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それは今から十年前の話。
ある愛人の娘が男爵家に引き取られた。
初めて会うその娘の父親は、緊張で体を強張らせる娘を国王陛下の前に連れ出してこう言ったのだ。
「うちの娘はとても丈夫で、賢いのです。ご病気になられた殿下の看病にはもってこいでしょう!」
父親を名乗る男は、娘の名を呼ぶよりも先に、その言葉を彼女の前で口にした。
この人は私の何を知っているのだろう。この人は一体何の話をしているのだろう。訳の分からぬまま、ポカンとした顔で父を見上げれば、父はニコリと笑って、私を陛下の前に追いやった。
よろめくように数歩、前に出れば、国王陛下の側に控えていた医者が私の手を取った。そのまま私は父と国王陛下から引きはがされるように奥の部屋へと連れて行かれた。
そこで出会ったのが、吸血鬼になったばかりの殿下だった。さらりと揺れる蜂蜜色の髪。ぼんやりと仄かに光る虚ろなガーネットの瞳。日に当たったことのないような細く青白い腕には、ジャラリと鎖がつけられていた。
明らかに普通ではない雰囲気。何を考えているのかわからない表情。
見る人が見れば倒錯的な感情を抱いたかもしれない美しい少年の姿。けれど、幼い私にとってその姿は恐怖の対象でしかなかった。
怯えて後ろに後ずさる私の腕を強く掴んで、医者はナイフで傷をつける。そこから溢れだした血を見て、少年の目の色が変わった。
悲鳴のような叫び声をあげて、私に向かってガッと飛び掛かろうとした少年を鎖が繋ぎとめる。彼は何らかの衝動から逃れようと身をよじり、そのたびにジャラリ、ジャラリと鎖が鳴る。
目の前にいたのは明らかに異質な存在。
悲鳴は出なかった。体が恐怖で震えた。
怖かった。痛かった。逃げ出したかった。
でも、周りの大人がそれを許さない。
「やはり、健康な若い娘の血が一番か」
怯えてパニックを起こしそうになる私の後ろで、いつの間にかここに来ていた国王陛下が静かに言った。
救いを求めて陛下を見れば、なんの感情も見えない青い瞳が私を見下ろしていた。
「娘よ。我が息子に血を捧げるか、今ここで死ぬか、選べ」
理解のできない言葉。意味がわからない二択。
混乱した私は思わず、先ほどまでいた扉の向こう側、ここまで私を連れてきた父親のいる方へと目を向けた。
そんな私の意図を察したのか、退路を断つように陛下は言葉を続けた。
「お前の父親はお前のことを売ったぞ。ぜひ好きに使ってくれ、と言っていた」
その言葉に私は呆然と陛下を見上げて立ち尽くす。
当時、八歳の少女だった私には、あまりにも理解できないことばかり。その中で何とかわかったことは、父親は当てにならないことと、今ここで助かるためには自分自身で選択しなければならないことだった。
「選べ」
もう一度、グラナート国王陛下が私に問う。
あの時、生きたいと願う私には選択肢はなかった。
——そうして、私は殿下の血袋になった。
♰
後からして思えば、私がアイシクル男爵家に引き取られたのはこのためだったんだな、と思う。
王家からの援助は受けたい。殿下の『看病』を引き受ければ、王家からの覚えはめでたくなる。けれど、可愛い我が子を生贄にはしたくない。
それで、父は愛人の娘だった私に目をつけた。
その愛情の差はあっさりと、目に見える形で現れた。
豪奢なドレスに身を包む姉と、質素なドレスしか与えられない私。
婚約者を探して夜会を飛び回る姉と、看病のためにと早々に休むことを強いられる私。
私が殿下の婚約者になったことで、アイシクル男爵家は多額の援助を受けた。男爵家としては破格の一等地に建てられた大きな屋敷。私に倒れられては困るからと、新鮮な食材が王家から毎日届く。ドレス、宝石、金貨。どれも貧乏男爵家には身に余るものばかり。
家族はみんな、私に感謝した。
これで衣食住に困ることはない。婚約者もこの家の後継ぎも見つかった。
あなたのおかげだ、ありがとう。
そんなことをいうくせに、誰も私に触れない。抱きしめることも、頭を撫でてくれることはない。殿下と接している私から、病気がうつったら困るから。
ありがとうと言われるたびに笑みが零れた。それと同じくらい涙も流した。
悲しかったのか、苦しかったのか、可笑しかったのか。当時の自分には何もわからない事だらけで、それでも当時の私に出来たのは自分自身で決めたことだけ。
殿下の血袋として生きること。そのために八歳の子供からすれば長い長い階段をいつも上っていた。
塔の上にいるのは、吸血鬼になったばかりの殿下。いつも苛立っていて、本や書物を読み漁り、そのたびに何かに怒り狂っては物を叩きつけて暴れていた。
彼のことが怖いといつもどこかで思っていた。年上の、吸血鬼の呪いがかけられた男の子。そんな子と二人っきりにさせられて、怖いと思わない方がおかしい。
そのはずなのに。
初めて会った時みたいに私の体が震えることはなかった。血、と無造作に声をかけられて、左腕にナイフで傷をつけられて、そこから溢れる血を舐め取られても、私の心が動くことはなかった。
心のどこかが凍り付いてしまったみたいだった。泣くことも、笑うことも、しゃべることも、何不自由なく出来るのに、何かが固まって動かなくなってしまったようで。
氷のような冷たい肌、無機質なナイフ、また一つ増える傷と、そこを這う赤い舌。気味悪がったっていい、怖がったっていい、痛がったっていいはずなのに、私の体は何一つ反応を示さなかった。
私の中の何かが壊れてしまったみたいだった。
そうして、私と殿下は日々を繰り返した。塔を上がるたび、傷が一つ増える。治ったと思った薄傷の上から、また一つ新たに傷をつけられて、私はいつまでも血を流し続けて。
私と殿下との間に会話はなかった。
殿下が、血、と言うから、私は傷だらけの左腕を差し出す。私が塔から転げ落ちて、塔の上でしばらく休憩を取るようになっても、それは変わらなかった。
殿下は苛立ちと焦りをあらわにして、私はそれを無感動にただじっと見ている。私たち二人の異常性を指摘する者は、世界のどこにもいなかった。
殿下は私に興味を示さなかった。私がいくら血を流そうが、ずっと黙ったままでいようが、言葉をかけることすらしなかった。
殿下は私をいない者として扱っていた。
そのはずだった。あの日までは。
♰
その日もいつも通りで終わるはずだった。塔に入って、殿下が『血』と言うから私は左腕を差し出す。血を渡した後は、少し休んで、大丈夫になったらそのまま塔を降りる。それで終わりのはずだった。
ギイィ、と重たい樫の扉を開けた瞬間、部屋の主がパッとこちらを振り向いた。何かに期待するような明るい瞳と見たこともないような笑顔。それが私の顔を見た瞬間に固まり、一瞬で失望の色に変わる。
「……どうして?」
初めて聞く、「血」以外の彼の言葉。震える声と呼応するように大きく見開かれたガーネットの瞳が揺れ、その青白い頬に涙が伝った。
「どうして? どうして誰も来てくれないの!? あんなに愛しているよと言ってくれたのに! あんなに大好きだと言ってくれてたのに!」
それが皮切りになったように、少年の顔が歪み、零れ落ちる涙と共に呪詛とも悲鳴ともつかないような言葉が次から次へと溢れ出てくる。
「どうして!? 私の誇りだと言ってくれたのは嘘だったの!? 僕がいればこの国は安泰だと言ったのは!? 僕に期待してくれてたのは、僕を慕ってくれてたのは何だったの!?」
初めて見る、苛立ちと焦り以外の彼の感情。悲しみ、怒り、失望。この頃の私には考えつかないような様々な感情のうねり。
それを目の当たりにして、私はただ呆気に取られていただけだった。
将来を期待されていた王子様。きっと誰からも愛されて、誰からも慕われて、自然と周りに人が集まってくるような人だったんだろう。
そんな彼の現状がこれ。彼が抱くのはきっと、私には少しもわからないような深い絶望。
彼が泣き叫ぶ様を私は呆然と見つめていた。彼にかけてあげられる言葉一つすら思いつかない。
それでも何かしてあげられないかと手を伸ばそうとした私の前で、彼はこちらのことなどまるで視界に入っていないかのように言葉を吐き出した。
「どうして僕のところには人形のようなやつしか来ないの!?」
ピタリと伸ばしかけた手が止まる。
ドクン、と心臓が一度大きく跳ねる。
裏表のない彼の言葉に、凍りついていたはずの心が大きく震え出した。
池に張った氷が割れるみたいに、寒さに気づいた体がようやく震え出すように、弾けた感情が体を意のままに動かす。
少年に伸ばしかけていた手は方向を変え、手元にあった物を引っ掴み、そして感情の赴くままに少年の顔面に叩きつけた。
手元にあったのは、今日のおやつとして持ってきていたケーキ。柔らかいスポンジと生クリームが使われたもの。
だから、それを顔面に叩きつけたところで大したダメージは入らなかっただろう。
それでも、泣き喚く彼を黙らせるには十分だったようで、ケーキを叩きつけた後は先ほどの騒がしさが嘘みたいなほどにシーンとしていた。
「……人形が」
自分の喉から掠れた声が出た。そんなに長い間喋らなかったわけではないのに、喉がカラカラに乾いてやけに話しにくかった。
それでも、何かを伝えたかった。
何かを叫びたかった。
「人形が、血を流すわけがないじゃない!」
その言葉と共に涙が溢れ出た。
「人形が涙を流すわけがないじゃない!」
ボロボロと溢れる涙と共に、今まで凍りついていた感情が溢れ出す。
「痛いのは嫌、傷つけられるのも嫌! 長い階段を上るのは苦しいし、血を渡した後はいっつもしんどいし! みんな、ありがとうって言うくせに、私のほしいものは何もくれない。頭を撫でてもくれない、名前すら呼ばない。みんな、私のことを利用してるだけのくせに!」
心のどこが凍り付いて壊れてしまっていたのか、今ならわかる。きっと凍り付いていたのは、怒りという感情だった。
「人形になんてなりたくてなったわけじゃない! こんなこと、やりたくてやってたわけじゃないもの!」
私の感情の何もかもを無視して、利用するだけ利用しつくす。
私のことをそんな風に扱い続ける人達は——。
「みんな、みんな大っ嫌い!」
ポタ、と手に涙が落ちる。私の声が部屋に反響して、やがてその余韻すらも消え去った。
自分の気持ちを吐き出すだけ吐き出して、すぅ、と息を吸えば塔の空気が肺に入り込む。冷たい、と思った瞬間、はた、とこの状況がどれだけヤバイことになっているかに気が付いた。
塔の上で泣きじゃくった子供二人。片方はこの国の王子様で、半分吸血鬼で、今は顔がケーキとクリームまみれ。そして、彼の顔がそんな風になっている理由は、私が彼の顔面にケーキを叩きつけたから。
目の前の彼は何も言わない。もしかしたらクリームが口に詰まって何も言えないのかもしれないけど、今の混沌ともいえるこの状況に混乱している可能性もある。
事実、この時の私も混乱していた。互いに感情を爆発させて、癇癪を起した。もしも大人がこの場にいたら宥めてくれたんだろうけど、生憎と塔の上にいるのは私たち二人だけ。
『娘よ。我が息子に血を捧げるか、今ここで死ぬか、選べ』
頭の中にあの時の言葉が浮かび、スッと体から血の気が引く。
目の前の少年が腕を動かす。
それを見た瞬間、私はパッと体を翻し、塔の階段を駆け下りた。頭の中に浮かんだ言葉が怖かった。恐ろしかった。
一気に塔を駆け下りて、すぐさま家に飛んで帰り、ベッドの中に潜り込んでシーツを頭から被った。
彼がこのことを誰かに言ったらどうしよう。塔の番人が私の行動を怪しんでいたらどうしよう。今日、殿下に血を渡していないことがバレたらどうしよう。
今、この瞬間も、約束を破ったと言って、家に騎士が攻め込んできたら。
久々にカタカタと震えながら、その日は誰が来ても絶対にベッドから出ることはしなかった。
それでも時間は流れていく。月は沈むし、太陽は昇る。
朝になってもベッドから出てこない私に父親は『お前は殿下の看病をしなければならないんだから』と怒鳴りつけ、メイド長に言いつけてわざわざ朝食を私の部屋まで持ってこさせていた。
朝食のいい匂いがする。お腹は空いているし、喉も乾いている。
それでも食べる気にならなかったのは、あの後からずっと続いていた最悪な気分のせいだ。
あの時、姉が『無理矢理にでも口に突っ込んでやるから』と脅したりしなければ、朝食を食べることはなかっただろう。仮病が使えるのなら使いたかったし、行かなくていいのなら絶対に行かなかった。
でも、結局はいつも通りの日々が続く。行くのを渋る私を父親は家から追い出し、私はいつも通り塔の階段を上るしかなかった。
♰
コツン、コツン、といつもよりも重たい足取りで塔を上る。その間も頭の中は、どうしようという不安でいっぱいだった。
殿下が塔の上でナイフを構えていたら、私を捕まえるために騎士が部屋の中で待っていたら、昨日血を渡さなかったせいで吸血鬼として暴走していたら。
それを考えると怖かった。それでも階段を一段一段上っていたら、いつかは塔の天辺に着く。
恐怖に震える手を押さえて、覚悟を決めて、コンコンと樫の扉をノックする。ギイィ、と重たい樫の扉を開けた瞬間、部屋の主がパッとこちらを振り向いた。
昨日と全く同じ動作にビクリと体がこわばる。樫の扉を盾にして相手の様子を伺えば、彼は私の顔を見た瞬間、バツが悪そうにすぐに目を逸らした。
お互いにお互いの出方を伺っているような時間。気まずさがこの場を支配していて、どう動けばいいのかわからない。
この瞬間になってようやく私は後悔した。起こるかどうかもわからないことに怯えるよりも、こういう時に相手にどう切り出せばいいのかぐらい考えておけばよかった、と。
互いに様子を伺ったまま、目が合えば逸らし、口を開きかけては閉じて、体を動かせば相手をビビらせる。
じり、じり、としばらく不思議な時間を過ごし、そこでようやく殿下の方が口を開いた。
「……血、ちょうだい」
ぽつりと呟かれた言葉はか細くて、それでもこの静かな部屋でははっきりと響いた。床を見ていたガーネットの瞳が不安げに持ち上がり、ゆっくりと私の目を捉える。
私はその瞳から視線を逸らしながら、樫の扉の影から自分の左腕を彼の方に差し出した。
冷たい氷のような手が私の腕を掴み、無機質なナイフが傷をつける。いつも通りの痛みなのに、なぜか今日はびくりと腕が震えた。
それでもすることは変わらない。傷口から滴る血を彼の舌が舐めとる。
いつも通り、いつも通り。そう心の中で呟いて、何故か震えそうになる腕を必死に抑える。
その変化を殿下も感じ取ったのか、腕を掴む力がいつもよりも弱かった。
殿下が血を飲み終えた。それがわかった瞬間にパッと腕を引っ込めて、すぐに樫の扉を閉める。怪我をした腕に包帯を巻くのは普段から自分でしているし、そもそも殿下がいる部屋で体を休める必要なんてない。眩暈が治まるまで階段で座っていたっていいのだ。
冷たい石畳の壁に寄りかかってうずくまる。持ってきたおやつを食べる気力も、包帯を巻く余裕すらなかった。
なんだか無性に泣きたかった。疲れたのか、悲しいのか、怒っているのか、自分でもよくわからない。それでも今は泣きたい気分だった。
ドレスに目を押し付けて、ぐす、と鼻をすする。体が重たくて、このままズブズブと地下まで沈んでしまえばいいのに、とさえ思った。
石畳の床が冷たかった。切られたあとの傷が痛かった。体が怠くて重かった。
こんな暗く鬱屈した感情を抱いて、後どれだけの時間を生きればいい?
死にたくないと願ったあの選択を後悔するほどの絶望が私の中を満たしていた。
そうやって、ぐす、ともう一度鼻をすすった私の耳にふと聞き慣れない音が響いた。
コンコン、と何かを叩く音。初めは塔の番人が私の様子を見に来たのかと思った。けれども、彼は塔に上がることを許されていない。塔の番人が塔の上の部屋に上がってきたことなど一度もなかった。
じゃあ、誰が、と顔をあげ、音のする方を振り向く。すると、今まで一度も内側から開いたことのなかった扉が、ギイィ、と錆びれた音を立てて開いた。
ポカン、と開いた扉を見ていると、そこから塔の主が半分だけ顔を出す。不安そうに揺らぐ、仄かに光るガーネットの瞳。傾げた首の動きと合わせるように金の髪が一房、肩から流れ落ちた。
「……入らないの?」
ぽそっと呟かれた言葉に、私は弾かれたように立ち上がり、逃げるように階段へと一歩踏み出した。
その瞬間、ぐらりと視界が揺れる。一瞬にして平衡感覚が狂い、ずるりと階段を踏み外したのが自分でもわかった。
落ちる。一度目は全身を打ちつけた程度でなんとかなったが、今度はどうなるのか。二度目の落下の恐怖を味わいながら、一度目と同じように掴むところのない空中に手を伸ばした。
ガクン、と体に衝撃が来た。一度目と同じようなゴロゴロと転がり落ちて何度も体が打ちつけられるような衝撃ではない、ズテン、と尻餅をついたようなたった一度の衝撃。
その痛みの衝撃よりも私を唖然とさせたのは、虚空に向かって伸ばした私の手を掴む、冷たい氷のような手だった。
柔らかい。彼の手をそう思ったのは初めてだった。いつも彼の手を固くて、冷たくて、恐ろしいもののように思っていたから。
「大丈夫!?」
ギリギリまで部屋から身を乗り出した彼が言う。
彼からそんな言葉をかけられたのは初めてだった。ポカン、としている私に彼は必死に声をかけてくれる。
「立てる? 痛いところはない?」
いつもとは違う焦りの表情。初めて会った時とは全くの別人のよう。それがますます私を困惑させた。
完全に黙り込んだ私を見て、彼は気後れしたかのように言葉を濁らせていく。するりと彼の氷のような手が離れ、不安げに俯いた彼の顔を金色の髪が覆い隠す。
その姿はまるでそこらへんにいる普通の少年のようで。
「……大丈夫、です」
私は普通に彼に言葉を返していた。
私の声にパッと彼が顔を上げる。喜びか、安堵か。私にはわからない感情に顔を輝かせた彼は、すぐにその表情を曇らせた。
「あの、ごめん。僕がいきなり声をかけたせいだね。驚かせちゃって本当にごめん」
「……えっと」
この時の私は彼にどう返したものか、すごく悩んでいた。
そもそもこの人はこの国の王子様で、調子が悪いのにいきなり立ち上がったのは私で、この人が謝る必要はなくて、というか、この人謝る言葉知ってたんだ、と失礼極まりないような感情が頭の中を回り、自分でもびっくりするぐらいに混乱していた。
そんな私に彼は優しく声をかけてくれた。
「歩ける? もし歩けるなら部屋に来ない? そこは寒いでしょ?」
そう言って彼は私に向かって手を差し出す。
私は一瞬その手を見つめて、それからおずおずと彼の手を取った。
♰
部屋の感じはいつもと変わらなかった。本が散乱していて、名前もわからない実験道具が机の上にずらりと並んでいる。
いつもと違うものがあるとするなら、それはこの部屋の主だろう。いつもは私に目もくれないくせに、今はせっせと私の分の椅子を運んでいる。
一体彼に何があったのだろう。ポカン、とその場に突っ立って彼を見ていると、その少年は私の方を振り向いて、どうぞ、と椅子に座るよう促した。
「寒くない? 暖炉に火が入ってるから、大丈夫だとは思うんだけど……」
「大丈夫、です」
彼は机を挟んだ向かい側の椅子に座った。
彼の言う通り部屋は暖められていて、椅子はクッションが柔らかく座り心地がいい。それでも妙に居心地が悪いのは対面している相手のせいだろう。
それは彼も同じだったみたいで、何回か居住まいを正しながら、気まずそうに口を開いた。
「傷は大丈夫?」
「……えっと、歩けているので、大丈夫、です」
こつ、とつま先を床につけ、クルクルと回しながら、落ち着かない感情を紛らわす。おやつの入ったカゴをギュッと握っていた手には、じっとりと汗をかいていた。
気まずい。どうして部屋に入ってしまったのか。そう先程の自分の行動を後悔していると、彼は私が思いもしなかった言葉をかけてきた。
「そっちの怪我じゃなくて、いや、そっちも心配なんだけど、……僕がさっきつけてしまった方の傷は大丈夫?」
「え?」
びっくりして彼の顔を見ると、彼は申し訳なさそうな顔をしていた。
「包帯、巻いてないでしょ? 傷、見せて」
初めて言われた言葉にどうしていいかわからず戸惑った。ちら、と左腕を見れば、落ち着いた色のドレスに血が滲んでいる。いつもは包帯を巻いてから袖を戻していたから、血がついてしまっていたのだ。
そのまま彼の顔に視線を戻せば、彼はまだ私の様子を伺っていた。
今更、どうして、と思わなかったわけではない。普段傷をつけた後、私のことを一切顧みなかったくせに、と思わなくもない。
それでも私は袖をまくって、彼に傷を見せた。新しく傷をつけられるかも、とはこれっぽっちも思わなかった。なんとなく、そういう人ではないような気がした。
それにほんの少し意地悪をしたくなった気分でもあった。私の傷を見て、彼がすこしでも傷ついてくれたらいい、なんて、そんな意地悪を。
血の滲んだ袖をまくって、左腕を机の上に置いた。先程つけられた傷はもう血が止まっていたが、服の繊維がべったりと傷口に張り付いていた。そのすぐそばには赤黒いかさぶたになった傷が何本も。その傷の下には他のところよりも色が薄くなって残っている傷跡が残っていた。
私の左腕の傷跡を彼はじっと見て、それからぽつりと言った。
「腕、触ってもいい?」
こくん、と私は頷く。それを見ると彼は私の手を取った。
何をする気だろう、と見ていると、彼は私の傷口に手をかざした。ふわ、と彼の手のひらから白い光が零れて、そっと傷口を撫でていく。
暖かい。そう思ったところから順に傷の痛みが引いていく。呆気にとられながら彼の手を目で追っていくと、赤黒くなっていた傷口やかさぶたが綺麗さっぱりなくなっていた。
後に残ったのは、もうすでに治っていた白い傷跡だけ。
「……すごい」
思わず私が口に出した言葉に、彼がびくりと肩を震わせた。そしてバツが悪そうに私の顔をチラリと見ると、彼は思いっきり私に頭を下げた。
「ごめんなさい」
机の上に置かれた左手は氷のような冷たい両手にギュッと握りこまれた。力のこもったその手は小刻みに震えていて、頭を下げられているから彼がどんな顔をしているかもわからない。
王子様からの謝罪に呆気に取られて困惑していれば、彼は頭を下げたまま謝罪の言葉を続けた。
「僕は、僕のことしか見えていなかった。君に何度も血を流させていたことを知っていたのに、それが当たり前のことだと思い込んでいた。君にお世話になっていたのに、痛い思いをさせていたのに、それに対して何もしてこなかった。それどころか、ひどい態度まで取った。本当にごめんなさい」
私の手をギュッと握りこむ彼の両手は冷たくて、力強くて、それなのに少しも怖くなかった。
「……あの、謝らなくても、大丈夫です。私がそうするって決めたことなので。それに、王家からも対価は貰ってるから、謝らなくても——」
「でも、」
私の言葉を遮るように彼は言葉を被せた。ぱっと彼が顔を上げる。さっきまでのバツが悪そうな顔をしていない。真剣な顔をして、綺麗な赤いガーネットの瞳をまっすぐに私に向けてきた。
「でも、君は嫌だったんでしょう?」
まっすぐな言葉が私を貫いた。目頭が熱くなって、胸の奥から何かがこみ上げてきた。冷たい彼の両手の震えはとうに収まっていて、代わりに私の左手が震えだした。
「……いや、でした」
その言葉と共に涙がボロボロと溢れ出す。そんな私を見て、殿下はもう一度深々を頭を下げた。
「ごめんなさい」
彼の真摯な謝罪と共に、彼の優しさがじんわりと心に染み込む。吸血鬼になった後の彼しか知らなかったけれど、きっと元々の彼はこういう人だったんだろうと思える行動だった。そもそも吸血鬼になったのだって、幼い弟を庇ったからで、そんな人が優しくないわけがなかったのだ。
「……あの。あの、頭を上げてください。殿下が悪いわけじゃないってわかってますから」
しゃくりあげて泣く合間に、声を震わせて私がそう告げても、彼が顔を上げることはなかった。
「ごめんなさい」
そう、もう一度彼が言う。握り締められた手に再び力がこもった。
「僕は君を開放してあげることができない。血を貰えなければ、僕は狂ってしまうから。僕はまた君を傷つけてしまうし、苦しませてしまうと思う。でも、それを止めることはできない。本当に——」
「あの!」
大きく声を張り上げて、私も両手で彼の手を握り締めた。突然のことに驚いた様子で彼が顔を上げる。
「わ、悪いことをしたときには『ごめんなさい』って言うんです。でも、その後には絶対に『もうしない』って言わなきゃいけないんです。だから、だから、あの……」
呆けた様子の殿下の顔が目に入る。その顔を見て、私は思いっきり息を吸い込んでから、彼に向かって頭を下げた。
「私も、殿下の顔にケーキを叩きつけて、本当にごめんなさい!」
ギュッと握りこんだ手。シンと静まり返る部屋。頭を下げたはいいものの、彼からの反応は全く返ってこなくて、恐る恐る顔を上げた。
目の前の彼は先程と同じ表情のまま硬直していた。
「あの……、本当に、もうしないから……」
返答のないことを恐れて、そう言葉を続ければ、ぶはっと彼が突然噴き出した。
「……ッ、ふっ、あははははっ!」
一瞬、なんとか耐えようとした努力は垣間見えたものの、結局堪えきれずに彼は笑い声をあげた。その後も肩を震わせながら、必死で笑いを押さえようとしているのが見ていてわかる。
そんなにも面白いことを私は言っただろうか、と疑問に思っていると、それが顔に出ていたのか、殿下が必死で違うから、と笑いをこらえながら頭を振っていた。
「……あの、ごめんね。ケーキを顔に叩きつけられたの、初めてだったから。そんなことあるんだって思い出しちゃったのと、それをそんなに真剣に謝るんだってびっくりしちゃって」
「だ、だって、相手が王子様だったし、ケーキを顔に叩きつけちゃって『不敬罪』っていうやつなのかなって……」
「そんなことを言う人はこの塔のどこにもいないよ」
まだ笑いの余韻が残っているのか、クスクスと笑いながら彼は答えた。
はー、と一息つくように彼は息を吐いて、少し疲れたように視線を落とした。
「悪い事をしたときにはごめんなさい、その後にはもうしない、か……」
ぽつりとそう呟いて、彼は視線を上げた。一瞬だけ彼は私を見て、すぐに目を伏せる。
「……うん、わかった。じゃあ、今はもう言わない。だから、この呪いが解けたら、真っ先に君に言いに行くよ、『今までごめんなさい』って」
「……はい」
顔を上げた彼は今までに見たことのない穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑顔を見て、まるで何かの魔法にかかったかのように、私は惚けた返事をした。金色の髪にガーネットの瞳。氷のように冷たい肌。初めて会った時はあんなにも恐ろしい化け物のように思っていたのに、今では何故そう思っていたのかさえ思い出せない。
「あの、それでね、今更言うのもおかしな話なんだけどね、……名前、教えてもらえる?」
照れを隠すように苦笑しながら、気まずそうに彼が言う。
「……クリスティア・アイシクルです。殿下」
「僕はヘリオット・パム・グラナート。大変な思いをさせてしまうだろうけど、これからよろしく。クリスティア」
そう言って彼は私を気遣うように笑った。
この日からだった。
私がヘリオット殿下を世界で一番美しい人だと思うようになったのは。