人出品子
次話タイトルは「人出品子は動く」
朝だ。
ラジオ体操ではないが新しい朝が来た。
しかしつぐみにとっては希望の朝だとはとても言えない。
昨晩は泣きすぎたせいで、つぐみの顔とまぶたは腫れていた。
重い体を布団から引きはがすと、簡素に準備を終わらせ、いつもより早めに学校へと向かう。
学校には早めに着いたおかげで、まだ沙十美は来ていない。
そそくさと一番前の席に着き、机に突っ伏す。
このまま講義が始まるのを待とうと、目を閉じ小さな闇を作る。
もう少し顔の腫れと心が落ち着いたら、沙十美と話をしてみよう。
そう考えるつぐみの頭に何か触れる感覚。
ゆっくりと顔を上げると、そこには沙十美がいた。
「ほ、ほえ?」
二度三度とまばたきをして、やっとつぐみは目の前の現実と沙十美を認識し、素っ頓狂な声を発してしまう。
「あなたねぇ、『ほえ』って何よ」
呆れたように呟くと、彼女は隣に座る。
つぐみは心の準備が間に合わずに、ついうつむいてしまう。
「そんなにビクビクしなくても大丈夫よ。悪かったわね、昨日。……あのね。これ、私とお揃いなの。つ、着けてくれるでしょう?」
沙十美は小さな青い包みをつぐみの目の前にぐいと差し出す。
綺麗にラッピングされた包みから出したブレスレットは、確かに同じもの。
嬉しさと信じられなさで、つぐみの心臓は大きく跳ねた。
「昨日、買ってきたの。私なりに一生懸命に選んだわ。だから着けてく……。ええっ!」
沙十美が話している言葉の途中で、つぐみは彼女を思いきり抱きしめた。
「ありがとう。嬉しい、とっても嬉しい!」
「お、落ち着きなさい!」
それでもつぐみは、沙十美から離れない。
もう少しだけ、沙十美から香る淡い香水の匂いに包まれていたいのだ。
だが、沙十美に限界が来たようだ。
「お! ち! つ! け!」
一文字ずつ区切りながら、彼女はつぐみを押し返す。
「よ、よかったら着けて頂戴。私もしばらく、これを使っていくから」
それを聞き首がちぎれんばかりにつぐみがうなずくと、ようやく沙十美は笑う。
その姿に、今なら昨日の喫茶店に誘ってもいいのではないかとつぐみは考える。
「沙十美! お礼にこの後、タルトを食べに行こう! 私、早めに行って席を取るか……」
「おーい、ここに千堂くんはいるか?」
入口に現れた女性が教室を見渡しながら、近くにいた生徒達に呼びかけている。
「あ、人出先生。おはようございます!」
数人の女生徒が、嬉しそうに周りに集まっていく。
人出品子先生はドイツ語担当の講師で、つぐみも選択科目で面識がある。
無造作に束ねられた、ビロードのような美しい黒髪。
化粧も社会人のマナーだからするが、最低限で結構! が信条らしく、いつも薄化粧だ。
その分、資質が表れるというもの。
ライトグレーのパンツスーツをさらりと着こなし、集まった生徒たちに微笑む姿。
凛とした顔立ちと女性らしからぬ話し方に、他の先生にはない魅力を感じると男女関係なく、(いや、やや女生徒のほうが多い)人気のある先生だ。
生徒の視線がつぐみ達に注がれ、それによって気づいた品子が沙十美へと声を掛けてきた。
「お、千堂君。すまないが、少し時間を貰いたい」
沙十美はうなずくと足早に、入口の方に向かっていく。
二人が話しているのを、ぼんやりとつぐみは眺める。絵になるなぁというのが、第一印象だ。
目の保養にはいいが、なんだか自分と彼女達との差をそれはもう、感じずにはいられない。
そんな二人が、おもむろにつぐみの方を向き揃ってにこりと笑いかけてくるではないか。
(わぁ! 天使のほほえみって、この二人のことを言うのだろうなぁ)
思わずつられて笑顔になりながらも、ふとつぐみは気づいた。
あれは「にこり」ではなく、なにか企んでいる「にやり」だと。
なぜなら沙十美の唇の端が、プルプル震えている。
妙に嫌な予感が、つぐみの頭の中で甲高い警報音を響かせていた。
心なしか彼女らの後ろで小さな七人の天使達が、ラッパを構えて吹く準備をしているようにすら見える。
「冬野! お前も招集な!」
その声と共につぐみは、抵抗むなしく二人の天使もどきに連行されていくのだった。