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月光の思い出

作者: 葉月陸斗

 耳に流れ込むように伝わってくるのは一つの旋律。



 とても静かで、とても澄んでいる一つの旋律。


 

 これを奏でているのは誰だろうか。少なくとも僕ではない。手に鍵盤をたたいている感覚が伝わってこない。あの、冷たくても心地よい感覚が無い。


 

 そもそも、自分は今の自分ではなかった。自分の手を見てみると、小さな手が目に映る。これくらいだと・・・小学生くらいだろうか。


 

 意識もなんだか、いつも以上にふんわりとしていて夢心地のような気分。


 

 此処は夢の中?



 そう思った刹那、耳に流れていた旋律が止む。



 待って・・・終わらないで。



 まだ聞いていたい・・・あの旋律を。だから、止めないで。



 

 ――聴きたいの?




 不意に聞こえてきた、静かに、優しく響き渡る声。



 ・・・この声は、   ?



   の腕に抱きかかえられる。ほっそりとした腕に綺麗な柔らかい手。その手によって膝の上に乗せられる。目の前には、鍵盤。



 後ろから伸びるように出てくる手。



 その手が鍵盤を叩く。



 先ほど流れ響いていた旋律。



 心が、幸福で満ち溢れていた。











「・・・ん」


 視界が開いていく。

 最初に眼に映ったのは、少し薄汚れている天井。


「ありゃ・・・寝ちゃったのか」


 なんて言いながら寝ぼけ眼になっている目を擦る。壁にかけられた時計を見てみると、時刻は現在三時半ぴったり。此処に来たのが三時ちょうどで、寝たのもその時間。つまり三十分きっかり、ここで寝ていたという事になる。それだけの時間なのに、少年の思考はいつにも無くぼんやりとしていた。


「はあ・・・良い天気だなあ」


と、年に似合わず爺臭い事を言いながら窓から見える空を眺める。いくつかの雲が気持ちよさそうにぷかぷかと浮かんでおり、気温もこれぞ日本、と言えるほど暖かくて気持ちが良い。

 まさに、秋晴と言える今日この頃、琴森樹(こともりいつき)はさる教室で椅子を何個か連ねて作った簡易ベッドで惰眠を食っていた。

 寝癖なのか癖っ毛なのか、今一つ判断がつかない黒髪。素材は悪くないく、むしろ良いとも言えるがいつも眠たそうな顔をしているのでいまいち頼りなさそうに見える。が、一部の女子生徒の間では人気があるとかないとか。

 まあ、そんなことは当の本人は知る由もなく、というより興味無く、今日もこの放課後の時間、真っ直ぐ家に帰らずここに来ていた。

 とある県にある私立常磐高校の三階奥に位置するこの教室――通称「物置」と呼ばれているこの教室には樹一人きり。今では何でそう呼ばれるようになったのか教師でさえ忘れられている始末。

 だが、此処に来れば大抵理由は納得してしまうだろう。作為なのか無作為なのか分からない置かれ方をされている古書の山々。うっすらとした埃を纏っているグランドピアノ。剣道部が置いていったと思われる竹刀が籠の中に何本か。何年か前に発売されて今では旧式扱いにされてしまっているデスクトップパソコン。その他などなど。

 ここに入学した当初、色々散策などをしていた樹は此処を見つけた。何処か外界との世界が遮断されたこの空間が気に入り、先生に頼みこんで掃除・管理という名目をつけることで此処の使用を許可されている。樹のお気に入りの小説を読んだり勉強したり、はたまた仲の良い友達が来て談笑したり遊んだり。既に私物化してしまっているが、元々放っておかれた教室のため誰も文句など言わず、というよりも教師の殆どがここの存在を知らない。いわば隠れた名所となっているのだ。

 そんなこの教室も、樹の出現により「生徒に使用される」という役割をもう一度得たのであった。


「平和だねー・・・・・」


 しみじみとそう呟く樹の表情は「幸せ」の一文字を見事に宿していた。

 親が遅くまで働いている琴森家では一家全員が揃うという事が少ない。だからこそ、一緒に過ごす時間を大切にしている訳であるが、家にいてもつまらないだけだと、樹は小さい頃から家にいず外にいることが多かった。小学校の時は友達と日が暮れるまで公園で遊び、中学に入ってからは図書館で一人本を読む時間が増え、今現在は学校の教室一つを使用するまでに至る。こうして見てみると、なかなかの進化っぷりである。


「・・・それにしても、なんか暇だな」


 うーんっ、と背伸びをするとテーブルに置いてあるもう何回読んだのかも忘れてしまった文庫本を手に取り読み始める。

が、寝過ぎたのか思うように活字が頭の中に入ってこない。


「ふーむ・・・」


 結局、読むのを止めて本を閉じ、じっと天井を見つめる。

 ちょっと薄汚れた天井を見て、少し掃除をした方が良いかな、なんて事を思う。でも天井を掃除するとなると一回この教室にある物全てを外に出さなきゃならないから、やっぱり放っておいてもいいだろう。そういえば此処に置いている茶葉がそろそろなくなる頃だ。また行きつけの店に行って補充しておいたほうがいいな。ああ、そういえば今日は好きな作家の新作が発売する日だった。帰りに本屋によって買いに行こう。


「・・・・・」


 色々考え思いつくことはあるけれど、今この場所でやる事が一つも思い浮かばない。簡単に言ってしまえば、かなり暇を持て余している。

 宿題は基本出されない。テスト勉強でもしてみようかと思ったが、別に授業を聞いていれば何の問題もない。本を読もうにも思考がまだ寝ぼけていて話の内容が頭の中に入らない。

兎に角、暇だった。

 と、そんな時。樹の視界にぬっと何かが現れた。


「やっぱり此処だったか」


 何か、というのは小さく笑みを浮かべた一人の少女の顔。

綺麗な黒色の長髪でポニーテールにして纏めていて、顔立ちは大和撫子風の美人といったところだろうか。何処か凛々しくもあり、可愛らしくもある。


「相変わらず眠たそうだな。樹」

「・・・沙希、か。三十分ぶりかな」


 その正体は、家が隣、席も隣という隣づくしの幼馴染である深海沙希(ふかみさき)がそこにいた。


「いっつも、此処にいるな」

「まあ、暇だしね。此処にくれば一応やる事は何かしらあるし。家に帰っても誰もいないしね」


互いの顔は三十センチと離れていない。息遣いが聞こえるほど。

 つまり、かなり近い。

 普通、こういう場合だったら顔を赤めるなりしそうではあるが、そこは琴森樹。そう言った色恋沙汰にはとてつもなく鈍いため「恥ずかしい」などとは思はずいつも通りである。


「珍しいね。この日この時間に沙希が来るなんて」


 時たまではあるが剣道の稽古をしている沙希。その剣さばきは十七歳の少女とは思えないほど鋭く、県大会などでは常に優秀な成績を残していた。それが原因なのか、性格が少々男勝りなところがあり、立場が逆転していると常々思う樹であった。


「今日は、その・・・急に休みになったんだ」

「へえ、それまた珍しい」


 いつもなら稽古がある日。急に休みになるという事は本当に珍しい。


「で、わざわざ来てくれたのか。有難う沙希」


 樹がそう言うと顔を少し赤らめて「い、いや別に・・・」と何処か落ち着きが無い様子で近くにあった椅子に座る。


「じゃあお茶でも出しますか」


 起き上がると、少し奥の方に置いてある茶葉が入った袋を開けて急須の中に入れ、そこに電気ポットで沸かしたお湯を入れる。それから数分待ち、湯呑に注ぐ。綺麗な緑色の液体で満たされると、それを沙希に渡す。


「はい。熱いから気をつけて」

「ありがとう」


 礼を言って、入れたて熱々のお茶を啜る。それは緑茶だったが、いつも飲んでいるものよりもとても美味しく感じた。

 ありと多趣味である樹はお茶に関してはかなりうるさい。元々は母親がやっていたのを見ていて面白そうだと思った事が切っ掛けで、今ではすっかりお茶の魅力にはまってしまっている。


「うん、美味しい。相変わらず結構なお手前で」

「そりゃどうも」


 樹も自分の湯呑を出して注ぎ、ふーっとしてから啜る。


「我ながらいい感じかな」


その様子を穏やかな笑みで見ている沙希。手に持つ湯呑の温かさをしっかりと握りしめながら。


「でも珍しいね。急に稽古が中止になるなんて」


 沙希の稽古は週に四回。その一つが休みになるという事は今まで指で足りるほどしかなかった。しかもそれが急に無くなるという事は今まで無いに等しい。


「そ、そうなんだ。今日の朝、急に無いからって連絡があって」


 そう言うと沈黙が辺りを支配する。いつものように会話が続かない。

 なんだかぎこちないなと心の中で首を傾げていると、


「い、樹!」


 突然、意を決したという顔になった沙希。


「は、はい! なんでしょうか・・・」


 思わず敬語になってしまうほどの凄味がそこにあった。

 沙希は少し俯くと、床に置いてある自分の鞄を開けて手を入れ、取り出す。

 それは、白色の綺麗な便箋だった。


「便箋? どうしたのこれ」

「実は・・・帰ろうとしたら、見知らぬ人から樹に渡して欲しいって、急に」


 最初に見た感想はなんだろう、だったが、これの意味が分からないほど樹は子供ではなく。


「もしかして・・・恋文?」

「今時そういう言い方じゃないと思うけど・・・そう。たぶん、恋文」


 沙希の答えに目を丸くする樹。この世に生を受けてから約十七年と少し。その年月の中で一度もそういったものを貰った事など無かった。だからこそ、なんで自分なんかに、という疑問が真っ先に頭の中に浮かぶ。


「不幸の手紙、とかじゃないよね」

「それは無いとは思うけど・・・」

「そっか・・・。にしても、何でも僕じゃなくて沙希に渡したんだろう」

「恥ずかしかったんじゃないのか? それに私は、何だかんだでお前と一緒にいることが多いし」

「成程。あり得なくもないけど・・・やっぱり直接渡された方がいいなーこういうのは。誰かから経由されて来るものほど恐いものはないね」


 手にあるそれをしばらくじっと見ていたが、やがて沙希がいるのにもかかわらず何の躊躇いもなくそれを読む。そして渡された時と同じようにきちんと丁寧に畳むと、テーブルの上にそれを置く。


「ふむ。水瀬涼香さん、か。隣のクラスで演劇部に所属している子だな」

「なんだ、知り合いなのか」

「それほど親しいってほどじゃないけどね。よく演劇部の手伝いするから、その時にちょくちょく話したくらいだよ」


 どういった経緯だったのかはすでに闇の中となってしまっているが、樹は演劇部の部長及び部員の方々とか仲がいい。文化祭やその他の発表会なんかでは裏方の手伝いをする機会が多く、既に部員の一人にまで数えられているほどである。そのため、女子の演劇部員から好意を持たれてもおかしくなくは無い。

 ふうっと一つ息をつくと、樹は再び簡易ベッドに倒れこむように寝る。


「・・・こんなこと聞くのもあれだけど、どうするの?」


 どこか寂しげな表情を浮かべる沙希。膝に置かれた手が拳を作り、少し強く握られていた。


「断るよ。もちろん」


 もう興味もないといった感じで言う。


「あんまりよく知らない人となんて付き合えない。それ以前に、彼女に好意なんて抱いてないしね。そんな状態で付き合うなんてことしたら彼女に迷惑だし」

「・・・そっか」


 樹の言葉を聞いて、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、沙希の顔が安堵に包まれた。が、それもすぐに無くなり、ほんの少し寂しげな表情になる。


「樹は・・・やっぱりまだ興味が無いのか?」

「ん?」

「その・・・誰かを好きになって、付き合う事に」


 一つ一つ、くちいから搾り取るように紡ぐ言葉。しだいに顔が少しずつ赤くなっていっている。


「うーん。興味が無いって訳じゃないんだけどね。ただ・・・」

「ただ?」


 そこで一拍置く。少し迷うようなそぶりを見せて、


「・・・やっぱりなんでもない」


 とはぐらかす。


「む、なんか気になる」

「まあまあ。そこは気にしない気にしない」


 少し頬を膨らましている沙希を見て小さく笑う。本人は怒っているつもりらしいが、はたから見れば愛嬌があって可愛いとしか思えない。

 それを見ていて樹は、とても愛おしいものを見ている気分になった。

 やっぱり・・・なのか。

 こんな感情を抱くってことは、やっぱり・・・

 でも、これを言うには少し勇気がいる。

 だから、それを考える時間を、もう少し。もう少しだけ。


「それにしても、何で僕なんかに好意を持つのかな。こんなぼさぼさ頭の奴になんて。自分のことながら不思議に・・・」

「樹?」


 言葉が途切れてどうしたのかと沙希は思ったが、その心配は全く要らない事だという事が分かる。今さっき寝ていたにもかかわらず、樹は再び眠りについてしまった。

「ぐーっ」といった規則正しい寝息を立てながら、気持ちよさそうな表情を浮かべている。


「・・・まったく。いつもこれなんだから」


 言葉とは裏腹に、沙希は慈しむような目で樹を見る。他の誰にも見せない、樹にだけ見せる表情。


「・・・やっぱり、私も水瀬さんと同じ、なのかな」


 そう呟くと、何処か悲愴を宿したような暗い顔になる。


「こんなに近くにいるから、気付けなかったんだな。いままで」


 右手で、そっと樹の頭を優しく撫でる。











 沙希が樹と出会ったのは、小学生のとある夏の日。樹が隣に引っ越してきたことが始まりだった。

 インターホンの音が鳴って玄関に行ってみると、そこには優しそうな感じの樹の両親と、今と大して変わらない、少しだけ眠たそうな顔をした樹がいた。それを見て「頼りなさそう」と思ってしまうのは仕方のない事だろう。

 そんなある時。いつものように樹と一緒に遊ぼうと向かった時、一つの旋律が耳に流れてくる。

 今でも覚えている。とても静かで、とても澄んでいる旋律。

 少しの間聴き惚れていて、ハッと気づいたときにはそれは終わっていた。

 樹の家に入ってみると、そこで見たのはピアノの前に座っていた樹だった。



――今の、樹がひいたの?


 

そう尋ねてみると、満面の笑みでこう言った。



――うん。今のはね、お母さんが好きな曲なんだ。だから、いっしょうけんめい練習してひけるようになったんだ。



 その時見せた樹の笑顔は、沙希の頭の中に残っている。

 それ以降、樹の印象が「頼りなさそう」から「不思議な人」に変わった。

 一緒にいる時間が増えていくにつれて、だんだん樹のことを知り、もっと知りたいと思うようになった。最初は何でそう思うのかが沙希には分からず、別に気にもしなかった。

 樹の隣にいる。それだけで十分。

 でもそれが、樹を好きになった気持から来たという事が、中学の時にようやく知った。

 その頃の樹は今の樹そのものみたいなもので、何でもそつなくこなし、昔と変わらない他人への優しさから割と人気があった。女子の好意的な想いには全く気付けていないのも変わっていない。人は時と共に変わっていくというけれど、樹はそれの逆で。どれほどの時が流れようとも、樹だけは変わらない。

 そんなある時だった。

 樹の母親が亡くなってしまったのが。

 元々体が弱いらしく、樹を生んでなお元気に暮らしていたこと自体、奇跡に近い事だったらしい。

 その知らせを聞いて、慌てて病院に行った沙希が見たものは・・・

 初めて、樹が悲しみで打ちひしがれていた姿だった。

 いつも穏やかでのほほんとしていて、それでいて温かくて。

 それが、初めて無くなっていたのを、沙希は見た。

 顔をくしゃくしゃにして、眼には涙を浮かべていたけれど、それでもそれを零すことはなく、懸命に手でぬぐっていた。

 それを見た沙希は何も言わずに、黙って後ろから強く抱きしめた。突然の抱擁に驚いた樹だったが、沙希の温もりに身を委ねるように目を閉じ、少しだけ、ほんの少しだけ体を預ける。

 

 この時から、沙希は樹を支えたいと思い始めた。

 強くも儚い、大好きな人を。











「・・・ん」


 視界が開いていく。

 眼に映るのは、少し薄汚れている天井。


「ありゃ・・・また寝ちゃったのか」


 どうしようもないなと苦笑しながら体を起こす。窓の外を見てみると、空は黄昏色に染まっていて、太陽が一日の役目を終えようとしていた。


「・・・すぅ」

「あれ・・・・・」


 横を見てみると、机に伏したまま、静かに寝息をたてて寝ている沙希がいた。油断したようにすやすやと寝ているその顔を見て、また小さく笑う樹。


「やっぱり、か」


 そんな沙希の顔を見ながら、自問自答するかのように呟く。


「いやはや・・・どうやら僕も健全な男子の一人みたいだな」


 そう言って、また空を眺める。

 あの日――母さんが亡くなった時と同じ黄昏色の空。何かの終わりを告げるその色は、確かに母さんの命の終わりを告げていった。

 目の前で突然、時計の針が止まったかのように。本当にプツリと、静かに止まってしまった。

 今はもう受け入れているけれど、その当時は心の中が滅茶苦茶になっていて、表では平静を装っていても、樹の心はボロボロになっていた。

 これが、死ぬという事。

 初めて目の当たりにしたそれは、樹が思っていた以上に遥かに重く、遥かに残酷な事だった。

 そんな時に、優しく支えてくれたのが、いつも一緒にいた幼馴染。

 病室で泣き崩れていた時も、何も言わないで黙って抱きしめてくれた。あれが無かったら、たぶん折れていただろう。


「だから、今なら言える、かな」


 眼を閉じる。自分の心の奥底にある、それをはっきりとさせる。











「沙希。君が好きです」











 この感情が生まれたのは、初めて出会ったときからなのだろう。

 両親と一緒に、お隣りへの挨拶。その時に出会った、一人の女の子。

 最初に抱いた印象は、太陽みたいに明るい子みたいで。今でもそれは変わらない。

 沙希と過ごす時間が増えていくごとに、霞がかったものが晴れていき・・・やがてそれは、一つの想いとなった。

 でも、その想いを自分は知らない間に自分で隠していた。伝えることで何かが壊れることを恐れていたのかもしれない。

 もう迷いはしない。隠すことも無い。


 一言。たった一言言うだけなのにこんなにも疲れるなんて。

 樹はかなり恥ずかしかったが、これを本人に伝えなければならない。

 寝ている沙希を起こそうとして――


「あれ?」


 よく見てみると、その顔が何だか赤くなっていた。それでいてどこか不自然なような感じがして・・・


「・・・もしかして、起きてる?」

「・・・・・うん」


 眼をゆっくりと開けて、体を起こす沙希。


「えっと・・・いつから、起きてたの」

「・・・樹が起きて、すぐ」


 どうやら樹が言っていたことは独り言ではなくなっていたらしい。樹は先ほど自分が言っていた事を思い出し、入れる穴があったらそこに入りたいなどと思う。


「・・・あの、その」


 今さら恥ずかしがってもしょうがないとは思っても、やっぱりそうなってしまう。


「・・・て」

「えっ」


 俯きながら、小さく呟いた沙希の言葉を聞き取れず、聞き返す。


「・・・もう一回、ちゃんと、言って」


 その言葉に目を丸くする樹。

 つまり、さっき言ったことをもう一回言えということらしい。

 それを聞いて、樹は普段見られない真剣な顔になると、はっきりと、沙希に伝える。


「沙希。君が好きです。だから・・・ずっと一緒に、いてくれませんか」

「・・・・・っ!」


 もう一度、伝える。

 それを聞いた沙希の顔は熟した林檎のように真っ赤に。

 そのまま、沈黙。静寂が辺りを支配する。

 樹は何も言わない。伝えるべきことはちゃんと伝えたから、何も言わない。後は、返事を待つだけ。


「・・・たしも」


 沙希が答える。ゆっくりと、噛み締めるように。


「私も・・・好きだ。樹」


 言い終わると、いつもの笑顔になる。樹だけに見せる、特別な笑顔。

 それを見て、不思議と心が温かくなって。

 





 気がつけば、樹は沙希の唇を自分のそれと重ねていた。







 数秒だったか、数分だったか。唇を離す。

 時間の感覚が曖昧になっている。頭の中が今にも溶けてしまいそうなくらい熱を帯びていた。


「・・・急にするなんて、ずるい」

「あはは・・・つい、ね」


 頬を少し膨らませながらも小さく微笑んでいる沙希と、苦笑しながらも普段は絶対にない顔を真っ赤にした樹。


「だったら、お返し」


 そう言うや否や、樹がしたように沙希も自分のそれを強く、樹の唇に押しつけるように重ねる。いきなりのことに目を丸くした樹だったが、それをしっかりと感じるように両目を閉じる。

 やがて、ゆっくりと離していく。


「ふむ。なんか今日はいつになく積極的な沙希」

「う、うるさい。樹がいけないんだ。とにかく樹が悪い」

「そりゃまたなんで」

「だって、こんな気持ちにさせるのは、樹だけだから・・・。だから、樹が悪い」


 割と理不尽な気もしないではないが、その様子がやっぱり笑いを誘ってしまう訳で。


「・・・ぷっ」

「あっ、笑ったな! 樹のくせに!」


 ビシバシと叩かれているのにもかかわらず、笑いを止めない樹。そんな樹を見てプンスカと怒っている沙希。

 想いを伝えても、二人のこういう所は変わらない。たぶん、これからも。






 しばらく不毛なやり取りが続くと、夕日は姿を消し、代わりに月が世界を照らす。月光に照らされた世界。何処か幻想的な感じだが、結局は夜になってしまった。


「うわっ、遅くなっちゃったな」

「そうだな。どっかの誰かさんがあんな事したから・・・」

「ええっ、そこで僕のせいになるの?」

「どうだろうな。自分の心にでも聞いてみれば分かるんじゃないか」


 うーんと唸ると、樹は自分の胸に手を当てて、そのまま数秒じっとする。


「・・・分かんないや」

「分からないって・・・まあ、樹らしいな」


 学校指定の鞄を背負うと、教室から出ていこうとする二人。


「そういえばさ」

「ん?」

「今日、稽古が休みだって言ってたけど。あれ、嘘だよね」

「えっ? い、いやその・・・なんで」

「いや、別に確証があった訳じゃないんだけどさ。ただなんとなく、そう思っただけ」


 言った途端「うー・・・・・」と唸る沙希。どうやら図星らしい。


「・・・言おうと思ったんだ」

「言うって、何を?」

「だから・・・その、さっきの、言葉を・・・」


 その言葉を聞いてきょとんとした樹だったが、意味を理解すると「あー・・・・・」と言いながら目を少し泳がして頬をかく。


「・・・そうだ」


 樹が何かを思い出したように、教室の奥へと歩く。沙希もそれに続くと、樹は奥に置かれていた、少しの埃を纏ったグランドピアノの前にある椅子に座る。


「今日の記念、なんて言うとちょっと大袈裟かもしれないけど・・・この曲を、沙希に伝えたいと思います」


 すうっ、と息を吸い込んで――





 鍵盤を、弾き始める。






 昔、沙希が樹の家の前で聞いた旋律。


 昔、樹が母親によく弾いてもらった旋律。


 「楽聖」と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人である、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが生み出し旋律の一つ「ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調作品二十七の二『幻想曲風に』」の第一楽章。ベートーヴェンが十六番目に作曲した番号付きのピアノソナタ。

 別名、「月光ソナタ」。

 月光と言っても、そういう雰囲気があるのは第一楽章だけで、第二、第三楽章は軽快なリズムでとても月光とは掛け離れていた。

 樹の母親はこの曲の第一楽章だけを弾いていた。樹が何で第一楽章だけなのかと尋ねると、



――この部分にはね、一つの物語があるのよ。それは作りものだって言う人が沢山いるけど、私はそんなことどうでもいいの。ただここに、一つの物語があるっていうのだけは、間違いないからね。



 その物語は「月光の曲」という名で、十九世紀にヨーロッパで創作され、愛好家向けの音楽新聞あるいは音楽雑誌に掲載されたもの。

 ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く音が聞こえた。良く見てみるとそれは盲目の少女であった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自分の家に帰ったベートーヴェンはその演奏を思い出しながら曲を書き上げた。それが「月光の曲」である。

 でもそれは作り話であり、実際にそれに近い出来事があるにはあるが、そんなロマンチックなものではなかった。

 それでも、樹の母親はそれを「物語」とし、それが宿る第一楽章を愛した。

 樹も聴いていくにつれて、その物語を垣間見たような感じがした。

 だからこそ、この曲は樹にとって、沙希にとっても思い出深いものになっている。

 


 ショパンの夜想曲のように、夜の静けさを感じさせる旋律。その中に、月の微弱ながらも大地を照らす輝きが含まれている。

 曲のテンポは変わらない。一定の静けさを宿したそれが続く。

 暗い夜道を、月の光が照らす。

 闇の中でも、誰もが歩けるようにと、月の道標。

 それが温かくて、優しくて。

 気づけば沙希は聴き惚れていた。昔、初めて聞いた時と同じように。ただただ、聴いていた。弾いている樹も、この曲に聴き惚れていた。まるで自分以外の誰かが自分の手を、指を使って弾いていて、自分はそれを聴いているだけ。そんな感じにさせる。

 やがて、曲の入りと同じように、静かに終わっていく。

 まるで最初から其処に何も無かったかのように、静かに。


「・・・・・」

「・・・・・」


 曲が終わった後も暫く二人は黙っていた。余韻を噛み締めるように、ただ眼を閉じて黙っている。


「・・・どう、かな。久しぶりに弾いたから変になってなかった?」

「全然。むしろ、前に聴いた時より良くなってる気がする」


 素直な感想を述べると、樹の隣へと近づく。


「・・・ようやく、吹っ切れたような気がする。母さんが死んだあの日から、この曲は一回も弾いてなかったから」


 弾いてしまうと、あの時を思い出してしまいそうで怖かった。

 でも、今それは無い。

 歩くのは、一人じゃないから。隣には、月明かりのような幼馴染がいるから。


「一人じゃない」


 樹の考えを見透かすように、沙希が優しく語りかける。


「傍にいるから。これからも、ずっと。だから、一人じゃない」


 その言葉を聞いて、ふっと笑みが零れる。

 





 これからは、二人で歩いていこう。

 その道は暗くて、時には躓きそうになるけれど。

 空には大きくて、真ん丸なお月さまが一つ。暗闇を歩く者たちに、「月光」と言う名前の祝福を。「月光」と言う名前の道標を。

 それと、手を繋ぎながら歩いていこう。

 温もりを感じながら。一人で歩いている訳ではないと思いながら。


「帰ろうか」

「・・・うん」


 月光の祝福が、二人を導いた。




長らくお休みしておりました・・・・・。更に突然、短編を作り上げ、ペンネームも変えました。かなり突発的です。

現代小説を書くとき、どうしてもピアノ曲を混ぜて書く癖があります。今回のお話ではベートーヴェンの「月光」を使わせてもらいました。最初の第一楽章の部分が好きで、第二、第三を飛ばしてしまいます・・・。

これからはなるべく、連載の方も頑張って行こうと思うので、よろしければ応援の方を宜しくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] すいません。文章の途中での改行ですが、あれは僕のPCの表示形式の問題でした。携帯で読ませていただいたときは問題ありませんでした。 ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
[良い点]  綺麗な話だな、と思いました。自分は恋愛小説を書くのも読むのも苦手なのですが、これは結構すんなりと読めます。  両思いの幼馴染が、互いの思いを告白しあうって言うのは定番ですが、しかしだか…
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