或る男の話
次話タイトルは『助けたいのに』
「俺は、俺は今きっと。……運命の分かれ道ってやつに立っている」
唐津は逸る気持ちを抑えつつ、目の前のなんの変哲もない家の扉へ足を進める。
彼女と紡いでいく未来を信じ、彼は扉を開いたのだ。
次の瞬間。
いや瞬間だったのかすらわからない。
彼の目の端に何か、光の線のようなものが見えたような気がした。
次いで、風がびゅうと後ろから通り抜けていく。
立て続けに起こった出来事に、唐津は本能的に扉を閉めてしまう。
「何だ、今の怪奇現象は?」
唐津が自分の頬をつねれば痛みがやって来る。
つまりこれは夢ではないのだ。
「あの! 大丈夫ですか?」
彼女が走ってくるのが見え、気を取り直した唐津はそちらへと駆け寄る。
「どうでした? 弟は居ましたか?」
「いや、中までは見てい……」
言いかけた言葉を止める。
まるで一連の怪奇現象に怯えて、逃げ出したようではないか。
そう唐津は思ったが、やはり恐怖が足を地面に縫い付けている。
よし、ならば二人で警察に行こう。
そうすれば警官の取り調べで、この人の名前や住所が知れるのではないか?
自らのアイデアに満足すると唐津は提案をする。
「どうでしょう? このまま警さ……」
彼の言葉は止まる。
彼女が突然に、唐津の頬に触れてきたからだ。
「腫れています……。どうされたのですか?」
するりと撫でられ、彼の頭の中は触れられた喜びで満たされる。
「中に、何があったのですか?」
彼女は中がどうなっているかを知りたがっている!
扉を今すぐに開けに行かなければ!
己の意思なのかわからないまま、唐津は彼女の言葉を遂行すべく動くことしか出来ない。
踵を返し、そのまま先程の家へまっすぐに向かうと再び唐津は扉を開く。
今度は、前から風が吹いた。
そうとしか言いようがない。
起こった出来事に、全く理解が出来ないまま店の中を覗いた。
しんとした部屋の中には床に、点々と黒い水のようなものが広がっている。
「な、何だよこの水! 気持ち悪い!」
一連の不可思議な光景に混乱し、唐津は思い切り扉を閉じた。
ただうつむき、女の所に駆け出していく。
戻りながらどうしても地面に点々と付いている、黒い水が目に入ってきてしまう。
「何でこの水、この店から道路に続いている! さっきまでこんなのなかったぞ!」
口から勝手にこぼれ出ていく言葉や、この状況に戸惑いながら足を早める。
ようやくたどり着いた彼女の前に立ち、唐津はかすれた声で話しかけた。
「水が……。いや、誰もいないようでしたよ」
「何もなかった。そうなのですね?」
その言葉と共に、唐津の顔へと滑らかな動きで向かってくるのは、女の白く美しい手。
彼の頬にそっと女の指は触れ、そして上へとなぞりながら額で止まった。
触れられた喜びで唐津の頬が緩む。
「お疲れさまでした。全て忘れてお帰り下さい」
言葉が聞こえると同時に、自分の顔へと吹いてくる風になびくように唐津の体は。
彼は喜びの表情をたたえたまま、駅の方へ向かっていく。
「……任務完了。さて、戻るとするか」
よろよろと歩く男の後ろ姿をみやり、そう呟いた女は。
人出品子は、ポケットからピンク色のヘアゴムを取り出すと、髪を結いそのままビルへと戻っていくのだった。




