赤マント青マント
【あらすじ】
主人公は工場勤務の加藤カズオ(38歳)。
未来への希望もなく、他人に不満を募らせる日々を送っている。
そんなある日、公園で携帯ゲームをする子供たちを見かけ、子供たちの恵まれた環境に嫉妬する。
そして、カズオはあることを思いつく。
それは、腹いせに都市伝説の怪人のふりをして子供たちを驚かす、というものだった。
有名は「マントの怪人」に化け、子供たちを怖がらせて悦に浸っているカズオだったが…
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「ったく馬鹿にしやがって! 全然出ねえじゃねえか!」
腹立ちまぎれにパチンコ屋前のゴミ箱を蹴ると、派手な音を立てて中身が道にぶちまけられた。通りがかった子供がこちらをチラチラと見て、母親らしき女が慌てて子供の手を引いて立ち去っていく。それが目に入ってカズオは余計苛立った。心を落ち着かせようとわずかに残ったなけなしの金でラークを買い、通りがかった公園のベンチで立て続けに3本吸った。
気分が落ち着くと、見ないようにしていた現実が頭に浮かんできた。所持金は残り120円。来週の給料日までどうやって生活したら良いのか。いや、たとえ今週を乗り切ってもカズオは自分の未来に希望を見いだせなかった。
加藤カズオ、38歳。漢字で書くと一男。ろくでなしの母が、父親が誰かわからない赤ん坊を生んだとき、長男だからという理由で適当につけられた名だ。それでも母は、産んだ直後はカズオを可愛がって大事に育てていたが、カズオが離乳食を離れると次第に遊び歩くようになった。母は昼の工場の仕事を辞め、夜の世界で働くようになった。それまで託児所に預けられていたカズオだったが、次第に一日中ずっと家に閉じ込められ、母親は母親で朝帰りすると仕事の時間までずっと寝ている生活を送った。カズオがかまって欲しさに母を揺さぶると、母はテレビのリモコンでカズオを殴りつけた。そして夕方になるとカズオに菓子パンを投げつけて出ていくのだった。
何もない部屋で腹を空かせながら母の帰りを待ち続けたが、小学校に上がるとカズオは外出できるようになった。外出を許してくれたというより、母はもうカズオに一切興味がないようだった。
今思えば小学校時代が一番充実していた。友達の家に行くとおいしいお菓子が出てきたし、ゲームもやり放題だ。学校の図書館だっていつまでも時間を潰せた。何もない部屋に帰るより図鑑や偉人伝を読み漁る方がはるかに楽しかった。
母が十分に食事を与えなかったせいでカズオはクラスで1番体が小さかった。そのせいで運動も勉強も出来なかったが、虐められることはなく、むしろカズオはクラスの人気者だった。休み時間になるとクラスメートがカズオの机の周りに集まってきた。目当てはカズオが図書館で仕入れた都市伝説や怪談話だ。口裂け女やカシマさんの話にはみんな震えあがり、話の続きをせがんだ。
しかし学年が上がるにつれ、みんな都市伝説に興味を持ってくれなくなった。「あんなもの子供だまし」と誰もが言い、アニメや最新のゲームの話に夢中になるのだ。テレビもゲームも持っていないカズオは話についていけず、空気を読まずに都市伝説を披露するものだから次第にクラスで孤立していった。
高学年になるとカズオは寂しさを埋めるように掏摸に手を染めた。カズオと母親は浅草の下町のボロアパートに住んでおり、大通りに出ると雷門に行く観光客でいつもごった返していた。稼いだ金で食い物や漫画を買って寂しさを紛らわせていたが、ある日人ごみに紛れて観光客の財布を掏っているところを悪い先輩に目撃され、半ば脅される形で非行集団に入れられてしまった。掏った金を山分けさせられてうんざりしていたカズオだったが、先輩たちはカズオの掏摸の上手さを褒めてくれたし、タバコやシンナーといった刺激的な遊びも教えてくれた。次第に居心地の良さを感じ始めたカズオは、中学に上がるころには立派な「ワル」になっていた。15で家を飛び出し、半グレ集団を経て先輩の紹介でヤクザに弟子入りした。
だがそのヤクザもカズオが30の時に追い出された。掏摸しか取り柄のないカズオは、いつまでも下っ端のままだった。その状況に嫌気が差し、組織に内緒で薬の売買に手を染めた。ヤクザに入ったことで裏社会の人間との繋がりが出来たのだ。売人から薬を買い、高額で堅気の人間に売りつけられた時、カズオはやっと自分が一端の男になれた気がした。
いつまでも俺をコキ使いやがって。ヤクで荒稼ぎして兄貴分の奴らに吠え面かかせてやる。そう思っていたカズオだったが、幻想は長く続かなかった。カズオが薬を売りつける数日前に麻薬取締法が強化され、カズオの動きが警察に嗅ぎつけられたのだ。組織は法整備の気配を見越して薬から手を引いていたが、愚鈍なカズオはそれに気づかず一人暴走し、数日で逮捕された。
情報提供で減刑を狙ったカズオだったが、それが仇となった。カズオの証言で薬の売人が逮捕されたが、顧客リストが存在したことで組織の過去の取引まで明るみに出たのだ。結果として組織から10人の逮捕者を出した後、カズオは懲役3年の刑を食らった。
出所した直後、カズオは道端で3人の男に取り囲まれ、タコ殴りにされて車に押し込められた。ボロ雑巾のような状態で連れていかれた先はかつての組事務所で、カズオはそこで左手の小指と薬指を詰められ、絶縁状を叩きつけられた。絶縁状は日本各地の組事務所に送付されるので、カズオは2度とヤクザになることが出来なくなった。
その後カズオは全国を当てもなく彷徨い、大阪のライン工場に職を経た。ベルトコンベアで流れてくるネジの不良品をひたすら仕分ける作業で、給料は日給で8千円。腰は痛いし目は霞んで仕分けるのも容易ではない。どう考えても死ぬまで続けられる仕事ではなかったが、カズオには他に行ける場所はなかった。
4本目のタバコに火を付けながら、カズオはぼんやりと思った。たとえ今週を乗り切っても、50歳くらいで体力の限界が来るだろう。貯金もほぼないし、年金も払っていない。工場を追い出された後はせいぜい野垂れ死ぬのが関の山だ。こうなるともう笑うしかなかった。
遠くの方で笑い合う声が聞こえた。その方向に目を向けると、自転車に乗った少年たちが公園に入ってきた。少年たちは公園の反対側のベンチに腰掛けると、ゲーム機を取り出す。
わざわざ外に出てゲームかよ。ゲームなら家でもできるじゃねえか。まったく最近のガキどもは…。心の中で毒づいたカズオだったが、不意に虚しくなった。思えばあのくらいの頃が人生で一番楽しかった。こんな自分だって小学生の頃は人気者だったのだ。それが何を間違えてこうなってしまったのか…。
項垂れたカズオの中で沸々と怒りがこみ上げた。目の前の少年たちは随分と小綺麗な恰好をしている。親が子供のために新品を与えているのだろう。俺はクソ母に何か買ってもらったことなど一度もないのに。
嫉妬で狂いそうだった。今すぐ奴らに飛びかかって、服をビリビリに引き裂いてやりたい。甘ったれたツラをぶん殴って、ゲーム機をへし折って、ついでに腕の2、3本もへし折ってやりたい。
ぶるぶると拳を震わせると、ある考えがカズオの脳裏に浮かんだ。直後、カズオは自分の妙案の素晴らしさに震えた。さっそく実行に移そうとベンチから立ちあがり、あれほど苛立ちを向けていた少年たちには目もくれず、カズオはニヤニヤしながら帰路に就いた。
次の日、カズオは公園の公衆トイレの個室に潜んでいた。足元には工具店で買った赤と青のペンキが置いてある。職場の同僚のおっさんから金を借りて買ったものだ。カズオが頼み込んだとき、おっさんは気前良く金を貸してくれた。お人良しさと金遣いの荒さで身を持ち崩した人で、笑った顔には歯が全てなかった。
カズオが小学生の時、披露した都市伝説で皆を一番震え上がらせたのが「マントの怪人」である。マントの怪人は学校のトイレに潜んでおり、用を足しに来た子供の背後から「赤マントと青マント、どちらが欲しい?」と問いかけてくる。友達の悪戯だと思った子供は「赤マント」と答えた。しばらくして、トイレの床に倒れて息絶えた子供が発見される。子供の背中は刃物でざっくりと切られ、赤いマントを羽織ったように血で染まっていた。では「青マント」と答えるとどうなるのか。全身の血を抜かれ、体が真っ青になって命を奪われるのだ。
この話をした後、クラスの誰もトイレに行かなくなり、我慢の限界で授業中に失禁してしまう奴まで出た。カズオはその頃の記憶を思い出し、家で計画を練った。
まず公衆トイレに潜み、入ってきた子供に「赤マントと青マント、どちらが欲しい?」と問いかける。さすがに都市伝説通りに子供を切りつけるのはマズいので、ペンキを用意した。子供がカズオの問いに答えると、答えた方の色のペンキをぶっかけてやるのだ。カズオは個室の中で便器に腰掛けながらほくそ笑んだ。現代のガキどもに本物の恐怖を教えてやろう。きっと誰もがマントの怪人の復活を噂するはずだ。
そうこうしていると、一人の少年がトイレに入ってきた。小学校低学年くらいの、体の小さな男の子だ。一人でトイレに入るのが怖いのか、ビクビクしながら周りのキョロキョロしている。ようし、二度と公衆トイレに入れないくらい怖い思いをさせてやろう、とカズオは口を開いた。
「赤マントと青マント、どちらが」
そこまで言いかけた所で、少年が悲鳴を上げながらトイレから走り去った。慌てて追いかけようとしたが、外で子供を追い回している姿を誰かに見られるとまずい。仕方なく追跡を諦め、別の公園のトイレで仕切り直したカズオだったが、またも結果は同じだった。返答が返ってくる前にターゲットの子供は必ず逃げ出してしまう。
なんだよ、思ってたのと違うじゃねえか。カズオは思い通りにならない結果に苛立った。せっかくの休日を潰したのに、得られたのは消化不良の不快さだけだ。もっと計画を練り直す必要がある。仕方なくカズオは後味の悪さを抱えて出直した。
次の日、カズオはペンキとナイフを入れたカバンを持って個室に待ち構えていた。昨日一晩中考えたが、結局刃物で脅して逃げられないようにする方法しか思いつかなかった。もし失敗でもして顔を見られたらマズいので、カズオはこのためだけに電車を乗り継いで聞いたことのない町までやってきた。思わぬ出費に懐が痛んだので、失敗したらこれっきりにするつもりだった。
しばらく待っていると子供が一人入ってきた。昨日の子供と同い年くらいの少年で、ラッキーなことにサンダルを履いていた。運動靴に比べてサンダルは走りにくいので逃げられる可能性が低い。カズオはこの子供に狙いを定めて、気づかれないよう個室のドアをそっと開けた。
「動くな」
左手で首根っこを掴み、背後から右腕を回して目の前にナイフを突きつける。少年の喉から「ひぃ」と空気の擦れる音が聞こえた。
「赤マントと青マント、どちらが欲しい?」
少年は問いかけに答えず、ぶるぶると震えている。ふくらはぎを蹴ると、少年は泣きそうな声で「あ、あ、あ、赤マント」と答えた。
その瞬間、カズオは左手を離してすぐさまカバンからペンキの缶を取り出した。缶は予め蓋を開けておいて、サランラップをかぶせている。少年の頭上で缶をひっくり返すと、ラップが外れて赤いペンキが少年に襲い掛かった。ペンキが目に入ったのか、少年は凄まじい悲鳴を上げて目を押さえた。カズオはペンキの缶を放り出し、トイレから全速力で逃げた。
走りながらカズオは笑いが込み上げてきた。ペンキ塗れになったあの子供がトイレで泣きじゃくっている姿を想像するととても愉快だった。
体力が限界になり、カズオは立ち止まって激しく息切れした。しかし気分は爽快だった。小学生の時に皆がカズオの話に恐怖した時、カズオはいつも誇らしげな気持ちになった。その時と同じ気持ちが今カズオの中で湧き起っていた。
ガキめ、ざまあみろ。そしてもっと俺に恐怖しろ。
カズオは自分が都市伝説の怪人になったような気がした。もっともっと恐怖をバラまいて、ゲームやパソコンが蔓延するつまらない現実からガキどもを恐怖のどん底に突き落としてやる。そして、誰もが怪談や都市伝説を噂する懐かしの時代を取り戻すのだ。
カズオは謎の使命感に燃えて、満ち足りた顔で帰路に就いた。
しかしそんな幻想もすぐに綻びを見せ始めた。カズオは同じ手口で3回子供をペンキ塗れにしたが、ある日4畳半のボロアパートに帰ってこれまたボロボロになったテレビを付けると、夕方のニュースがやっていた。
「子供を狙った悪戯か 近畿各地で不審者発生」
そのような見出しが表れて、アナウンサーの女が原稿を読みながらしゃべっている。それによると、近畿地方の各県で子供が不審人物にペンキをかけられる被害が相次いでいるという。犯行現場として、カズオが先日わざわざ足を運んだ滋賀県の公園が映し出された。
冷汗が出た。動悸が激しくなり、息を吸うのも辛い。まさかこんなに早く大事になるとは思わなかった。被害が明るみに出ても、せいぜい新聞に載る程度だと考えていたのだ。しかし被害を受けた子供のうち、2人が口と目からペンキが入って救急搬送されたことによって、幼い子供を狙った卑劣な犯行だとして大々的に報じられていた。女子アナに話を振られたコメンテーターの男が、偉そうに腕を組んで口を開いた。
「全く腹立たしい事件だと思います。大の大人が子供に刃物を突き付けてペンキをかけるなんてねぇ。私は大学で犯罪心理学を専門としていますが、こういう事件の犯人はほとんどが社会的弱者であることが多いんです。自分より弱い者に当たることでしか日々の鬱屈を晴らせないんでしょうね」
カズオはテレビの前で拳を床に叩きつけた。黙れ、お前に何が分かるんだ。俺は都市伝説のためにやってるのだ。弱い者に当たることしかできないだと? 俺をそんな連中と一緒にするんじゃねえ。
しかし、コメンテーターの次のセリフに、カズオは一気に肝が冷えた。
「目撃情報によると、犯人は帽子とマスクで顔を隠していて年齢は定かではありませんが、おそらく30代後半から40代前半くらいでしょう。私が学生の時に赤マント青マントという都市伝説がはやりましてね、今回の事件は手口がそれと酷似しているんです」
よく見るとテレビに映る男はカズオと同年代のようだった。男は事件の手口と赤マント青マントについて解説し始めたが、カズオの耳には一切入ってこなかった。
まずい、もうそこまでバレているのか。もはや捕まるのは時間の問題ではないか。
カズオは動揺したが、必死に自分を落ち着かせようとした。
大丈夫だ。用心してマスクと帽子を付けていたので顔はバレていないし、足がつかないようわざわざ他県まで行ったのだ。きっとまだ誰もカズオの仕業とは気づいていない。しばらく大人しくしていれば、いずれ人々の記憶からも消えるだろう。
カズオは必死に自分に言い聞かせ、ほとぼりが冷めるまで様子を見ることにした。
様子見を始めてから1か月経った。最初の1週間はカズオの犯行が取り上げられる度に肝を冷やしたが、直後に人気芸能人の不倫が発覚し、幸運なことに最近はその話題で持ちきりだった。カズオの犯行がうやむやになったのは良かったが、おっさんへの借金返済で再びカズオはすっからかんになり、もやしとパンの耳で食いつないでいた。もちろんパチンコやタバコを買う金などなく、積み重なっていく苛立ちを抑えきれなくなってきた。暇さえあればマントの怪人のことを考えており、カズオは子供をペンキ塗れにした時の光景を思い出しては必死に自分を慰めていた。
しかし、給料が入ったことでカズオの我慢は決壊した。気づけばペンキとナイフを入れたカバンを持って、阪和線で和歌山に向かっていた。
大丈夫だ、和歌山のような田舎なら犯行はバレにくいし、仮にバレてもまた世間が忘れるまで待てばいいのだ。自分にそう言い聞かせながら和歌山駅で降り、電車を乗り継いで適当な駅で降りた。時刻はすでに夕方だ。ずいぶん山の方に来てしまったようで、周りに広がるのは田園風景とオレンジ色に染まる空だけだった。しばらく歩いてみたが、公園は見つからなかった。
しまった、犯行が露呈しにくい場所ばかりに気を取られて公衆トイレのある場所を全く調べていなかった。これでは何もない田舎に電車賃をドブに捨てに来たようなものではないか。
途方に暮れていると、微かな音が聞こえた。耳を澄ますとそれが学校のチャイムの音であることが分かった。音のした方に目を凝らすと確かに学校の校舎らしきものがある。
しめた、学校なら子供がいるに違いない。問題は逃走経路の確保だったが、その心配はなかった。放課後も校庭を開放しているのか、正門の鍵はかかっていなかった。グラウンドで少年たちがサッカーをしているのが見えた。
校内に侵入し、最初に目に入った男子トイレに潜んだ。侵入するときに人に出くわさないよう注意していたが、校舎内に教師や子供の姿はなかった。もうほとんど下校しているのだろう。まだ学校にいるのはグラウンドでサッカーをしていた連中だけかもしれない。カズオは誰か一人でも自分の潜んだトイレに来てくれないかと思ったが、望みは低そうだ。1時間以上待ったが、トイレにはカズオ以外、人の気配すらなかった。窓から差し込む日も弱くなり、トイレ全体が薄暗くなっていく。どうしても諦めきれないカズオは、野宿してでも明日また出直そうかと考え始めていた。
するとその時、遠くの方から足音が聞こえてきた。
「やばいやばい漏れそう」
そう呟きながら少年が一人入ってきた。顔は見えなかったが、さっきサッカーをしていた一人だろう。個室のドアの下側に隙間が空いており、かがんで外を覗くと泥のついたスニーカーが見えた。
土壇場になってターゲットがのこのこやって来るとは。やっぱり俺はツイている。しかもここは学校のトイレだ。放課後の薄暗くなったトイレは辺り全体に不気味な雰囲気が漂っており、まさに完璧すぎるシチュエーションではないか。
カズオは高まる興奮を必死に抑えた。焦りは禁物である。ここで逃げられては元も子もない。音を立てず慎重にナイフを取り出すと、ゆっくりとドアを押した。少年の後ろ姿が視界に入った。
「赤マントと青マント、どちらが欲しい?」
目の前の少年の背中が強張った。
しかしそれはカズオも同じだった。
今の声はカズオが発したものではない。
その「声」は、カズオの背後から聞こえた。
「赤マントと青マント、どちらが欲しい?」
再び背後から形容しがたい声が響いた。男でも女でも、ましてや老人でも子供でもない声。その声が背後から首筋をなぞり、カズオは石のように固まった。
待て、いったい何が起こっている。さっきまで個室には俺しかいなかった。一瞬にして自分の背後に現れるなど不可能だ。しかし、もしそれが「人ではないもの」だとしたら…。
カズオは息を飲んだ。全身から冷汗が噴き出す。鼓動は狂ったように鳴り続けている。理屈では説明できない「何か」に遭遇した今、カズオは今にも気絶しそうだった。
しかし、頭の片隅の冷静な部分がカズオをかろうじて繋ぎ止め、打開策を訴えていた。赤マント青マントの都市伝説には続きがある。マントの怪人に遭遇した場合、怪人の問いかけに対して「黄色のマント」と答えれば命を落とさずに済む、というものだ。黄色のマントという突破口は全国的にあまり知られていないし、地域によっても内容が違う。一部地域では「個室が糞便で埋まる」「どの色を答えようが殺される」という風に広まっている。しかし、自分の背後にいるものが何であろうと、今はこれに賭けるしかなかった。
必死に自分を奮い立たせ、口を開く。声を発そうとしたその時、
「赤マント」
目の前の少年が震える声でそう言った。カズオは思わず「なっ…!」と呻いた。カズオの呻きに少年が勢いよく振り返る。あどけない顔立ちにみるみる恐怖の色が浮かんだ。視線はカズオの背後に向けられており、顔からどんどん血の気が引いていく。
何だ。いったい俺の後ろに何がいるんだ。
そう問いかける前に、少年は悲鳴を上げて逃げて行く。少年の姿が見えなくなった瞬間、カズオの背中に焼けつくような痛みが走った。