は止まってくれないらしい。ヒリヒリと涙が目元に染みて、また目が痛んだ。


 顔を洗ってこようか、それとも濡らした布巾を用意してもらって、それを目に当てようか。そんなことを考えてベッドから降りたところで、ふと屋敷がやけに騒がしい事に気づいた。

 私の新しい婚約者を探すパーティーでも開いているのか、と思ったが、だったら私に一声かけないのはおかしい。ただ単に他人の婚約破棄をダシに騒いでいる可能性もあるが、それにしても騒ぎ方がおかしいというか、どことなく妙な感じがする。


 確証のない違和感を抱きながら、部屋の扉を開ける。明かりに満ちた廊下の左右を見渡してみれば、奥の方から顔なじみのメイドが一人飛び出してきた。


「お嬢様! 賊です! 逃げてくださ——」


 彼女の悲鳴にも似た叫び声が余韻も残さずに途切れる。こちらに向かって手を伸ばした格好のまま彼女は倒れ、その場に血だまりが出来上がった。

 彼女の体の向こうに現れた黒い影が私を見てこう言った。


「あの娘がアイシクル家の令嬢だ。殺せ」


 バタバタと奥から現れる複数の黒い影を見て、私の体から血の気がザッと引いていった。




   ♰




 何か罪を犯したのか、と問われれば、犯した、と答えたくなるようなことはいくつもある。

 私は善人ではない。誰かに忠誠を誓える人間ではないし、他人のために動ける人間でもない。その点で言えば、自分の利益のために実の娘だって利用する父親の血を色濃く継いでいると言ってもいいだろう。

 けれど、まさか、こんな目に遭うなんてこれっぽちも思っていなかった。


 わずかな月明かりを頼りに、屋敷周辺の雑木林の中を走り回る。

 メイドが言っていた賊の姿を見た瞬間、私はすぐさま自分の部屋に飛び込んだ。壁にかけておいた護身用の剣を掴んで、なんとか窓から外に逃げれたのは良かったが、その際に一撃貰ってしまった。

 ズキズキと痛みを訴えるのは、利き腕である右腕。剣を持ってきたのはいいものの、これでは賊に反撃できるかどうか。


 賊。メイドの言っていた言葉を思い出しながら、血が流れる右腕の傷を押さえた。

 あの時、メイドを切り伏せたときの体の動き。私を切りつけたときの剣筋。賊と呼ばれた黒い彼らのやけに統率の取れた行動。

 それを全部、私は知っている。


 ギュッと右腕を押さえる左手に力を込めた。それと同時に唇を強く噛みしめる。

 あの動きは何度も見せてもらった。だって体力づくりのために彼らの訓練にいつも参加させてもらっていたから。


 アイシクル男爵家を襲った賊の正体は、王家直属の騎士団だ。


 そうやって行きついた考えがズシリと逃げる足を重くした。

 なんで、どうして。そう疑問に思う心と裏腹に、やっぱりな、と納得してしまう自分もいる。


 そこまで目障りだったのか。そこまで邪魔だったのか。第一王子ヘリオット殿下が吸血鬼の呪いにかかったと知っている人間が。


 ねえ、グラナート国王陛下。


 息が上がる。心臓が逸る。胸の奥がギュッと詰まったような感じがした。




   ♰




『この呪いが解けたら、真っ先に君に言いに行くよ、『今までごめんなさい』って』


 そうやって穏やかな笑みを浮かべた殿下。


 でも、その約束が叶わないことを私は知っていた。

 それなのに私は、はい、と答えてしまった。

 あなたの言葉が嬉しかったから。あなたの優しさを大事にしたかったから。


 でも、私は知っていた。この約束が叶わないことを知っていた。

 だって、あなたと約束する前に、私はグラナート国王陛下と約束してしまっていたから。


 一つ、殿下の呪いのことを誰にも言わないこと。

 一つ、グラナート王家に忠誠を誓うこと。

 一つ、殿下の呪いが解けた暁には、二度と王族の前に姿を現さない事。


 どれか一つでも破れば、アイシクル男爵家もろともお前を処刑する、と。


 この三つの約束を破る気はなかった。

 別に命が惜しかったわけじゃない。国王陛下に忠誠を誓っていたわけでも、家族が大事だったわけでもない。


 私がなによりも嫌だったのは、殿下が不利益を被る事。この三つの約束のどれかが破られてしまえば、殿下が大変な思いをすると思ったから。


 あの人の呪いが解けたとしても、絶対にこの三つの約束だけは守っていようと思っていた。


 本気でそう、思っていた。


「本当に、まさかだなぁ……」


 グラナート国王陛下に信用されていないとは思っていたが、まさか、家族もろとも殺しに来るという強硬手段を取るとは思いもしなかった。


 ずる、と泥だらけになった足を引きずって、雑木林の茂みに隠れる。だが、ここまで明るくなってしまえば、もうどこに隠れようと無駄だろう。


 パチ、パチ、と木が爆ぜて、夜風にはそぐわない熱風が背後から吹いてくる。

 王家から賜ったはずのアイシクル男爵家の屋敷が燃えていた。月明かりだけが頼りだったはずの雑木林は、燃える屋敷で一気に明るく照らされる。


 ちら、と屋敷を飲み込む赤い炎を振り返って、父と姉はどうなっただろうと、ふと思った。

 メイドの様子からすれば、おそらくあの二人も殺されている。王家からの援助でもっとたくさんの護衛を雇っておけば助かったのかもしれないが、贅沢しか知らないあの二人はきっとそんなことを考えもしなかっただろう。


「……バカだなぁ」


 援助されただけで大貴族の仲間入りだと勘違いして、どこでも偉そうに振舞った。ただの男爵家に過ぎないのに、他の格上の貴族を侮り続けた。

 貴族としての矜持もなく、責務も果たさず、降って湧いた幸運を消費し続けた愚か者。その末路がこれならば、世界は案外帳尻が取れているのかもしれない。


「ねえ、あなたもそう思いませんか?」


 剣を杖のようにして立ち上がり、雑木林の茂みの向こうに現れた影にそう問いかけた。

 黒い影が被っていたフードを取る。その下にあった顔は、いつぞやの訓練で見た騎士団長のものだった。


「……あの者たちが愚か者かと問われれば、私の答えは是だ。そして、それは彼らと同じ血を引くお前にも言える」

「まあ、否定はしませんが。でも、婚約破棄されたとはいえ、第一王子の婚約者だった人間に対してその物言いは少々失礼では?」

「関係ない。どうせお前はここで死ぬのだから」


 そう言って騎士団長は淡々と近づいてくる。それに応戦するように、私は剣を構えた。

 手負いの娘が剣を構えたところで、相手には威嚇にもならない。それでも騎士団長は私の剣がギリギリ届かない所で足を止めた。


「一つ、訂正を」


 彼の抑揚のない声がある事実を述べた。


「グラナート王家とアイシクル男爵家の婚約は未だ継続している」

「……え?」


 理解しがたい言葉に、構えた剣の切っ先がわずかにブレる。


「な、何で? だって私のところに婚約破棄の手紙が……」

「婚約破棄など公表せずとも、婚約者がこの世からいなくなれば同じこと。わざわざ周知させる必要はない、と陛下は仰せだ」


 全身から力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 確かに言われてみればその通りなのだが、怒りか、呆れか、よくわからないような感情が体を駆け巡る。


 馬鹿にしている。とことん、こちらを馬鹿にしている。

 利用するだけし尽くして、用が済めば婚約破棄。そんな汚名を着せられることすら嫌だったのか。


「……こんなことをして、タダで済むとお思いですか? 今回の件は必ずグラナート王家への不信を生みますよ?」

「こんな程度で王家の威信は揺らがない。それともお前は自分たちにそれほどの価値があると思っているのか? アイシクル男爵家が消えされば、この国は大きな被害を受ける、と」


 彼の言葉に私は何も言い返せなかった。

 確かにな、と頭の中で思う。嫌われていた、目障りだと言われていた、いなくなればいいのにといつも陰口を叩かれていた。

 私のことを好きでいてくれた人なんて、この世界にいただろうか。私を必要としてくれる人がまだいるだろうか。


 真っ先に頭に思い浮かんだのは、ヘリオット殿下だった。金色の髪にガーネットの瞳。いつも私に穏やかな笑みを向けてくれた、世界で一番美しい人。


 でも、もう、呪いの解けたあなたに、私は必要ありませんものね。


 気づけば私の構える剣の切先は地についていた。

 完全に隙を晒す私の前で、騎士団長が剣を抜く。


「お前たちを必要とする者はどこにもいない。だから消えてもらう。剣を捨てろ。俺は殺せと命令されただけで、女を切り刻んで嬲る趣味はない」


 私は顔を上げて、無表情な騎士団長にニコリと笑いかけた。


「——嫌です」




   ♰




 愚かだな、と自分でも思った。

 利き腕は怪我をしていて、相手は騎士団長。性別による体格差と実戦による経験値の差。技術、筋肉量、体力。全てにおいて私は負けている。


 だから、勝てるはずなんてないのに。


 重たい剣を必死で受け流し、ただひたすらに防戦一方。騎士の訓練に参加していて、ある程度真面目に取り組んだからなんとかついていけてるが、それも体力が尽きればおしまい。そのうち剣も握れなくなって、あっという間に首を刎ねられるだろう。


 だから、彼の言った通り剣を捨てていれば、楽に死ねていたはずなのに。

 なんで私はこんなにも無駄な抵抗をしているんだろう。


 ギィン、と剣を払った時、泥だらけになったドレスの裾が目に入った。


『クリスティアはもっと綺麗なドレスは着ないの?』


 ふと脳裏に浮かぶのは在りし日の殿下との会話。


『塔を上るには質素なドレスの方が楽なんですよ。血で汚すのも嫌ですし』

『そっかぁ。じゃあ、パーティーとかだと着てるんだ』


 いいなぁ、と呟いた殿下に、そうですね、と曖昧に相槌を打ったあの日。本当は綺麗なドレスなんて一着も持っていないこと、パーティーに参加したことなんてあまりないことを言えなかった。


 パーティーなんて日常茶飯事だったあの人に、綺麗なドレスを着た女性を山ほど見たことのあるあの人に、本当の事なんて言えなかった。


 重たい剣が上段から振るわれる。ギィン、と剣と剣が擦れ合う音で、意識が現在に戻った。


 ぶん、と頭を軽く振って、目を強く見開く。今の状況がまずいことが、自分でもよくわかった。

 集中が途切れてきている。過去の優しい記憶に逃げようとしている。体力が限界で、意識が飛びかけてきている。


 はーっと息を吐いて、剣を握る手に力を込めた。右手は感覚が無くて、痛いことすらわからない。左手で何とかカバーできているだけで、それも一体いつまでもつか。


 騎士団長の一撃はいつまで経っても威力が落ちない。そのくせに私の反応は少しずつ鈍っていく。


『別に、騎士の訓練なんてしなくてもいいのに』

『じゃあ、殿下はどうやって私に体力をつけろって言うんですか?』

『……ダンス、とか? お手をどうぞ、お姫様』


 そう言って手を取り合ったあの部屋は、ほんの数ステップ踏んだだけで端にたどり着いてしまうような狭い部屋で。


『……狭いね』

『……狭いですね』


 そう言って顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合ったのを覚えている。


「……っ、あああアアァ!」


 ダン、と足を踏みしめて、ひきつった雄叫びを上げながら、騎士団長の剣を跳ね返す。けれども彼は一瞬体勢を崩しただけで、すぐに攻撃体勢に戻った。


 目の前がくらくらする。自分が今まっすぐ立てているのかどうかもわからない。薄暗くなっていく視界の中で、それでも思い浮かぶのはあの人の顔で。


『あの日、誕生日だったんだ』

『……あの日?』

『君にケーキを顔に叩きつけられた日』


 そう言ってあの人は笑う。寂しそうに、悲しそうに、けれど少しだけ可笑しそうに。


『毎年パーティーが開かれてたんだ。一人一人が僕の前にひざまずいて、おめでとうございますって言ってくれてた。だから今年もそうだと思ってた。会いに来てくれなくても、手紙くらい送ってくれると思ってた。……ま、誰からも来なかったんだけどね』


 たくさんの人に愛されていた王子様。誰からも祝福されていた王子様。

 それが呪いを受けた瞬間、一人ぼっち。


『私は毎日来ますよ。それに、来年の誕生日は何かプレゼントを持ってきますし……、花でも、本でも、ケーキでも……はいっつも持ってきてるし、えっと、ぬいぐるみでも、珍しい虫でも!』


 殿下の顔を見て、我慢ができなくなって、ひたすらに励ました。王子様が何を貰って喜ぶのかなんて知らない。何が嬉しいのかなんて知らない。だから、あの人が欲しがるものはなんだってあげるつもりだった。


『……虫、はちょっといらないかなぁ』


 そう言って殿下は苦笑する。クスクスと笑って、彼はガーネットの瞳を私に向けた。


『クリスティアは……』


 と、何かを言いかけて、殿下は口を噤んだ。やがて、何かを諦めたように、別の言葉を口にする。


『……僕は何もいらないよ。君が会いに来てくれれば、それで』

『じゃあ、会いに来ます。毎日絶対会いに来ます。でも、誕生日プレゼントは絶対に持ってきますので!』

『……できれば虫以外にしてね』


 少し困ったように彼は笑う。

 今思えば、私はあの人にそんな顔をさせてばかりだった。困らせてばかりだった。


 私はヘリオット殿下の笑った顔が好きだった。あの人を楽しませてあげたかった。


 でも、あの人は私と一緒にいて楽しかったんだろうか。

 本当は、私よりも一緒にいたい人が居たんじゃないだろうか。


 ギャリィン、と一際大きな音がして、私の手から剣が離れていった。左腕に痺れが走って、ガクガクと手が小刻みに震える。

 私の剣は決して手が届かないような場所に突き刺さり、もう拾いに行くことはできないだろう。


 ドサッとその場にへたり込んだ。もう足の力も入らない。息は荒く、体が震えているのか、それとも押さえる手が震えているのかさえわからない。

 一歩一歩、死が近づいてくるのがわかる。その事実を受け入れたくなくて、ギュッと目をつぶった。


 本当は、殿下の欲しい物を知っていた。

 あの人の本当の願いは、普通の人間に戻って、呪われる前の時のように多くの人に囲まれて過ごすこと。


 だからきっと、あの人は私に願った。僕に会いに来て、と。

 一人になりたくなかったから。

 誰とも会わず、孤独に過ごすのが嫌だったから。


 強くつぶった目から涙が溢れる。涙は頬を伝って、ボロボロとドレスに零れ落ちた。


 おめでとうございます、殿下。呪いが解けて良かったじゃないですか。

 これであなたは元の王子様に戻れる。もっと綺麗な女性に囲まれて、もっと才能のある人に囲まれて、いろんな人から陛下、陛下と称えられる国王になるんでしょう。


 そんなことを思う私はあまりにも卑屈だ。

 だって、あの人の願いと私の願いは相反するものだから。


「もう抵抗しないのか」


 いつの間にか私の目の前まで来ていた騎士団長が問う。

 その問いに対し、私は黙り込んだまま。


「何か、最後に言い残したいことは?」


 彼の言葉にふは、と笑いが零れた。

 そんなことまで聞いてくれるのか。大層真面目ですね、騎士団長様。


 声にならなかった言葉を飲み込んで、ぼんやりと最後の言葉を思う。

 最後まで頭に浮かぶのは、やっぱりあの人のこと。


 最初に抱いたのは恐怖だった。けれど、その後に優しいことを知った。

 笑っていてほしいと思った。少しでも楽しんでほしいと思った。

 孤独を紛らわせるために利用されてもいいと思った。いつの間にか恋心を抱いていた。


 そして、とうとう、願ってはいけないことを願ってしまっていた。


「もしも、願いが叶うなら」


 呪いが解けたあの人は、きっと多くの人に囲まれることだろう。そこに私がいなくとも、あの人が寂しい思いをすることはない。

 私はこんなにも寂しいのに。


「どうか、どうか、いつまでも」


 グラナート国王陛下と交わした約束。呪いが解けたあと、私と殿下が会うことはない。

 だったら、いっそのこと——。


「ずっと呪われたままでいて。私だけの王子様」


 ぼた、と涙が溢れた。

 あーあ。今まで決して口に出さなかったのに、ついに言葉にしてしまった。


 愛と呼ぶには程遠い、どこまでも罪深く、利己的な感情。


 望んでしまった。願ってしまった。

 あなたがずっと呪われたままなら、私はいつまでもあなたの側にいられる。

 あなたが吸血鬼のままなら、あなたはずっと私だけを見てくれる。

 そんな願いを抱いてしまった。


「ごめんなさい」


 溢れる涙が頬を伝う。

 心の奥底でどこか思っていた。こんなことを願うのは罪だ、いつか必ず裁きが下る、と。


 ああ、とようやくそこで気が付いた。どうして私はここまで抵抗したのか。こんなボロボロになってまで、剣を防ぎ続けたその理由を。


 どうせ誰かに裁かれるのであれば、私は殿下が良かったんだ。この感情を責め立てられるのであれば、私は殿下に責められたかった。

 でも、それさえ許されないのであれば、あの人に会う事さえ、あの人の声を聞くことさえ許されないのであれば——。


「……これも、仕方ないのかなぁ」


 諦めたように顔を上げれば、月を真っ二つに断つように剣が振り上げられていた。それがまっすぐ振り下ろされるのを見て、私は視線を落とす。


 バサリ、という音が耳に届いた。


 長く感じたほんの数秒間。死の間際は一秒が百年にも感じると聞くが、それにしたっていつまで経っても切られた痛みも衝撃もない。


 奇妙な違和感を抱いて、そっと目を開けてみれば、目の前が真っ暗になっていた。いや、真っ暗ではなく、真っ黒というべきか。

 混乱した頭でその黒をじっと見つめていれば、ふと聞きなれた声が鼓膜を揺らす。


「仕方ないって、どういうこと? クリスティア」


 目の前の黒が揺らぐ。よくよく見ればそれは黒いコートで、のろのろと視線を上げれば見慣れた蜂蜜色の髪が月明かりに照らされて光っていた。


 体に震えが走った。恐怖からでも、疲労からでもない。彼を初めて美しいと思ったあの日と同じ感動で体が打ち震えていた。


「……何故、貴方様がここにいらっしゃるのですか? ヘリオット殿下」


 私の思った疑問と同じことを騎士団長が尋ねた。

 私から見えるのはヘリオット殿下の背中だけ。だからおそらく、殿下の向こう側で騎士団長が質問しているのだろうと窺えた。


「何故、と問うのであれば、私も問いたい。何故、私の婚約者を害そうとしているのか?」

「……それが王命だからです。殿下」


 二人が今、どういった考えでいるのか、私にはさっぱりわからない。ただ、なんとなくわかるのは騎士団長は私を殺すのを諦めないだろうという事だった。

 深く関わっていたわけではないし、特別親しいわけでもない。それでも騎士団長という男はどこまでも愚直に、自分に与えられた任務をこなそうとするだろうとわかる。

 たとえ、それを邪魔する相手が次期国王と噂される第一王子であったとしても。


 何とか動く左腕で、殿下のコートを引っ張った。

 逃げてほしい、私のことなど構わないでほしい、私の目の前で傷付かないでほしい。そんな思いを込めて。


 なのに、殿下は少しも引かなかった。殿下はこちらを振り向きもせず、じっと騎士団長と対峙している。


「殿下はその娘に恩義を感じているのかも知れませんが、彼女は国母として、殿下の婚約者としては相応しくありません。貴方様がどのような感情を抱いていたとしても、私は陛下の考えに従います」


 チャキ、と剣の鳴る音がする。


「そこをお退きください、殿下」


 耳に届いた騎士団長の言葉に、私はコートを掴む手に力を込めた。


「……そう」


 殿下の口からこぼれたのは、温度のない冷え切った声だった。

 彼のこんな声を聞いたのは何年振りだろう。あの時の、世界の全てに絶望していて、何一つ期待していないような、そんな声。


 それに怯むことなく、騎士団長が殿下に切りかかろうとしているのがわかる。

 殿下、と声をかけようとした瞬間だった。


 カッ、と強い光が辺りを照らした。屋敷を燃やす炎の光ではない、けれどもそれによく似た何かが爆発したような光。

 熱も、音も、爆風もない、それゆえの違和感が際立つようなそんな光だった。


 ドサッと何かが倒れた音がした。ガァン、と金属音が鳴ったのは、剣と岩がぶつかった音だろうか。


 思わず私は目の前に立つ殿下を見上げた。彼がこうして立っているということは、倒れたのはおそらく騎士団長だ。


 私があれだけ苦労した相手を、こんな一瞬で。

 ずる、とコートを掴んでいた手がそのまま地面に滑り落ちた。感覚のなくなった手は泥と血で汚れ、私はただそれを見つめていた。


「クリスティア、大丈夫!?」


 ばさっとコートが翻り、殿下の金色の髪が視界の端に映る。

 殿下が泥だらけの地面にしゃがんでいる。殿下が私に目線を合わせてくださっている。

 それなのに私は彼の顔を見ることができなかった。


「……どうして?」


 ぽそっと呟いた言葉に、殿下が動揺したことがわかる。


「……ごめん、クリスティア。僕がもっと早くここに来ていればこんなことには……」

「違います! 私はどうしてあなたがここにいるのか、と聞いてるんです!」


 左右に大きく頭を振って彼の言葉を否定する。

 なんて優しい王子様だろう。屋敷と家族を燃やされ、傷ついた私を気遣ってくれる。

 それが余計に、私を惨めにさせるとは知らずに。


「呪いは解けたんでしょう! 王太子に戻れたんでしょう! こうして、塔から降りることができたんでしょう……! ようやく自由になれたのに、どうして私のところに来たんですか……?」


 涙が溢れて、声が震える。

 今回の一件でよくわかってしまった。


 私はこの方に相応しくない。


 美しくもない。たいして強くもない。家の力もない。人望もない。心だってこんなにも醜い。


 優しくて、強くて、美しくて、呪われてもまだこの国の王にと望まれるような、そんな人には相応しくない。


 この方に私は必要ない。

 この方に私はいらない。

 いらない。


 ——私には。


「呪われてないあなたなんて、見たくもない!」


 ここまできても願ってしまう。あなたが呪われたままならよかったのに、と。


 綺麗な服を着て、元の色の瞳で、広い夜会の会場で、たくさんの人に囲まれるあなたなんて見たくない。そこで多くの人に心からの笑顔を向けるあなたなんて見たくない。


 望めない。私はあなたの幸せを望めない。


 よかったと思いたかった。あなたの呪いが解けて、普通に戻れて、たくさんの人に囲まれるあなたを見て、心の底から本当によかったと思いたかった。


 そんな綺麗な私でいたかった。

 世界で一番美しいあなたの隣に立てるくらいに、綺麗でいたかった。


 呪いを解きたがっていたあなたに、ずっと呪われたままでいてと私は願った。

 そんな醜い私をあなたに見られたくはなかった。


 あの頃と同じような、子供みたいな癇癪。溢れる涙は止まらない。


「……どうして、私のところになんて来たんですか? もう、あなたに私は必要ないでしょう?」


 涙で歪む視界に、殿下の手が映り込んだ。白くて、傷一つない綺麗な手。騎士の訓練でタコとまめだらけになった私の手とは大違いだ。


 もちろん、そんな訓練なんて何の意味もなかったのだけれど。


 頬に触れかけた手から、わずかに身を捩って逃げた。触れてほしくなかった。綺麗なあなたに醜く縋ってしまうから。殿下を汚したくなかったから。


 殿下の手は私の意を介したように止まり、それでもそこから引くことはなかった。


「クリスティア、約束は覚えてる?」


 殿下が問う。

 約束。すぐに思いつくのは、あの時のもの。


『この呪いが解けたら、真っ先に君に言いに行くよ、『今までごめんなさい』って』


「……あれは、もういいんです。元々殿下が謝ることじゃなかったし。その分の対価はもう貰っていたので」


 だから、もういいでしょう、と言葉を続けようとしたところで、殿下が口を開いた。


「うん。だから、ごめんね」


 殿下が謝る必要はないのに。そう思った瞬間、殿下の手が私の頬に触れた。


「……え?」


 頬に触れた彼の手は氷のように冷たかった。明らかに生きている人間のものではない、肌の冷たさ。

 その冷たさが心地いいと思うのは、何度もそんな彼の手に触れてきたから。


「僕を見て、クリスティア」


 驚愕と一抹の不安を胸に、ゆっくりと視線をあげる。その先には白い月を背景に、世界で一番美しい人がそこにいた。


 月明かりに輝く蜂蜜色の髪に、暗闇でも仄かに光るガーネットの瞳。日に当たってこなかった肌は青白く、それでも男らしさがわかる体つきをしている。


 あの塔にいた時と何も変わらない彼がそこにいた。


「ごめんね、嘘ついちゃった。本当は完全に呪いが解けた状態で君に会いたかったのに」


 そう言って彼は困ったように笑った。


「……どうして? 呪いは解けたはずじゃ……」


 私の疑問に、殿下はあっさりと答える。


「もう一度自分で呪いをかけたんだよ。解呪するためにはその呪いを理解しなくちゃいけないから、自分で解いた呪いは自分で使えるようになるんだ」


 あの呪いは独自のものだったから解析するのが大変だったなぁ、なんて、まるで明日の天気の話をするように彼は話した。


 でも、私にとってはそんなことどうでもいい。殿下が凄いことなんて身に染みている。

 それよりも、何よりも、どうして、と疑問に思うことがあった。


「どうして、また呪いにかかったの、なんて思ってる?」


 私の心を読んだかのように彼は言った。

 その問いに頷きはしなかったものの、私がそう思っていることは誰の目から見てもお見通しだっただろう。殿下にとってもそうだったようで、彼はにこりと微笑んだ。


「僕はね、自分が呪いにかかっているかどうかなんて、とっくにどうでもよかったんだ」


 殿下の冷たい両手が私の頬を挟み込む。そのままコツリと彼の額と私の額が触れあった。


「『また明日』。君に会えるならそれで十分で、本心からそう思っていたはずなのに、だんだんそれだけじゃ我慢できなくなった。綺麗なドレスを着た君を見てみたくなった。君と薔薇の庭園を散策してみたくなった。夜更かしして星や月を君と見たくなった。広い会場で心ゆくまで君とダンスを踊りたくなった。——与えられてばかりの僕が、ドレスも、宝石も、花も、君が望むすべてを与えたくなった」


 吐息がかかるような距離で、私の好きな人が夢のような言葉を吐いている。

 ふわ、と冷え切った頬に温もりを感じた。淡く白い光が全身を包んで、傷だらけの体を癒していく。

 暖かくて、優しくて、甘くて、本当に夢のように幸せな時間。


 やがて夢が終わりを迎えるように温かさも光も消え失せて、殿下の体が私から離れた。わずかに悲しみを含んだ顔で彼は笑う。


「塔から出ればそれができると思ってた。ようやく君に何か返せると思ってた。でも、結局僕は君から奪ってばかりだったね」


 ごめんね、と氷のような冷たい手が私の頬から離れる。

 その手に追いすがるように、私は彼の手を掴んだ。


「いいえ」


 ここで彼の手が離れてしまえば、それが今生の別れになるような気がして。もう一生彼に会えないような感じがして、ギュッと強くその手を握り締めた。


「私は幸せでした。あなたと出会えて私は幸せでした。あなたから生きる希望をもらえました。一日の時間の中であなたに会える時が一番の喜びでした。だから、奪ってばかりだったなんて思わないで」


 ぼろ、と涙が零れた。今日はもう泣いてばかりだ。せっかく殿下の目の前にいるのに、目がパンパンに腫れた不細工な姿を晒してしまう。

 それが嫌だなぁと思うのに、強く握りしめた彼の手を離したくない。

 そんな私を見て、殿下はクスと笑った。


「ずっと、聞きたかったことがあったんだ。クリスティア、君は何が欲しい?」


 握り締めた手がするりと動いて、指を絡めるように繋ぎ直される。まるで、私の答えがわかっているみたいに。


「ずっと、ずーっと、あなたと一緒にいたいです。百年でも、二百年でも、永遠に」

「……ふふっ、思ったよりも欲張りだね、クリスティア」


 しっかりと繋いだ手が引かれるままに、迷わず彼の腕の中に飛び込んだ。トン、と軽く地面を蹴る音がして、いつぞやに経験したような浮遊感が全身を襲う。

 目を開ければ愛しい彼の姿と、暗く広い夜空に浮かぶ大きな月、そして私たちを取り巻くように飛ぶコウモリの群れが見える。

 体が宙に浮いている。それでも恐ろしさなどこれっぽっちも感じないのは、あの人と手を繋いでいるから。


「じゃあ、ずーっと一緒にいよう。この呪いが解けるまで」


 そう言って、空いた片腕で彼は私を強く抱きしめてくれた。それに応えるように私も彼を抱きしめる。


「君に祝福を。クリスティア」


 彼の瞳と同じガーネットの光が私の全身を包む。急速に体温が失われ、五感がやけに研ぎ澄まされていくのがわかる。体が作り変えられていく。なのに、何も怖くない。彼がそばにいるから。


 バサリ、とコウモリの羽がはばたいた。あの人と同じ体温、あの人と同じ色の瞳、あの人と同じ呪いにかかったこの体。ボロボロで泥だらけのドレスだけは気に食わないが、この際贅沢は言うまい。


「大好きです。ヘリオット様」

「大好きだよ。クリスティア」


 白い月が照らす彼の顔はいつか私が見たかったとびっきりの笑顔で。

 それだけで私は満足なのに。


「踊ろうよ、クリスティア。縛るものは何もない、この大空の下で」


 そう言ってあなたが私の手を引いてくれるから。

 それだけで私は幸せなのだ。




   ♰




 その後の国がどうなったのか、私たちは知らない。

 その国では一人の王子が消えて、とある男爵家がつぶれた。国民に流布されたのはそれだけ。


 私たちは知らない。

 永く生きたその中で、いつの間にかその国は滅んで、いつの間にか新しい国ができていたことしか知らない。


 私たちは知らない。

 私たちが知っているのは、ただ、私たちが幸せに生きたことだけ。

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