突然の来訪者
姉の家で暮らし始めて、1週間が過ぎた。
突然始まった子連れ生活は、当初の予想より上手くいっていた。
亜里沙が聞き分けの良い子供だったというのもあるが、コロナ時短勤務で16時に会社を出れたのが大きい。
ちなみに、問題の食事は、そこそこオーガニックを取り入れることにした。
調味料系は、姉の家にあるものを使用。
肉系は、なるべく冷凍庫の謎肉を使用。
ダシは、スーパーで買った無添加ものを使用。
米は、自宅から炊飯器を持ち込んで、減農薬白米。
姉は電話でブツブツ言ってはいたが、そもそも文句は言わないという約束なので、流している。
そんなこんなで、分からないことが多く、戸惑うことはあるものの、一応は順調な毎日。
ただ、季節の変わり目のせいか、何となく眠れなかったり、亜里沙が夜泣きする日が続いており、亜里沙も俺も少し疲れ気味だ。
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5月3日、建国記念日。お昼前。
亜里沙と俺が近所のスーパーから帰って来ると、姉の家の前に年齢不詳の女性が立っていた。
ジャングル模様のゆったりとしたスモックに、ぴちっとした黒パンツ。
ワインレッドのツバ付き帽子に、やや色の付いた眼鏡。
耳に当てている電話は、ショッキングピンクだ。
―――うわ、なんだあの派手なおばさん。
大阪のおばちゃん、ってやつか?
何で家の前にいるんだ?
そんなことを考えながら近づいて行くと、亜里沙が「あ!」と言って、派手なおばちゃんを指さした。
「ゆうまくん。あれ、くまもとのおばあちゃんかも?」
―――は?
熊本のおばあちゃん、ってことは、良一さんのお母さん。
つまり、姉から見れば、お姑さん、ってやつだよな?
俺は、咄嗟に物陰に身を隠した。
何故か、見つかってはいけないような気がしたのだ。
そっと顔だけ出して、そのおばさんを観察する。
……結婚式で会っただけだからよく分からないけど、確かに良一さんに似ている気がしなくもない。
「亜里沙、あれって、本当に熊本のおばあちゃん?」
「うん。そうみたい。なんでいるの?」
無邪気な亜里沙の質問に、思わず苦笑いが出た。
何でって、こっちが聞きたいよ。
可能性として高いのは “ お見舞い “ だけど、コロナ患者のお見舞いは出来ないはずだ。
一体何しに来たんだろう……。
とりあえず、分からない時は事実確認だ。
俺は、そっとその場から離れると、近くの公園に向かった。
公園のベンチに腰掛けながら、姉に電話をかける。
何度も鳴らすが、留守電にすらならない。
仕方ないので、母に電話するが、母も全く電話に出ない。
最後に、父にかけると、ようやく父が出た。
「もしもし。優真か。どうしたんだ?」
「あのさ、今、姉さんの家の前に、熊本のお姑さんが来てるんだけど、何か聞いてる?」
父は、10秒ほどの沈黙した後、おもむろに口を開いた。
「それは、確かなのか?」
「ヤケに派手な格好してる色眼鏡の年齢不詳のおばさんが、姉さんの家の前に立ってる」
「……間違いないな。熊本の義母さんだ。ちょっと待ってろ。今病院だから、母さんに聞いて来る」
そして、5分後。
母からすごい勢いで電話がかかってきた。
「優真! 熊本のお義母さんが来てるって本当?!」
「うん。派手な格好して、色眼鏡かけてる」
「……間違いないわ。熊本のお義母さんだわ。柚香には電話したの?」
「したけど、全然出ない」
「……そう。困ったわね……。多分、あの子、お義母さんにコロナのこと言っていないと思うのよね」
母の話だと、姉と義母はあまり上手くいっていないらしい。
確かに、あの派手なおばさんと、インドの仙人みたいな恰好(※)をしている姉は、気が合わなさそうだ。
「で、熊本にいるはずのお義母さんが、何でここにいるんだよ」
「……分からないわ。柚香、そんなこと一言も言ってなかったもの」
母も義母が来た理由が分からないらしい。
もう1度、姉と、良一さんに電話をかけてみるが、入院中のせいか、2人とも電話に出ない。
そうこうしているうちに、時間がどんどん過ぎる。
亜里沙も公園で遊ぶのに飽きてきたし、腹も減った。
俺は溜息をついた、
まあ、いつまでも、ここに居る訳にもいかないよな。
仕方ない。
とてつもなく面倒臭いことになりそうだけど、帰って事情を聞くか。
俺は、電話口で途方に暮れて黙り込む母に言った。
「あのさ、母さん。俺、戻るわ」
「え! でも、お義母さんが家の前にいるんでしょ?」
「俺達もいつまでも公園にいる訳にもいかないし、多分お義母さんも困ってるよ」
「……そうよね」
「家に上がってもらって、事情を聞いて、聞かれたら今の状況を包み隠さず言うよ」
母は、しばしの沈黙の後、はあっ、と、溜息をつきながら言った。
「……分かったわ。仕方ないわよね。悪いけど、お願いね」
電話を切り、亜里沙を連れて公園を出ながら、俺は思った。
本当に、姉に関わるとロクなことがない。
今度から、絶対に何か頼まれても断ろう。
***********
公園から歩くこと3分。
姉の家の前に佇む派手なおばさんが見えてきた。
耳に電話を当てている所を見ると、姉にでも電話しているのかもしれない。
面倒の一言に尽きるけど、仕方ない。
頑張るか。
俺は、すうっ、と、深呼吸すると、笑顔で話しかけた。
「すみません。石川良一さんのお母さんですか?」
おばさんは、驚いたように俺を見た。
「はい。そうですけど、どちら様ですか?」
「石川柚香の弟の、優真です。ご無沙汰しております。結婚式以来ですね」
「え? あ、ああ! 柚香さんの弟さんね! ……ええっと、どうしてここに?」
怪訝そうな顔をするおばさん。
多分、誰もいない息子夫婦の家に、嫁の弟が帰って来たことが不思議でならないのだろう。
まあ、俺から言わせれば、あんたがここにいることの方が不思議だけどね。
すると、後ろに隠れていた亜里沙が、嬉しそうにおばさんに飛びついた。
「おばあちゃん!」
おばさんは、目を大きく見開いた後、とけそうな笑みを浮かべた。
「まあ! 亜里沙ちゃん! 大きくなって! 元気だった?」
「うん! おばあちゃんもげんきだった?」
おばさんの態度が一気に軟化する。
どこのおばあちゃんも孫には弱いんだな。
俺は、軽く咳払いすると、亜里沙の頭を嬉しそうに撫でるおばさんに言った。
「こんな所で立ち話も何なので、家に入りましょう」
***********
―――家に入って30分後。
俺は、「チロリアン」という名物らしいお茶菓子を食べながら、夢中でしゃべくりまくるおばさんの話を聞いていた。
「もうね、空港はガラッガラ! あんなに人のいない空港は初めて見たわ!」
「……はあ」
「それでね、記念に写真とったの! ね? ガラッガラでしょ?」
「……そうですね」
「そうなのよ! それでね!……」
機関銃のようにしゃべる、とは、正にこのこと。
姉もよくしゃべるが、このおばさんもよくしゃべる。
しかも、話題がどうでも良過ぎる。
俺は疑問になった。
この人は、一体何しに来たんだ?
良一さんのことを聞かれるかと思いきや、全くその様子はないし、気にしている様子もない。
嫁の弟が、普通にこの家に入ってお茶を淹れてるという不思議行動を取っているにも関わらず、それに対してのツッコミもない。
このまま放って置くと、関係ない話を夕方までしゃべくりまくられる気がして、俺は話を遮るように尋ねた。
「すみませんが、先にご用件をお伺いしても良いですか?」
俺の問いに、おばさんは、きょとんとした顔をした。
「要件って……、息子夫婦と孫に会いに来たのよ。全然電話にも出ないから、どうしたのかと思って」
どうやら、息子夫婦の様子を見るため、緊急事態宣言の中、わざわざ熊本から来たらしい。
俺がこの家にいることについては、「弟に留守番と子供の世話を頼んで、夫婦水入らずでどこかに行っている」と、思っているらしい。
やはり、姉夫婦がコロナ入院していることは知らないようだ。
……これは、早く言った方が良いな。
俺は、覚悟を決めると、すうっと息を吐いて、言った。
「実は、良一さんと姉は、2人ともコロナで入院中なんです」
(*)インドの仙人みたいな格好
無漂白のオーガニック麻などを指す。生成り色とか紺のインドの仙人っぽいゆったりめの服。