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午後三時の鐘が鳴る。町の中心にある教会の鐘の音は、遠く離れた塔の中にも響き渡る。
石畳の階段を上り切り、私は重厚な樫の木の扉をノックした。午後三時の鐘の音は塔の主にもきっと聞こえている。だから彼も、一体誰がこの部屋を訪れたのかわかっているだろう。
はい、と了承の言葉が聞こえる前に私は扉を開けた。ギイィ、と蝶番が擦れる音がして、重たい扉が開く。
中にいたのは今まさに扉を開けようとしていたこの部屋の主。さらりと流れる蜂蜜色の髪と、薄暗い部屋でも仄かに光るガーネットの瞳。日に当たっていない肌は青白く、その割に、彼はすらりと長身で男らしい体つきをしていた。
ああ、今日もお美しい。決して口には出さないけれど。
彼に会えた喜びを満面の笑みに変えて、私は自分の首筋にナイフを添えた。
「殿下~、おやつの時間ですよ。腕にします? 頬にします? それとも、く・び・す・じ?」
コテリと首を傾げて彼に問いかければ、危ないことは止めなさい! と普通に怒られた。解せぬ。
♰
この部屋の主、ヘリオット・パム・グラナート殿下は吸血鬼である。
そして、私、クリスティア・アイシクルはヘリオット殿下の婚約者、兼、血袋をやっている。ちなみに婚約者が表向きの立場、血袋が本来の立場だ。
「だから、思いっきり吸ってもらっていいんですよ?」
「何が『だから』なのかわからないし、そんなに思いっきり吸わないから」
殿下の華麗なツッコミをスルーしつつ、私は首筋に添えていたナイフを構えなおした。
スパッとナイフで傷を入れたのは私の左腕。赤い一本の傷が少し日焼けした肌に走り、そこからツツーッと血が流れだした。
「ああっ、もう! こっちはまだ準備できてないのに!」
流れた血が床に落ちる前に、私の傷口に殿下が口付ける。ヒヤリと氷のように冷たい手が私の腕を掴んで、とどまることなく溢れる私の血を殿下が舐め取っていく。
ドクドクと心臓の音がうるさく聞こえるのは、血が流れ出ているからか、それとも殿下に血を吸われているからか。
私の傷口に舌を這わす、そんな仕草すら美しい。願わくば、ずっと殿下の事を見つめていたい。
本来であれば、対面することも、触れることも、言葉を交わすことも許されない。そんな立場の私がこんなことを願うのは罪深いことだろうか。
もしもこれが罪ならば、きっともうすぐその審判が下る。あと何回、こんな間近で彼と会って、話して、触れることが出来るだろうか。その審判の日が来るときを怯えながら、私はこの美しい殿下の顔を目に焼き付けた。
♰
私、クリスティアとヘリオット殿下が婚約したのは十年前。
ヘリオット殿下はこのグラナート王国の第一王子にして、次期国王になるかもしれない方。
対する私は某貧乏男爵家の娘という、本来であれば王族と相まみえることなど許されない身分の存在。
そんな大きな身分差がある私たちが婚約したのには大きな理由があった。
もともと殿下は普通の人間だった。もちろん、グラナート王家の血筋に相応しい強大な魔力を持っていたが、それも王族であれば普通と言える範囲だった。
ことが起こったのは私と殿下が婚約する少し前。殿下の弟である第二王子が五歳になった。
この国の王族は五歳になると教会で祝福を受けるという慣習があり、この第二王子もまた、教会で祝福を受けるところだったという。
教会の神官が第二王子に祝福の言葉を寿ぐ、その瞬間、野生の魔女が現れた。彼女の目的は第二王子に呪いをかけること。なんでも第二王子の母親に恨みを持つ人物がいたらしい。
祝福を受ける前の第二王子に呪いが……! と思われたその瞬間、間一髪でヘリオット殿下がその間に入り込み、幼い弟を庇ったそうな。
キャー、ヘリオット殿下、カッコイイ! 好き!
そうして殿下は英雄になりました、で終われば全てがめでたしめでたしだったのだけれど、現実はそううまくはいかなかった。
第二王子にかかるはずだった呪いは、こともあろうか、弟を庇ったヘリオット殿下にかかってしまったのだ。
かけられた呪いは吸血鬼になる呪い。ただし、その呪いは半分成功、半分失敗した。理由はおそらくヘリオット殿下がすでに祝福を受けた王子だったから。祝福を受ける前の王子にかけるはずだった呪いは、祝福を受けた後の王子にかかり、効力が半減した。
そのため、ヘリオット殿下は中途半端に吸血鬼になってしまった。
瞳の色が変わり、体温は死人のように冷たくなったが、牙は生えず、太陽に当たっても塵となって消えることはない。そのくせ一番厄介な吸血衝動だけはきっちり残っていたのだから、運が悪かったのか、呪いをかけた魔女の性格が悪かったのか。
何はともあれ、殿下の置かれた立場はその時から一変した。
将来有望な王太子から突如として人を襲う吸血鬼へ。一時は殺してしまえ、という声も上がったみたいだが、国王の親としての情や弟を救った功績からそれだけは免れた。
人としての理性を保っていても、血への飢えは止められない。吸血衝動に苦しむヘリオット殿下にグラナート国王陛下は血袋を差し出した。
グラナート王家に忠誠を誓い、秘密を守る、健康的な血袋を。
つまり、それが私、クリスティア・アイシクルなのである。
♰
「クリスティア、もういいよ。帰って来なさい」
ひらひらと目の前で揺れる手のひらを見て、はっと意識が現実に戻る。超美麗なヘリオット殿下のご尊顔を眺めていたせいで意識がどこかへ飛んでいたようだ。
「もういいんですか? 私まだまだ大丈夫ですよ! あと五リットルくらいいけます!」
「そんなに飲めないよ。それに、君だと五リットルも血液ないからね」
「……体重、増やすか」
「無茶はやめてね」
スーッと赤い線の入った私の左腕を殿下が優しく撫でた。殿下の手のひらから白い光が零れて、赤い線の傷を治していく。いつもはヒヤリと冷たい殿下の肌がこの時だけは少しだけ暖かく感じるから私はこの瞬間が好きだ。決して口には出さないけれど。
中途半端な吸血鬼である殿下は鋭い牙を持たない。そのため、血を飲むためには毎回どこかに傷を作らなければいけなかった。毎日血を与えるたびに増えていく切り傷を見て、殿下は回復魔法を覚えてくれた。
殿下からすれば、自分のために誰かが傷つくのが忍びなかっただけだろう。きっと私が相手でなくても殿下は回復魔法を覚えていた。
でも、私はそんな殿下の優しいところが好き。決して口には出さないけれど。
ニマニマとにやついていた私を見て、殿下は怪訝な顔をした。
その顔を見て、ムニ、と自分の両頬を押し上げる。そんなにおかしな顔をしていただろうか。
銀髪碧眼と言えば確かに少し珍しい色合いだが、容姿としては人並み。髪の色と瞳の色で少し美少女感が出るだけだ。
おまけに健康と貧血対策として騎士の訓練に参加している。儚い印象を与える髪と瞳の色合いは、訓練によって培った健康的な体で完全に相殺された。
とはいえ、決して不細工ではないと思っているので、怪訝な顔をされるようなことはない、と信じたいのだけれど……。
私の不可解な行動をいつも通りの奇行と判断したのか、殿下ははーっと大きなため息をついた。
「君が僕のために色々と行動してくれるのは嬉しいけど、無茶なことはしないこと。もちろん、危ないこともね。今日君が来た時なんて、いきなり首にナイフを当てるからびっくりしたよ」
「別に私、殿下のためだったら死ねますよ?」
「そんなこと言わない」
ぴしゃりと言い切った殿下は実験用のコンロでミルクを温め始めた。
血を吸われた後は体力を回復させる必要があるため、あまり動かないように殿下からきつく言いつけられている。そのため、ミルクぐらい自分で温めますよ、と言い出せないのが悩みだ。
まあ、そもそも殿下の部屋には名前すらわからない実験器具がずらりと並んでいて、何か手伝えるかと聞かれたら、何も手伝えないのが現状なのだが。
「今日のホットミルクはなにを入れるんですか?」
「蜂蜜ときな粉」
「私、ブランデーがいいです」
「男と二人っきりだからダメ」
「えー」
ぶー、と文句を言っても、殿下はブランデーの瓶に手を伸ばしたりはしなかった。
これでも私は十八歳。この国の成人は十六だから、とっくに成人済みである。それでもブランデーを入れてくれないのは殿下が私を子供扱いしているからか、本当に大人の女性として扱ってくれているからなのか、殿下の言葉からは判断できない。
ちなみに殿下は二十二歳。私のことをどう思っているのか、絶妙にわからない年の差である。
はーっと今度は私が溜息をついて、持ってきたカゴの中から桃のタルトを出した。殿下のおやつは私だが、私のおやつは私の分としてちゃんとある。
これは大昔、殿下に血を与えた後、そのまま帰ろうとして塔の階段でぶっ倒れ、地上まで転がり落ちていったときの反省点である。
殿下に血を与えると貧血状態になる、ということを知らなかった当時八歳の私。その事件が起きて以来、回復するまで塔にいてもいいと許可をもらっている。殿下が作ってくれるホットミルクもそうだし、おやつの桃のタルトもその一環。要は血袋がそんな簡単にぶっ倒れられては困る、という事である。
「はい、ホットミルク」
コト、と白いマグカップが置かれる。ふわりと漂う湯気と甘い香り。殿下が作るホットミルクは世界で一番美味しい。うちの料理番や城の料理長でも敵わないくらいだ。
「ちょっと待ってください。私も今タルトを切るので」
「……君がちょっと待って。君はタルトを一体何で切ろうとしてるの?」
「さっき私の腕を切ったナイフです」
「いや、おかしいから!」
タルトの切り方を悩んでいる間に、パッと横からナイフを取り上げられる。空っぽになった右手を見て、私は不思議そうな顔で殿下を見た。
「……何がどうおかしいんです?」
「どう考えたっておかしいでしょ。人を切った後のナイフだよ!?」
「え、でも、殿下は私の血を舐めてるし、私に関しては自分の血ですよ?」
「……お願いだからもうちょっと普通に考えて。血なまぐさい桃のタルトなんて食べたくないでしょ?」
「私、レバー好きなんで大丈夫です」
「……僕が嫌だから諦めて」
そう言って殿下は再び席を立った。ああ、やっと殿下が椅子に座ってくれたのに。ささっとタルトを切ってしまえば良かった。
結局手持ち無沙汰になった私のところに、殿下が別のナイフと二本のフォークを持って戻ってくる。
「……本当に君は予想外な動きばかりするね」
「予想できる動きばかりじゃ面白くないでしょう?」
タルトを二人分切り分けて、殿下はフォークを私に手渡してくれた。そのフォークを使って私は桃のタルトを頬張る。うん、美味しい。適度な甘さが体に染みる。
「どうしてこの子はそんなに面白さを求めるんだろう……」
「逆にこの世界に面白さを求めない人間なんているんですか?」
心底不思議そうにつぶやく殿下に、私は思ったことをそのまま返す。殿下は釈然としない顔でうーん、と唸った。
「理解は出来るけど、君はちょっと過激というか……。今日の最初の発言も変だったよね」
「あれ、外国の新婚さんがよくやるやり取りらしいです」
「腕か、頬か、首筋か、って聞いて、首にナイフを当てるのが?」
「はい」
「絶対うそでしょ」
「うっそで~す」
元気にネタバラシをすれば、呆れたように殿下が笑う。私は殿下のその顔が好き。決して口には出さないけれど。
もちろん、本当に見たいのは呆れたような苦笑ではなくて、心からの満面の笑み。でも、きっとこの塔にいる限り、殿下が満面の笑みを見せることはないのだろう。外の世界に出て、もっと色んなものに触れたりしない限りは。
そして、そんな殿下を私は間近で見ることができない。
「さて、そろそろ帰ります。あんまり長居すると怒られますし」
名残惜しくもホットミルクを飲み干し、タルトの皿を片付ける。ぐっ、ぱっ、と軽く手を握ってみたり、体を動かしてみたりして調子を確認し、私は椅子から立ち上がった。
「送るよ」
「でも扉はすぐそこですよ?」
「いいから」
そう言って、殿下は私と数歩の距離を一緒に歩いた。本当は塔の下まで送ってあげられればいいんだけど、と殿下がぼやくのを聞いて、私はくすりと笑みをこぼした。本当に殿下はお優しい。貧乏男爵家の三番目の令嬢、殿下の血袋でしかない私に対してこんなに気を遣ってくださるなんて。
「そんなに塔の外に出たいんですか?」
「当然だよ」
「……ま、そうですよねぇ」
殿下の言葉に相槌を打って、私は樫の扉に手をかけた。
「それではまた明日。殿下」
重厚な樫の木の扉を開けて、私は殿下に笑いかけた。殿下は部屋の中から扉を押さえたまま、何やら真剣な顔をしている。ん? と思い、首を傾げると、殿下が口を開いた。
「クリスティア、——」
殿下が私の名を呼ぶ。けれど、その後の言葉は声にならなかった。
「……また、明日」
「はい!」
結局、殿下が言った言葉はいつも通りの別れの挨拶。私はそれに元気よく言葉を返す。
私は殿下に手を振って踵を返すと、長い石畳の階段を下り始めた。バタン、と後ろで扉が閉まる音がする。狭い塔の階段にその音が反響するのが少し寂しい。
コツ、コツ、とここを上るときよりもゆっくりとしたスピードで、私は塔の階段を下った。
♰
殿下はこの十年間、ずっと塔に閉じ込められている。彼がこの塔から出られるのは、呪いが完全に解けた時。それまで殿下は塔から出ることを許されていない。
もちろん、この国の第一王子が呪いで吸血鬼になった、なんて国民に言えるわけもなく、表向きは病で臥せっていることになっている。
そして、それがどういう意味になるのか、私は身をもって知っていた。
「だから、あなたには偉そうにしないでほしいのよ。わかるでしょう?」
塔から降りて家に帰る途中、城の中で三人組の少女に絡まれた。正直言って私は人の顔を覚えるのが得意ではないので、この三人のうち二人の名前は知らない。だが、一人だけ顔も名前も覚えている。
金色の髪に菫色の瞳。まるでお人形のようだと称される、リズベット・フラメール公爵令嬢。この国の第二王子であるイオリトス殿下の婚約者だ。
さて、厄介だ。とても厄介だ。できることなら顔を合わせたくなかった人とかち合ってしまった。
私とリズベット様の関係性はとても複雑だ。
病で臥せってはいるが未だ有能だと噂されている第一王子と、健康だがまだまだ未熟だと言われている第二王子。城の中ではどちらが王になるのか、噂が絶えなかった。
そして、二人の王子の対立は必然、その婚約者にも影響を及ぼす。
しかも片方の王子が塔の中から出てこないのだから、その王子の婚約者である私に色々な矛先が向く。たとえば第一王子派からちやほやされたりとか、第二王子派から嫌がらせを受けたりだとか。
もちろん、どちらかと言えば嫌がらせの方が多いのだが、リズベット様からすればそんなことは関係ない。彼女が何よりも気に食わないのは、リズベット様と私が同じ扱いを受けていることだろう。実家の立場を考えればリズベット様の方が上なのだから。
それを考えれば、彼女が私に八つ当たりをしてくる理由は十分にわかる。……わかるのだが、それをめんどくさいと思う心はまた別だ。
内心溜息をつきながら、私はリズベット様に反論した。
「リズベット様。あなたもご存じでしょうが、私が偉そうにしたことなど一度もございません」
「あら、この間の夜会にあなたが出ていたと父から聞いたのだけれど。婚約者のヘリオット様もいないのに、男爵令嬢がいいご身分ね。男漁りでもしていたのかしら」
はん、と嘲笑うようにリズベット様は言い捨てた。
彼女は一応私よりも格上の家のご令嬢で、育ちもいいはずなのだが、一体どこで『男漁り』なんて言葉を覚えたのだろう。おそらくは私をバカにしたい一心で覚えたのだろうが、そんな言葉を使うと自分の品位が落ちると誰も教えてくれなかったのだろうか。
とはいえ、それを指摘するつもりもないし、そんな言葉で傷つくほど私の心はやわではない。
「私が夜会に出席したのはヘリオット殿下の代役としてでございます。ご心配頂かなくとも、私はヘリオット殿下に忠誠を尽くしておりますので不貞行為などはいたしません」
こういう時は感情を見せてはいけない。出来るだけ淡々と事実を伝えるだけに限る。殿下の婚約者になった時から、身に着けた技術だ。
それが気に食わなかったのか、リズベット様はすぐに声を荒げた。
「何よ、病人の婚約者が偉そうに! 王になるのはイオリトス様よ! ずっと病で臥せっているだけの人間に何が出来るっていうの?! あの方がとっとといなくなってくれれば、誰もイオリトス様が王になるのに反対しないのに!」
冷静に、冷静に。相手は公爵令嬢で、十四歳の女の子。
そう思っていたのに、彼女の最後の言葉でプツンと何かがキレた。
いなくなればいい? ヘリオット殿下が? 十年間、好きでずっとあの塔にいるわけじゃないのに?
スーッと感情が冷めていく私に何かを感じ取ったのか、リズベット様たちがわずかに怯んだ。けれど、彼女のプライドが許さなかったのか、まだ彼女は口を閉ざすのをやめない。
「……私は何も間違ってないわ。王になるのは自分だってイオリトス様も言ってたもの。塔の上にいるだけの兄上に何かが出来るわけがないって!」
「……へぇ、イオリトス殿下が」
自分でも思った以上に冷たい声が出た。その声に怖気付いたのか、リズベット様と取り巻きの二人は一歩後ろに後退る。
それを追うように私は一歩前に踏み出した。
「リズベット様。私たち王子の婚約者は彼の方々をお支えするのが役割です。私たちが王になるわけではありません」
「……なによ。そんなこと当たり前じゃない」
「ええ、当たり前のことです。王になるのはヘリオット殿下とイオリトス殿下のどちらか。そして、それを決めるのは我らがグラナート国王陛下です」
「だから、何を当たり前のことを……!」
「陛下はきっとお二人の力量を見て、どちらを王とするのかを決めるでしょう。その時に、彼には何もできない、と相手を侮る者に陛下は玉座を譲るでしょうか?」
私の言葉にリズベット様は黙り込んだ。私はまた一歩リズベット様に向かって足を踏み出して、言葉を続けた。
「ヘリオット殿下は相手を侮ることなど致しませんよ。あの方はまっすぐイオリトス殿下に向き合います。その時にイオリトス殿下はヘリオット殿下に勝てるとお思いですか?」
何も答えないリズベット様の目の前に立ち、私は彼女を見下ろした。相手は十四歳の子供。いくら数の利があろうとも、恐怖を感じた相手を目の前にすると動けなくなるのは当たり前だ。
それでも、リズベット様は体を震わせながらも必死に反論してくる。
「……でも、ヘリオット様は病で臥せていらっしゃるわ! あの方がイオリトス様に勝てるわけがないじゃない!」
「殿下は降りておいでになりますよ」
リズベット様の言葉に、私ははっきりと答えた。リズベット様がはっと息を呑む。そんな彼女に構わず私は言葉を続けた。
「ヘリオット殿下はいずれ塔から降りておいでになります。そのために私はあの方をお支えしているのですから」
そう言って私はニコリとリズベット様に微笑みかけた。もちろん、本心からの笑みではない。心の内を読ませないための笑みだ。
「それで? あなたはイオリトス殿下を王にするために、どのようにあの方をお支えているのですか?」
私の問いにリズベット様は答えなかった。その代わり、真っ赤になって口を噤み、悔しそうな顔をしてこの場から走り去っていく。取り巻きの少女たちも慌ててリズベット様の後を追っていった。
後に残されたのは口喧嘩で勝利した私一人。リズベット様の走り去っていった方を向いて、私は深々と溜息をついた。
なんだかどっと疲れた気がする。リズベット様のことはめんどくさい子だと思ってはいるが、年下の女の子を言い負かすのは気分のいいことではない。
重たくなった足を引きずるようにして帰路につく。
本当に。ヘリオット殿下をお支えしている、なんてどの口が言っているのだろう。彼女に大口を叩けるほど大したことはしていないし、そもそもそんな身分でもないのに。
殿下は呪われて吸血鬼になった。つまり、呪いが解ければ元の人間に戻れる。
グラナート国王陛下はヘリオット殿下に一つ、約束をした。イオリトス殿下が成人を迎えるまでに呪いを解くことができれば、王太子として復権させる、と。
そのためにヘリオット殿下は塔の上で研究に励んでいる。自分の身にかけられた、吸血鬼になる呪いを解くために。
今、イオリトス殿下は十五歳。彼が成人するまで一年を切った。それまでに呪いが解けなければ、ヘリオット殿下はこの先ずっと塔にいる羽目になるだろう。
後一年。後一年で、何もかもが決まる。その時に私は一体どうしているだろう。ヘリオット殿下は一体どうなっているのだろう。
ほんの少し先の事さえわからずに、私は足を自分の家に向けた。
♰
今日も私は塔へ向かう。
『何故、私が男爵令嬢ごときに膝を折らねばならんのだ!』
『アイツが殿下の婚約者でなければ……』
雨の日も、雪の日も、冷たく長い石畳の階段を駆け上がって。
『あの子が殿下の婚約者?』
『あんな子よりも私の方がヘリオット殿下に相応しいわ。もちろん、殿下がご病気でなければ、の話だけれど』
『あの子がヘリオット様を看病しているんでしょう? 下手にあの子に関わったら私たちも病気になるんじゃないの?』
健康のために騎士の訓練に参加して、走り込んで、体力をつけて。
『女の身であんな野蛮なことをするなんて……』
『俺だったらあんなのを嫁になんて取らねぇな』
自分の体を傷つけて、殿下に血を与えるために。
『本当に殿下はあの子と結婚するのか? まだ婚約者の内に新しい相手を見つけた方がいいんじゃ……』
『これは王命なのよ。それに、あの子が殿下を看病しているから、私たちは多額の援助を貰えているの。あの子が犠牲になってくれているから、私たちはこうして生活できているのよ』
私は重たい樫の扉を開ける。
「殿下、おやつの時間ですよ~」
「やあ、よく来たね。クリスティア」
金色の髪にガーネットの瞳。穏やかな笑みを浮かべた世界で一番美しい人。
あなたに会うために、私はこの長い塔を上るのだ。
♰
そして、その日は唐突に訪れた。
今日も殿下に会うために自分の部屋でおやつの準備をしていた時、城から一人の使者が屋敷に訪ねてきた。その手に黒の封筒を携えて。
真っ黒の封筒には当然宛先など書かれていない。もちろん、差出人の名前も。
それでも私宛だとわかったのは封筒に施されたシーリングスタンプのおかげ。封筒にされた真っ赤な蝋の封印を外して、私は中の手紙を確認した。
手紙に書かれていた言葉は一行だけ。
『婚約は破棄』
その文章を読んだ瞬間、私は全てが終わったのだと悟った。
手紙を読んで立ち尽くす私を見て、父と姉が傍に寄ってくる。二人は私の手元をのぞき込んで、喜びの声を上げた。
「そうか、そうか。婚約破棄になったか!」
「良かったじゃない! いくら病人とはいえ、王子の婚約者なんて我が家には荷が重かったもの。やっぱり身の丈にあった相手じゃないと」
「ああ、そうだ! 王家だといろんな家の干渉が激しいが、もっと金持ちで自由な家などたくさんある! そういった家にお前は嫁げばいい!」
そう言って、父と姉は私の部屋を出て書斎へと向かう。きっと私の新しい婚約者を決めに行くのだろう。
私が殿下の婚約者になったおかげで、我が家は王家から多額の援助を貰っている。新しいドレスや流行りのアクセサリーをそろえれば、私みたいな行き遅れでも貰ってくれる人が現れるかもしれない。もちろん、殿下の元婚約者で、様々な悪評が付いた私でいい、と言ってくれる人が現れれば、の話だが。
二人の後ろ姿を見送って、私は再び手元の封筒に視線を落とした。無機質な文字に素っ気ない文章。誰が書いたかわからない文章だけど、一つだけわかることがある。
十二時過ぎを示した時計のシーリングスタンプ。これは私だけがわかる符号。
とあるお伽話になぞらえた印。
殿下の呪いは解けた。
魔女の魔法は解けた。
だから、お姫様の時間はもうおしまい。
ポタ、と涙が零れた。
良かった、と自然に思った。
殿下は人に戻れたのだ。これで殿下は王太子として復権する。
良かった。本当に良かった。おめでとうございます、殿下。
殿下を祝福する心とは裏腹に涙が次から次へと溢れてくる。ポタポタと手紙に落ちた涙が染みを作るが、婚約破棄の言葉が消えることはない。
ギュッと手紙を握り締めて、静かにその場で嗚咽する。この涙を誰にも知られたくなかった。
殿下。あなたのことが好きでした。
——決して、口にすることはできなかったけれど。